昼飯のあと、俺とアルさんは町に繰り出し、近所のカフェ『狐仙軒』へと来ていた。
注文した飲み物が来たところで俺が口火を切ると、アルさんは笑って言った。
二つあります。その内一つは、なかなか悪くない話です。少なくともワタクシにとってはとーっても喜ばしい話!
そしてもう一つは、……まあ、とりあえず後でいいでしょう。ただ訊きたいコトがあるというだけなんでね
アルさんは頷いて、タブレットを開き画面に指を滑らせた。
フレディ。
アナタは《ヴァンパイアの館》の創設前、ワタクシが今の仕事に就く前から、……いや、それよりももっとずっと前から、ワタクシと行動を共にしてくれていました。
そのことに、ワタクシは本当に感謝しているんです
この人はいつもこうだ。大事な話のときほど、遠い外側から話を進めて来る。
それについてはいい加減慣れたので一向に構わないのだが、黙って聞いていたらコーヒーが冷めてしまう。
俺はマンデリンコーヒーを啜りながら、アルさんの言葉の続きを待った。
それこそ、数百年単位の付き合いですよね。
昔ー、えーとどこだったかしら、ロンドンでしたっけね。
ミイラ取りから逃げていたところを匿ったんでしたよね、確か……
そうだったっけ?
……あ、そうか、そうだったな。アルさんとの出会いはイギリスだったな、大英博物館の裏だった!
懐かしいなー……もう何百年前だ?
今日はいつも以上に昔の話から入るな。これじゃ、話終わる前にコーヒー飲み終わるぞ?
――そう思いながらも、薄れかけていた大昔の記憶がよみがえり、俺自身少し楽しくなっていた。
死後覚醒して以来時間の感覚がずいぶん狂っていたが、それにしたって数百年というのはけっこうな年数だ。そんな長きにわたって、こうして一緒に暮らし続けている友人がいるってのは本当に恵まれているな、と思う。
あの頃は今ほど、心身に傷を負った人外や怪物に対する福祉などの発想が浸透していませんでした。
ワタクシたち、がむしゃらにその働きを始めて……ああ、そうそう。怪物福祉協会から手紙が来たときは嬉しかったですよねえ。
そのとき初めて福祉士の資格制度を知って、ワタクシは慌てて資格試験を受けました。アナタもいろいろと手伝ってくれて……うんうん、懐かしい懐かしい。
そんなこともあったっけね。
それが百五十年くらい前? いや、まだヨーロッパを転々としていた頃だから、もう少し前か……時が経つのは早いねえ
俺はコーヒーに角砂糖を一つ入れ、ぐるぐるかき混ぜながら相槌を打った。
昔話も楽しいけど、でもやっぱり早く本題に入らないかな。いったい何の話をされるんだろう。
おっと、本題に入るんだな?――俺はちょっと居住まいを正してアルさんに向き直った。
アルさんは神妙な面持ちで、でも口元に微笑を湛えながら続ける。
アナタは《ヴァンパイアの館》創設前からワタクシと共にいたため、利用者かスタッフかわからない曖昧なポジションにずっといましたね。悪い言い方をすれば居候的な……。
正直、ワタクシもアナタもそれで困ることは特になかったし、またワタクシには手の施しようもなかったので、なんとなーく保留にしてましたが……
あ、確かに。あそこでの俺のポジションとか考えたことなかったわ
でしょ?
でも、この度協会のほうから連絡があってね。ほら、こちらのメールをご覧ください!
アルさんはタブレット内のメールアプリを開き、俺に見せてきた。どれどれ、……
ね、悪い話じゃないでしょう?喜ばしい話でしょう!?
正式に、アナタを《ヴァンパイアの館》のスタッフとして起用したいという協会からのお達しなんです!
いやー、ワタクシは嬉しいですよ!!
アルさんはニコニコ微笑みながら、ぬるくなったローズヒップティーを啜った。
一方の俺は、……率直に言うと驚いていた。
あのお堅い協会の連中が、数百年越しとはいえこんな柔軟な対応をしてくれるなんて、……驚く以外に反応のしようがない。
本当、悪い話じゃないね。むしろいい話だ。驚いた。
スタッフってことは、……まあ、今よりちょっとやることが増えるぐらいだろ?
それで協会から《ヴァンパイアの館》への補助が増えて、且つ俺も給料もらえるんだから万々歳じゃん!
びっくりだわー……!
ね、ね! ワタクシは嬉しいですよー!
一番長い付き合いで、一番の親友であるアナタが同僚になるわけですからね! 嬉しいです!
はは、何か照れるね……
でも、俺自身その話は素直に嬉しいし、ぜひ請けたいね
アナタならそう言ってくれると思ってましたよ!
では、協会の方に返信しておきますねー!
アルさんは意気揚々、タブレットの画面に指を滑らせ始めた。
よかった、と俺は内心安堵した。
さっきのアルさんの態度では、いい話か悪い話かとんと検討がつかなかったから、不安だったのだ。
でもものすごくいい話だったし、アルさんも喜んでくれている。
ほっと息をついてコーヒーの残りを飲み干そうとしたとき、突然アルさんがあっと声を上げた。
そうだそうだ、もう一つの話!
いやーだめですね、テンション上がっちゃってすっかり忘れてましたよ~
へ? あっ、そうか。
そういえば話は二つあるっつってたな
こっちは別にいい話でも悪い話でもないんです。
ただ私が聞いておきたい、知っていたいというだけのことで。いいですか?
アナタの過去についてのことなんです。
ワタクシと出会う前のこと――死後に覚醒する前のこと、イコール生前の記憶、になりますかね
何を今さら言ってるんだ、この人は? ――俺は眉をひそめた。
俺の過去の話なんて、なんで今さら……あ。
ここまで考えたところで思い至った。アルさんと出会ってからの数百年、漠然と俺が生きた時代の話はすれど、俺自身の過去、俺個人の人生に関する話をしたことがない。そして、――
うん、……覚えてない。何も。
思い出せない。
何でかわからないけど。
そう、思い出せないのである。
話すことがなかったから気にしたこともなかったが、生前のことは全く記憶にない。
俺が生きていた当時の文化・習俗についての「知識」ならあるが、俺自身が何をしたか、どう生きたか、誰に会って何を見たか、「経験」に由来するタイプの記憶はまるでごっそり抜け落ちてしまっている。
どうして覚えていないのかさえ、とんと見当がつかない。
いや、……わからない。とにかく何にも覚えてないんだよね。
死んでこの体――ミイラになってから、魂が目覚めるまでに結構な年月かかったんだけど。その間に忘れちゃったんじゃない?
アルさんは腑に落ちないといった様子で、顎に手を添えて首を傾げた。
そんな顔されたって、思い出せないものは思い出せないんだから仕方ないじゃんさ
まあ、そうなんですけど……なんだか、もったいないな、って。
いや、寂しいなって言う方が妥当ですかね。
アナタが生きた証は、アナタの記憶しかないというのに……
俺の体があるからいいじゃん?
俺はたましいだけじゃなくて、生前の体も引きずってきてるんだし
アルさんは唇を尖らせ、眉をハの字に下げた。ローズヒップティーをまた一口啜り、首を傾げる。
……思い出せない、かあ。
思い出したくないわけじゃあないんですよね?
だからそれすらもわからないんだって。
だから“アルフレッド・スミス”なんて凡庸の極みみたいな名前を名乗ってるわけだし
いかにも腑に落ちないといった様子で、アルさんは険しい顔をした。
くどいようですけど、やっぱりもったいないし寂しいですよ。
確かにアナタはアルフレッド・スミスだ。でもアナタはそれだけではないじゃないですか。
生前のアナタは確かに居た、アナタは生きていた。
その証が、今は失われている訳ですからね。……
俺はそれだけ言って、コーヒーを一気に飲みほした。
どうしてだろう、いつもよりも苦く、また酸味が強いように感じられる。
冷たい言い方をしてしまえば、それが仕事だから……ですけど。
でも、それ以上のワタクシの本心は、わざわざ聞くまでもなくアナタならおわかりでしょう?
そうです!
だからワタクシはこういうことをいちいち気にするんです。
アナタが何か抱えているものがありはしないかと。もしあったなら、ワタクシはそこに寄り添ってあげたいのですよ
この人はいつもこうだ。
人の心の闇に寄り添いたがる――というと誤解を招きそうだが、とにかく人の背負うべき十字架(とでもいうべきもの)を共に背負いたがるのだ。
それはきっと、この人の持つ信仰ゆえ……この人が主と奉じる人の歩みを追おうとしているからなのだろう。
そしてこの人はしばしば、この犠牲的な行為を愛と呼ぶ。それも歪みなく、真っ直ぐに。
正直、物好きにも程がある、と思う。まあ、だからこそこの仕事ができるんだろうけど。
俺が顔を上げると、アルさんとばっちり目が合った。
印象的な紅い瞳。出会ったころは、こんなに深い色をしていただろうか。
どこかの美術館で見た磔刑図の血の色、どこかの教会で遠くから眺めた聖餐の葡萄酒の色、――
――ボーッと眺めていると、アルさんはにっこりほほ笑んで言った。
その姿が、誰かに似ていた。
誰か。
……誰だ? その、誰かって……――
フレディ?
……フレディ!? どうしたんですか……フレディ!!
アルさんの声が、やけに遠く彼方から聞こえたような気がした。