5.引っくり返す

文字数 3,108文字

「ジャッ」

目の前で小気味良い音が響き渡ったその瞬間、江波新太郎は、苦虫をかみつぶすような顔をした。

 新太郎は44歳、勤め人としては脂の乗った年齢だといっていい年だ。会社からも期待をされており、昨年度から係長に起用され、全精力を注ぎ込んで仕事にまい進している。
 といっても、もちろん仕事一辺倒というばかりではない。家に帰れば、結婚して16年目になる妻の路子がパートの傍ら、わが家のことをいろいろと引き受けてくれている。娘の美矢ももう中学二年生だ。お決まりの反抗期には少々手を焼いているが、それでも彼女らを労うための年に数度の旅行や、イベントの際のプレゼントなど、気遣いは忘れていない。そういったこともあってか、家族の仲は良好だと言っていい。

 そんな、順調な人生を歩んでいる彼が、なぜ今、苦虫をかみつぶしたような顔をしているのか。

 ことの発端は、今日のお昼過ぎのことだった。夕食の買い物のためにスーパーへと出掛けていた路子。その彼女の漕ぐ自転車が、なんと車と接触してしまったのだ。
 衝撃で道路に投げ出される格好になった路子だったが、それをたまたま見ていた通行人が適切な動きをしてくださったようで、路子の状態を確認しつつ急いで救急車を呼んでくれた。その素早い対処が功を奏したのか、路子は幸い軽症で、数日で退院できる見通しだと、先に事態を知って連絡をしてきた美矢は電話口で語った。
 その話を聞いたとき、新太郎はまず妻の顔をひと目見て安心しようと思い、今日は会社を早退しようと考えた。役職付きで年中激務の会社とはいえ、妻がけがをしても帰らせてくれないほどブラックな勤め先ではない。早速、早退の手続きをしようと思った新太郎だったが、スマホの向こう側の娘がそれを遮った。

「お父さんは大黒柱なんだから、頑張って仕事して。お母さんは私がなんとかするから」

 電話ごしの美矢の声には固い決意が込められていたようだった。もともとお母さん子でもあった美矢は、この一大事にがぜん張り切っているようで、学校から帰ると、すぐに路子の着替えなどといった入院に必要なものを手早くそろえあげ、母の元まで届けていた。そして、看護師も舌を巻くほどかいがいしく母の世話を行い、揚げ句の果てには、退院まで可能な限り母に付き添うので父は病院に来なくてもいいと言いだしたのだ。

 電話で概要を聞いたっきりの状況で、ここまで一気に娘に話をされた新太郎は、目を白黒とさせながら娘の願いを聞くしかなかった。美矢の自分一人でもやれるんだという意気込みや、父である新太郎に心配をさせたくない気持ちは痛いほどよく分かる。それに運良く、娘が通っている中学と路子のいる病院とわが家は三箇所とも近く、移動は苦にならない。その上、路子のけがもそれほどでもない。そして自分は忙しい身の上。考えをまとめれば、娘の言うことももっともだなと感じてしまったのだ。
 だが、本音では路子に会いたいという気持ちもないではなかった。多忙で最近ろくに話もしていないし、少しはベッドサイドでお互いの気持ちを確かめ合うのもいいだろうし、路子が数日動けないという苦境をともにすることで、家族とも絆を深めうことができるのではないかとも思ったからだ。
 だが、どうも美矢の勢いに押されて、自分の思いを十分に言い出せずに押し切られてしまった、そんな感想を心の片隅で抱きながら、新太郎は妻のことを娘に任せる形で着信を切らざるを得なかった。

 日が沈んでいく中、仕事を片付けながら新太郎は考える。今日は家に帰っても愛する妻と愛する娘はいない。そんな誰もいない家に帰ってもどうしようもない。しかし、アポなしで病院へ赴くのも良くないだろう。こういうとき、男手では出来ることも少ないだろうし、母娘二人で話したいこともいろいろあるはずだろうし……。

 そんなふうに考えながら残業をしているうちに、仕事は片付いていた。時刻は21時。遅いといえば遅いが、誰もいない家へとまっすぐ帰るには早いといった時刻。

 帰りの電車に揺られながら考え込んだ結果、新太郎は家の近くのお好み焼き屋ののれんをくぐることにした。家に夕食は用意してないだろうし、家に一人でいれば必然的に思い至るのは妻と娘のことになってしまう。ならば、久しぶりに大いに食って飲んで、家に帰ったらすぐに寝てしまおう。なあに、路子は軽症なんだ。会えないのは心細いが、それも数日の我慢だ。新太郎はそう思い直し、注文を聞きに来た店員にミックス玉とビールとおつまみを何品か頼む。数分後、早速やってきたそのミックス玉をかき混ぜて鉄板に広げ、焼き加減を見計らってヘラでひっくり返した。

「ジャッ」

 ヘラに持ち上げられたミックス玉はもろくも崩れ、いびつな形で鉄板にたたきつけられる。その自分の失態を目にして、どす黒い嫌な予感がインクの染みのごとく心中に広がっていき、新太郎は苦虫を噛み潰したような顔つきになったのである。

「……路子は、大丈夫だろうか」

 別に、お好み焼きをひっくり返せなかったことと、妻の容態にはなんの関連性もない。それは分かっている。だが、何かの暗示ではないか、つい、そう考えてしまう。新太郎は胸騒ぎを覚えつつも、どうにかこの不幸なできごとをプラスに、お好み焼きをひっくり返せなかったことをポジティブに受け止めようと、しばしの間、今までの長い人生の記憶を手繰り寄せる作業に没頭した。


「そういえば、昔からお好み焼き、引っくり返すのが苦手だったな」

 しばらくして、ようやく気持ちを持ち直せそうな糸口を見つけ出し、思わずひとりごちる。

 今までひっくり返し損ねてきたたくさんのお好み焼きが、新太郎の脳内に浮かび上がっては消えていく。それだけじゃない。パンケーキ。これもそうだ、美矢が小さい頃はよく作ったもんだが、あれもうまくひっくり返せたことがない。オムレツ。こいつだって、うまくできたことなんかありゃしない。わが家は料理は当番制なので、父である私もそこそこ料理をしているはずなのに。

 そうやって考えると、自分は「引っくり返す」という行為そのものが苦手なんじゃないだろうか、そんなふうに考えてしまう。いつだって、順当、適切、周囲を裏切らない、そんな人間。前評判を「引っくり返す」ような劇的な逆転勝利をした記憶なんか全くない、勉強や仕事だって周囲の評価を「引っくり返す」ほど、大きく成長したことも、下落したこともない。
 そんなふうに思い返していると、多分、これからの人生も、何かを「引っくり返す」ことなんかないんだろうなあと、新太郎は崩れたミックス玉の形をできる限り整えながら考えてしまう。多分、何事もなく順当に路子のけがは治り、周囲の期待を裏切らない程度にこれからも自分は出世して、美矢も期待を裏切らない程度の男に嫁ぎ、悩みもあるけど、それなりにのんびりした老後を過ごして、いつか世を去っていく。油断はもちろん禁物だが、何となく、そんなふうに人生が収まりそうな気がしてならない。

 もちろん、何かをひっくり返してやりたい、一発逆転を狙いたいという欲望もないわけではない。でも、順当に生きることが困難だった人間もたくさんいる中で、そのような思いを吐露するのは、いささかないものねだりというものかもしれない。「ひっくり返す」ことがない人生。それにだって十分、魅力があるものなのだろうから。

 新太郎は、そんなことを考えることで、先ほどの嫌な予感を心中から断ち切った。そして、崩れたミックス玉にソースやマヨネーズなどをかけ、ヘラで切り分けてそのひと切れを箸でつかみ、頬張りながらビールで流し込んだのだった。
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