22.選別されたもの

文字数 3,000文字

 子供の頃、近所の沼で溺れて死にかけたことがあった。

 今でもはっきりと小学校の2年生だったことを覚えている。その2年生の夏休み、僕は一人で近所の沼にザリガニやカエルを捕まえに行こうという計画を立てていた。
 その沼は非常に大きな草むらの中に存在していた。だが、広大な草むらのどこに沼があるのかは、行き当たりばったりに草むらを探す他の子はなかなか特定できない。そのため、正確な位置を把握していたのは道をちゃんとメモっていた僕ぐらいだった。いうなれば、専用の秘密基地みたいなものだったのだ。

 そして、僕が沼に向かう日。
 その日は、ひどくどんよりとした今にも雨が降ってきそうな曇り空だった。恐らく、普通の大人だったらそのような天候や空気、その他諸々の要素を勘案して、この小さな冒険に待ったをかけたかもしれない。しかし、そのときの僕は小学2年生。やることなすことが初めてで目新しいことばかりの1年生を終え、気が合う友だちのグループもある程度固まり、一人だろうが多人数だろうが、やることなすこと何もかもが楽しい盛りだった。さらに夏休みという長い休みときている。もう向かうところ敵などいないといってもいい。強いて弱点を挙げるとすれば、先生に出された宿題とお手伝いなどを強要してくるお母さんぐらいのものだろう。
 そんなわけで恐れを知らぬ僕は、天気という懸念を強気という突風で吹き飛ばし沼地へと旅立った。道はメモに書いてあるし準備もぬかりない。
 だが、曇り空とはいえ8月の暑いさなかだ。けたたましいセミの鳴き声が響き渡る中、蒸し蒸しする中を汗だくになりながら草むらを行軍していく。滝のような汗と腕やすねに触れる草葉たちが不快感を加速させる。
 これは一筋縄じゃいかないぞと思いつつ、水筒のお茶を飲んで気を落ち着け、再び沼を目指す。
 ようやく目的としている沼がはるかかなたに見えてくる。あともう少し、頑張れと自分を鼓舞して歩いているうちに、気付くと目の前には背の低い草で覆われた、直径4、5メートルほどの濁った緑色の水をたたえたいつものあの沼が存在していた。
 僕はその景色を見て一安心し、誰もいないのに思わず満足げな笑みをこぼす。一息ついた後、早速ザリガニを釣るエサをひもにくくり付け、カエルを捕獲する水中用の網を取り出して、それらを沼に突っ込んだ。前に来たときから分かっていたことだが、用水路にいるそれらとは大きさが桁違いだ。規格外の生物たちが捕まるのを目の当たりにして、思わず驚嘆の声を上げてしまう。しかも、実際にタコ糸や網を沼に差し入れてみればすぐにわかることだが、ここにいるカエルやザリガニはあまり人に慣れていないのか、すぐ網にすくわれ、すぐ水中のエサに引っかかってくる。でかいのがもう入れ食い状態なのだ。これが楽しくないわけがない。そして、そんな楽しい時間はあっという間に進んでいってしまう。かれこれ沼で1時間ほどそうやって過ごしていた頃、それは起こった。

 そのときザリガニを釣っていた僕は、ほんの少しだけ沼の中央のほうに釣り糸を投げ入れたい誘惑に駆られていた。沼の周囲にへばりついているザリガニですらこんなに大きくて真っ赤なんだ、沼の中央にいるものはさらに大きいんじゃないだろうか、そんなふうに考えたのだ。僕はその考えを確認したいがため、沼を一周して、海に面する岬のように少しでも大地が突き出ている場所を探した。すると、沼の奥のほう、僕が来た方面とは反対の方に足一つほど出っ張った部分が見つかった。僕はその発見に気をよくし、早速その部分を踏みしめて感触を確認する。そして少しでも遠く、より沼の中央に近づくようにザリガニを釣る糸を放り投げた。

 その瞬間。
 踏みしめていた先端部分のその岬は僕の体重を支えきれず、もろくも崩れ落ちた。その部分に全体重をかけていた僕は足場がなくなったことでつんのめって飛ぶような形となり、ほとんど顔から落ちるような体勢で沼の中央付近へと落下してしまう。おかげで、したたかに沼の水を飲んでしまい、すっかり動揺してしまった僕は、気付くと足がつかない沼の中央付近でバチャバチャともがくことしかできなくなってしまっていた。
 沼の水を飲んだ息苦しさの中で、わけのわからない助けを叫ぶ。しかし、そうこうしているうちにも僕の体力はどんどん奪われていく。もがく力は次第に落ちていき、ばたつかせている足も少しずつ力が抜けていく。しかも、間の悪いことに、そこにポツリ、ポツリと雨が降ってくる。沼の淵がぬかるみになってしまえば、体力を失った状態ではい上がるのも困難だろう。今日の曇天を行く前に少しでも懸念していれば……。後悔に苛まれるとともに、恐ろしい未来、恐ろしい事態が脳裏をかすめていく。
 死。僕はこの沼で、人知れず死んでしまうのか。この沼を知っている人がどれほどいるかは分からないが、あまり多くはないことは確かだ。きっと僕は世界が終わるまでこの沼の真ん中で、藻に絡まって浮かんでいるんだろう。そして、さっきまで捕まえていたザリガニやカエルに少しずつ腐肉をむしばまれて、骨だけになっていくに違いない。
 そんな絶望に打ちひしがれていると、背後にボチャンと何かが着水する音が聞こえた。思わず振り返ると、そこには大きな箱が浮いている。

「大丈夫か? 今、助けを呼んだから、それにしがみついてなんとか持ちこたえるんだ!」

 いつの間にか、雨にぬれた沼のほとりにはクーラーボックスを投げた主━━いかにも人の良さそうなおじさんが、必死に僕を勇気付けてくれていた。


 今朝のニュースを見ながら、私は幼少期のこのエピソードを思い出していた。
 朝食には全く手を付けずニュースを食い入るように見る私に、妻と娘が心配そうに声を掛けてきたが、私はそれになんでもないという旨の返事をして自室に戻る。そして自分のパソコンで再びニュースを確認し、思わず渋い顔をしてしまう。
 画面には、初老の男が口論のもつれから、知人3人を刃物とバットを用いてそれぞれ惨殺し逮捕されたという文章とその犯人の顔写真が映っていた。

「…………」

 私はじっと食い入るようにその犯人の顔を見つめる。

「やっぱりあのとき助けてくれたおじさん、だ」

 残酷な事実に、思わず体を震わせてしまう。絶対に顔を忘れないと誓った、あの命の恩人の知りたくなかったその後を、顔を忘れなかったおかげで知ってしまうなんて。
 しかし、人はここまで変われてしまうものなのだろうか。かつて、見ず知らずの少年の命を救うという偉大なことを成し遂げたのに、その数十年後、彼は反対に3人もの人の命を奪ってしまった。
 それは、彼にとって私は生きるに値する人間で、あの3人は生きるに値しなかった人間ということなのだろうか。彼は、彼の中で命の選別をしたのだろうか。無論、彼は神ではないので私を生かしたことはともかく、3人を殺したことは罪に問われなければいけないのだけれど。

 ……どちらにしても、なんかもやもやする。

 結局、かつての恩人が罪を犯してしまったという衝撃と、自分が殺人犯から選ばれた者なのではないかという、どう表していいか分からない感情、あの日以降、おじさんにどんな人生が待ち受けていたんだろうかという疑問。それらがぐちゃぐちゃに頭の中で混ざり合い、私は数日間、自室で黙考にふけることしかできなかった。
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