28.いるかの世界の不文律

文字数 4,655文字

 いるかといえば、皆さんはどんなことを思い浮かべるでしょうか。

 かわいい、芸をする、人気者、頭がいい……。十人十色、さまざまな意見があると思いますが、やはりこういったイメージを持つ方が多いのではないでしょうか。

 ところが、このいるかという生物。実はちょっと、いや、とても意外な一面を持っているらしいです。それというのも、彼らは時折、他のいるかや魚、ときには人間にも危害を加えることがあるというのです。
 なぜ、あんなにもかわいくて愛くるしいいるかが、そのような残忍なことをするのでしょうか。やはり、これに興味を持つ研究者もいらっしゃるようで、その理由として提唱されている説を二つほど調べてみたので、ご紹介しようと思います。

 まず一つ目として、ストレスや不満がたまっているからいじめる、という説があるみたいです。これは、私たち人間の世界でもよくある話なので、分かりやすいのではないでしょうか。いじめられている側も無論、理不尽だし大変つらいわけですが、いじめている側もそれなりにしんどい事情を抱えていたっていうパターンですね。ただ、そのような事情があったとしても、やはりいじめを看過できませんが。
 もう一つの説は、いるかにはいるかの世界があり、その理に従って行っている行動が、結果としてわれわれ人の目にはいじめに見えているのではないかという考え方です。例えば、群れの中に弱いものがいると、そこにつけ込まれて群れ自体が危険にさらされる可能性があるため、仕方なく群れの存続のために排除を計画するだとか、そもそも弱い個体は群れから排除しなければならないおきてが彼らの中にあるとか、そういったことです。ただ、今、挙げた例もあくまで人間の想像の範囲内のものです。人間の目にいじめと映ることをいるかが行っている背景には、もっと深遠な理由があるのかもしれません。


 アリゾナ州。その南西部に、設備の整った美麗な水族館が存在しています。週末は、多くの男女や家族連れが訪れるような人気の水族館として、地元民はもちろん、はるばる他の州から来る人もいるほど愛されている施設です。

 そこに獣医師として勤務するクリスタ・C・ネイションズさん。彼女は仕事柄、ときおりいるかが泳ぐプールに様子を見に行くことがありましたが、ある日、そこでとても痛ましい光景を目にしてしまいました。
 それは、この水族館で最も若年のいるかが、他のいるかに激しく突っつかれたり、かみつかれたりしている光景でした。このいるかは数年前にこの水族館で生まれたのですが、若くして母いるかが亡くなってしまったため、あまり他のいるかと仲良しになることができず、クリスタさんや他の飼育員はとても心配をしていたのです。
 クリスタさんは、そのあちこちに血がにじんでいるいるかを慌てて他のいるかから引き離し、傷の手当をしてやりました。しかし、これらの作業はあくまでその場しのぎでしかありません。当然、再びこのプールに放すことになるわけですし、そうなれば、またいじめられてしまうでしょう。そうなってしまったら、今度は、この若いいるかの命が奪われてしまう可能性も否定できないのです。
 クリスタさんは傷の手当を施しながら、彼を他の水族館へ移すか、野生、つまり、あの広大な海に返す(水族館で生まれたので、海に返すというのはいささか変ですが)ことができないか、上層部に掛け合おうと考えていました。このままではこのいるかはもちろん、他のいるかにも、私たちスタッフにも、ひいてはお客さんにも、望ましくないできごとが起こってしまうやもしれないからです。
 もちろん、他の水族館に移しても、そこでの環境が合うかどうかは分かりません。また、水族館のいるかを海に放すのは年単位の時間がかかる上に、非常に困難な作業です。しかしそれでも、この危険なプールにしがみつかせるよりは、そうするほうがまだ幸せではないか、とクリスタさんは傷の具合を見ながら痛感したのです。

「私が上と話を付けるまでの間、どうにかこのプールで耐え抜いてね」

 クリスタさんは不安で嵐のように吹きすさぶ心をどうにか静めようとしながら、祈るような気持ちで、そっと傷だらけのいるかをプールに放すのでした。


 その翌日。

 プールの清掃員がクリスタさんのところへ慌てて駆け込んできます。

「クリスタさん、大変です。いるかのプールが大変なんです!」

その瞬間、クリスタさんは目の前が真っ暗になりました。どうやら、恐れていたことが起きてしまったのでしょう。あの若いいるかは再び他のいるかに暴行され、大きなけがを負ったか、もしかしたら命を落としてしまったのかもしれません。彼女の脳裏に血にまみれたプールとそこに浮かぶ一匹の海獣の姿が浮かびます。クリスタさんは重い足取りをどうにか奮い立たせて通路を駆けながら、このいじめにもう少し気付くのが早ければ、という思いでプールへと向かったのです。

 しかし、そこに見えていたのは、クリスタさんが予想だにもしていなかった驚くべき景色でした。

 プールはなんの変哲もなく、いつも通り水をたたえてイルカたちを包んでいます。しかし、そこをゆうゆうと泳ぐいるかたちに混じって、奇妙なものが一体だけ紛れ込んでいるのです。
 それはパッと見、何らかの人工物━━例えば模型のような、に見えました。でも、その物体はうねるように揺れ動き、プール内を縦横無尽に泳ぎ回っているのです。そう、まるで「いるか」のように。

 クリスタさんは、しばらくの間、ぼうぜんと「それ」がゆうゆうと泳ぐ姿をながめていましたが、しばらくすると、「それ」の側面、やや離れたところにあるものを見つけます。それは、クリスタさんが昨日、手当をしたあのいるかのまだ治りきっていない傷口だったのです。
 それを見た瞬間、クリスタさんは、全てを理解しました。しかし、その考えは理性では到底、納得し得ないものでした。しかし、どう考えても、そのように考えないとつじつまが合わないのです。

 つまり、あのいるかはいじめから逃れるために、自らの体をスケルトン━━透明にしたに違いないのです。そうすれば、確かに他のいるかから見えにくくなるわけですから、いじめに合う可能性は減るでしょう。

「でも……」

クリスタさんはその光景を眺めつつ、プールサイドで腕を組んで考え込みます。大きな疑問点が二つ、頭に思い浮かんだからです。

 一つは、いるかでは透明になるメリットが薄いということです。実はいるかは目があまり良くありません。彼らは主に音を使ったエコーロケーションによってものの位置を把握したり、他のいるかとコミュニケーションを取っています。そのため、体を透明にすることで、多少は他のいるかから自身の存在を隠せるようにはなりますが、それでは根本的な解決にはならない気がするのです。
 もう一つは、なぜ透明になれたのかということです。体を透明にしたいるかの存在など、うわさにも聞いたことがないですし、もちろん、過去にさかのぼっても、そのような文献はみたことがありません。

 クリスタさんは、しばらくプールサイドで骨だけになった姿で泳ぐいるかをながめていましたが、それらの疑問点は一向に氷解しそうにありませんでした。そのため、仕方なく、再び自身の業務に戻ることにしたのでした。


 さらに翌日のこと。

 出勤したクリスタさんは、またも職員からいるかのプールに急いで来るように伝えられ、勤務の準備もそこそこにプールへと駆けつけました。今日はいったいどんなことが起こったのか、悪い知らせでなければいいが、という思いとともに。
 透明だったあのいるかはもう既に透明ではなく、かつてのグレーの体色を取り戻してプールの中を泳いでいました。しかし、それではすぐにまたいじめられてしまうでしょう。ほら、案の定、数匹のいるかが彼を突っつくために、すごい速度で突進してきます。

「危ない!」

クリスタさんは思わずプールに駆け寄りましたが、どうもできません。仕方なく、かたずを飲んで見守ります。しかし、そうこうしているうちに、かのいるかにいくつものとんがった口が襲いかかってくるのです。もう少し、あと少し、痛ましい接触事故が起こってしまう。クリスタさんがそう思い、顔をしかめた瞬間、驚くべきことが起こったのです。
 件のいるかは、ふっと、本当になんの前触れもなくその場から姿を消しました。まばたきもせぬ間にすっかりかき消えてしまったのです。残るはあてが外れて、互いに口をぶっつけ合うイルカたちばかりです。

「?」

クリスタさんは何が起きたのかよく分からず、しばしわれを失っていました。先ほどクリスタさんを呼び出した職員がそっと彼女の肩をたたき、プールのある一点を指差します。クリスタさんは、そちらに目をやりました。

 そこには、先ほど瞬時に姿を消した彼が、悠然とヒレをはためかせていたのです。

 その後の観察で、このいるかは身を守るために、瞬間移動の能力を身に着けたことが判明しました。この能力を身に着けたからか、はたまた別の理由からかは分かりませんが、この後、彼がプールでいじめられることはなくなったようです。
 ところが、今度は世界中の研究者たちが、この若くて小さな一匹の海獣を付け狙うようになってしまいました。瞬間移動の能力と、その前日に一日だけとはいえ体を透明にした能力。これらの謎を解明できれば、人もそれらの能力を身に付けることができるのではないだろうか、というギラギラとした欲望で。

 そんな欲深な人間たちから殺到する依頼をながめながら、クリスタさんは考えていました。


 いるかたちのあのいじめとも見える行動は、もしかしたらいじめではなく、いるかという種族の未知の能力を開花させるための儀式のようなものなのではないだろうか。そうだとすれば、今回のような突拍子のない能力をあのいるかが身に付けたのにも納得がいく(どうやって身に着けたのかはさておいて)。要するに、攻撃をしていたいるかたちは、あのいるかが能力を覚醒させることを確信してやっていたのだ。しかし、彼は不器用にも、一度、覚醒の仕方を間違えた。透明になるというあまり意味のない覚醒をしてしまった。その後、何らかの形で間違いに気付き、修正を行って瞬間移動の能力を取得し直したのだ。
 もしかしたら、これまで連綿と続いてきたいるかの歴史の中で、攻撃してきたいるかも、攻撃されてきたいるかも、今回のように能力を得るためにそれらを行っていたのではないだろうか。それがいるかの文化として長いこと定着し続け、今回、たまたまこの水族館のいるかによって発生した、ということ……。

 だが、この文化を人間に持ち込んでもうまくいくだろうか。命を失いかねない危険な行為であることはもちろん、いじめの肯定にもつながりかねない。なんせ、われわれの目には、やはりいるかたちのあの行動はいじめだとしか思えないのだから。

 それならば、今回の能力獲得劇は人間には秘密のままにしておいたほうがいい気がする。幸いなことに、あのいるかも周囲に溶け込んでからは瞬間移動をしなくなったことだし。それに、多分に疲れもあるから彼を休ませてあげたほうがいい。可能なら、命を閉じるそのときまで。


 そのとき、クリスタさんの元に再び連絡がありました。また、調査依頼か、クリスタさんは人の欲深さに若干うんざりしながら、あのいるかの安寧のためにその依頼を断る連絡を返したのでした。
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