27.壁当て

文字数 3,080文字

 小学3年生になった優一は、とある場所を目指していた。

 5月の土曜日の午後。ぽかぽかと暖かい陽気が広がる昼下がり。昼食を食べ終えた優一は、素早い動きでグラブとボールを左手にひっつかむと、あっという間に玄関へと向かう。背中に母の「ごちそうさまくらい言いなさい!」という怒声を背に受けて扉を開ける。そうして表へ出ると、団地の階段を数段抜かしでひょいひょいと降りていき、地上のコンクリートを踏みしめた。そして、脇の自転車置き場に雑多に並べられている自転車の中から自分のものを見つけだし、カチカチと暗証番号式の鍵に付属している数字を合わせていく。やがてカチャリと音を立てて鍵が外れ、それをグラブとボールもろともかごに放り入れて、優一は意気揚々と自転車にまたがった。

 早速、目的地へとペダルを踏みしめる。気持ちが逸り、車道の隅と歩道を縫うようなかなり危ない運転で住宅街を疾走していく。さすがに信号は守っていたが、このときの優一には車道の左右などももはや関係なかった。それほどまでに、これから行く場所が楽しみで愉快な気分だった。

 自転車は軽快に走り続け、住宅街から工業地域へと周囲の景色は変わっていく。遠くの煙突が灰色の煙をはき、近場の工場がけたたましい音を立てている。そんなどんよりとした油臭い、どこか空の色まで濁ってしまったかのようなこの場所で、ようやく優一は自転車を停めた。
 降り立った優一は、まずかごの中の鍵で自転車を施錠する。そして、お待ちかねとばかりにグローブとボールを取り出した。その場所は、幅も長さも10メートルあるかないかくらいの、規模の小さいトンネルのような場所だった。上は、高速道路の入口から数百メートルの場所に位置しているので、正確には高架下というのかもしれない。だが、ここにこんなものができた経緯や理由などは、幼い優一には知る由もなかったし、どうでも良かった。

 彼は、先ほど取り出したグラブを左手にはめると、その高架下の中央付近に躍り出る。そして、もう一方の右手でボールを高架下の壁に向かって放り投げた。投げられた球は当然のように壁に当たって跳ね返り、地上でバウンドする。それを優一は冷静にグラブで捕らえていく。いわずとしれた壁当て。今年、地元の地区の少年野球チームに所属した優一は、普段から少しでも野球を楽しみたいという思いと、ちょっとでも自分の野球の腕を上達させたいという思いで、最近、この高架下に足繁く通い詰めていたのだった。

 優一はこの高架下での練習が大好きだった。次はちょっと変化をつけて投げてみようか、今度は握りを変えてみようか、捕球時にちょっと格好を付けてみようか、いっそのこと壁ではなく天井に投げつけてみようか……。壁にボールを投げながら、さまざまな発想がわいてくるのが楽しかった。しかも、それらを実際にやってみることが可能なことも、その楽しみを大いに助長させた。

 しばらくすると、優一は少し横に角度をつけてボールを投げ始める。横に角度をつけるということは、ボールの跳ね返る角度が、自分より離れることを意味する。彼はそれを、あたかも野手が守備範囲ギリギリのボールを捕球するような気持ちで、懸命に追いかけて取りに行く。俊足の打者が狙いすまして打った間隙への痛打を、自分の技術でさもぎりぎり食い止めるかのように、グラブの先でボールを収め、ファインプレーを成した気持ちに没頭する。
 そう思ったら、今度は少し高めにボールを壁に投げつける。跳ね返ってくるボールは当然のごとく、固い大地にバウンドはしない。直接、返ってくるボールを捕球することになる。それは優一の脳内ではフライのキャッチになぞらえていた。角度や威力、落下地点への目測のノウハウなど、実際のフライとは多少変わるが、この行為のとき、優一の心はすっかり外野手になりきっていた。ランナーがいない平凡な状況、捕球時に2塁ランナーが飛び出していた状況、タッチアップが行われそうな状況。あらゆる場面を想定し、優一は普通に返球したり、急いで返球したりというふうに捕球直後の動作を繰り返し練習した。

 それは、外野手だけにとどまらなかった。彼、優一は、この高架下の中では大半の守備位置に付くことができた。チョークで線を引いてプレート代わりにし、投手のように壁に自分の渾身の球を投げることもしたし、片足を一所に踏んだまま壁から跳ね返ってくるショートバウンド気味の球を捕球するといった、1塁手の真似事をしてみたり、先ほどのような角度の付いた球や勢いのある球の捕球を練習することで、2塁手、3塁手、遊撃手の気分に浸ることもできた。さすがに捕手の役割だけは難しく、やることはかなわなかったが。だが、この高架下においては、優一はもはや王になったも同然だった。自転車で数十分ほど時間をかけて走っていけば、自分の領地がそこに存在している。しかも、そこでは、何をしても自由で、大抵の役割は行うことができ、それらを暗くなるまでいつまでも行えるのだ。そんな場所での営みを優一が嫌いになるわけがない。彼が暇を見つけては、グラブとボールを携えて自転車で駆け出すのも、むべなるかなというところだった。

 だが、王である優一自身にとって、その場所はいいことばかりではなかった。例えば、壁へ投げる角度をつけすぎたあまり、大切なボールをなくしてしまったり、車の通りが少ない場所とはいえ、たまに通りすがる気性の荒い大型トラックの運転手に怒鳴られたり、そこでの活動に夢中で、気付いたら土砂降りになってしまい、仕方なく自転車やグラブ、ボールもろともずぶ濡れになって家に帰る羽目になったり、嫌な出来事も数々起こった。しかし、優一は玉座を退くことはなかった。それらの辛苦をものともしないくらい、彼はこの場所で球を投げ、追いかけることが好きだったから。


 それから、長い年月が経過した。

 優一は、未だに定期的に高架下に通い詰めている。
 小学校、中学校を卒業し、高校も卒業し、市内の工場に就職し、同僚とのトラブルで6年後、そこを解雇処分にされ、数年のニート生活を経て、どうにか派遣で再び工場のライン作業にありつき、派遣先で伏し目がちに働いている今でも。
 父は数年前、脳卒中で亡くなった。老いた母もパートにこそ出ているが、ぼやくように頻繁に体の不調を訴えている。

 優一は小学3年生以降、相変わらず時間を見つけるとこの高架下にやってくる。少年野球チームでレギュラーを取ることができず、中学の野球部でも3年間、球拾いに終止し、高校では野球部に入ることすら止めてしまったけれども、この場所に来ることだけは決して止めることはなかった。最近は仕事に追われ体力的にもきつく、なかなか休み自体が取れない。仕事先でも、影でこどおじとやゆされる始末。それに、結婚や家庭を持つあてもない。父は亡くなり、母の稼ぎだけでは心もとない状況。自分が大黒柱にならなければというプレッシャー。やがて来るであろう母の介護という問題にも、立ち向かっていかなければならないという現実。

 そんな八方塞がりの状況。それでも、優一はこの高架下に立つ。すでに当時の面影はほとんどなく、腹は突き出て、髪にも白いものが混じり始めている。

 それでも、それでも優一は、その不格好な体躯でボールを壁に投げる。そして跳ね返ったボールを素早くさばき続ける。かつてのあの頃のように、自分の好きなことを、好きなように。空が暗くなるまでその場に君臨し続ける。

 ここでは、俺は王なんだ。その強い自負を心に抱き続けて。
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