19.顔

文字数 3,644文字

 知人と、ちょっと山登りに行くことになった。

 登るのは近場の比較的低めの山。昼から半日をかけてその山の頂上まで行き、近くの山小屋で一夜を明かす。明けた翌日、山小屋から下っていき全ての工程が終了という計画だ。
 参加する知人のAという男は、のっぺりとしたあまり風采の上がらない青年で、山登りの経験は数回ほどしかないそうだ。そういう意味ではほぼほぼ初心者だと言っていい。そのAと中級者程度の腕はあるであろう私、そんな二人が一泊二日で山を登ろうというわけだ。

 私とこのAという男は大学時代からの知り合いだった。もっとも大学時代はほとんど接点はなく、社会人になって数年を経た先日、たまたま新規で開拓した取引先と打ち合わせをした際、相手方の担当になっていたのがこのAだった。
 私たちは打ち合わせの直後にすぐさま飲む約束を取り付け、その日の夜にはもう杯を酌み交わしていた。Aは、大学の頃はそれほどいける口ではなかったような記憶があったが、その夜はそんなこともなく、むしろ私よりも数段は速いペースで次々と杯を空にし、あっという間に赤ら顔になってしまった。それにつれて次第に会話も弾み、話題はお互いの身の上話へと展開していった。

「どうだい、君は。すてきな伴侶の一人もいるのかい」
「いやあ、一人が長くって、もうすっかり孤独に慣れてしまったよ」
「それじゃあ、お互いさまってわけだ。はっはっは」
「それに、君は覚えているかい。僕の趣味を」
「ああ、そういえば大学の頃、登山をしていたと聞いた気がするね」
「うん。登山なんていうと聞こえはいいが、下手したら死にかねない趣味だからね。軽々しく家庭は持てないよ」
「……へえ。まだ登山、やってたんだな」
「ああ、下手の横好きだが、何とか続いているよ」
「そうか。実はな、俺もつい最近、山登りを始めたんだ」
「ほう、そうだったのか」
「まあ、2回くらい、日帰りで登ったくらいの初心者も初心者だけどな。でもあの楽しさはなかなか忘れらんないな。なあ、ぜひ一度、一緒に登っていろいろ教えてくれないか」

 酔いも入っていたせいか、Aのこの提案に私は大きく心を動かされた。それにここ最近、私も多忙な日々が続いていたので、久しぶりに山に登るいい口実ができたという思いもあった。こうして、われわれは密に連絡を取り合って、打ち合わせを重ねた。日取りやコース、スケジュールや持ち物の確認、登山予定日の天気予報まで、一分のすきもないくらいお互いの意見をはき出し合い、調査し、話し合って、万全の準備を期していった。

 こうして、あっという間に月日がたち、とうとう決行日がやってくる。

 当日は気持ちの良い快晴、絶好の登山日和。われわれは予定時刻のとおりにスタート地点に降り立ち、眼前の大地に挑み始めた。

 登山中は特に大きなできごとは起こらず、ほぼスケジュール通りに宿泊する予定の山小屋にたどり着くことができた。強いてあげれば、やはり経験の差か、Aは疲れ切っていてゼエゼエと苦しそうな息をはき、山小屋についた途端に倒れ込みそうになっていたことぐらいだった。だが、そんなAもすぐに元気を取り戻し、小半時もたったら、私が行っている食事の支度を手伝うようになっていた。

 食事を終え、飽きもしない歓談を続けているうちに夜もとっぷりと更けてくる。

 私は用を足しに少し席を外す。そして再び部屋に戻ってくると、Aは私のいないすきにすっかり眠りこけていた。


 ところで、ここで私は重大な告白をしなければならない。忘れもしない大学2年の出来事だ。当時の私は、とある譲れない持論、いや、信念を首からぶら下げて歩いているような男だった。話すもの全てに論争をふっかけ、論破しては得意げになって薄ら笑いを浮かべて去っていく。それが正義だと信じて疑っていなかった、そんな人間だったのだ。
 それを、そのてんぐになった私の鼻を、ものの見事にへし折ったのが、今、目の前で眠りこけているAだった。こいつは一言であっさりと私の言の矛盾を指摘し、軽蔑した笑いで一刀のもとに私を切り捨てていったのだ。
 Aに敗北した私は惨めなものだった。うわさはあっという間に広がり、私は道を行く人に論争をふっかけることをやめざるを得なかった。周囲の誰とも話をしなくなり、大学でも次第に孤立していった。そういった生活を卒業するまでの約3年の間、耐え忍び続けたのだ。
 それ故、今、目の前で眠りこけているAに、私は強烈な恨みがある。いや、もっと直接的な表現をすれば、殺してしまいたい。四肢を、目や鼻や口を、あるいは脳の髄を、もしくは心の臓を思い切り切り刻んで、このAという憎き男を葬り去ってやりたい。そういう思いでいっぱいなのだ。
 今回の登山計画がその一部であったことは言うまでもない。Aがすきを作るであろう一泊の登山をわざわざ計画し、初心者のAが必要以上に疲労するようなコースを選定する。そして宿泊先を人気のない山小屋にし、その山小屋でわざわざ夜更けまで話しこみ、眠り込むその瞬間まで待っていた、そういうわけなのだ。
 彼が山小屋に倒れ込みそうになりながら入った瞬間、私は心の中でガッツポーズをしていたぐらいだった。ようやく、この山小屋という名のくもの巣に獲物が足を引っ掛けた、そんな気分でワクワクと心が躍り上がって仕方がなかったのだ。

 さあ、この眠りこけているAを、これから私は殺害しよう。この世に生きてきたことを後悔させるような、そんなとてつもない恐怖を与える殺し方をしたい。だが、そうすると死体の隠匿が面倒になるし、この小屋を汚してそこから足がついてしまう。それ故にちょっと物足りないが、シンプルに心臓をナイフでえぐることで、Aにはあの世に行ってもらおうと思う。

 私はAが持ってきたナイフを取り出し、心臓に狙いを込める。大学時代の屈辱、恨み、雌伏の時代のつらさ、それらがまざまざと脳裏によみがえる。私はとめどなく心中から湧き上がってくる殺意をそのままぶつけるかのように、ナイフをAの胸に押し込んだ。

 終わってみれば、至極あっけなかった。血は少量しか出ず、ナイフと服にいくらかこびりついただけだった。その血を拭き取って、Aに握らせる。これで近くにある崖に遺体を放り投げでもしておけば、実は思い悩んでいることがあって元気付けるために登山に誘ったが、気分が晴れず夜中に小屋を出ていき、ナイフで胸を刺したあと、息も絶え絶えの中で崖に飛び込んだ、という形に落ち着くことだろう。

(さて、あとはこいつを崖に投げ入れなくちゃ)

 私は次にすべきことを思い描きながら、何気なく遺体の顔に目をやる。その時だった。

「?!」

 ……あれ、Aってこんな顔だったっけ。思わずよく見直してしまう。しかし、見れば見るほどその遺体は、Aのようには思えなくなってくる。

「……落ち着け、落ち着け。よーく顔を思い出せ」

 過去の記憶を手繰り寄せ、懸命に私はAの顔を脳裏に思い描こうとする。しかし、それらは全てもやのような、モザイクのような、奇妙な何かがかかっていて、どうしても鮮明にならない。きょう、ここまで登山をしてきた記憶も、それまでのやり取りも、久々にあった打ち合わせのときも、その後に飲んだときも……。

「…………」

 私は焦って、心の奥底に閉じ込めていた不快な大学時代の記憶すら掘り起こす。秒で論破されたあの瞬間、あの唾棄すべき薄ら笑い、その後、キャンパスであったときの忌々しい顔。
 だが、それらの憎々しい記憶を掘り起こしても、Aの顔だけは一向に出てこない。それどころか、実はAは一卵性双生児だとか、田舎の家系のせいか親族全員が同じような顔をしているだとか、大学によく似た背格好のやつがいただとか、この世には同じ顔をしているやつが必ず3人いるだとか、不安になる情報?真実?ばかりが浮かび上がってくる。

「…………ねえ」

 誰もいないはずの小屋の中で、思わず誰もいない誰かに問いかける。その間も生を失ったのっぺりとした誰のものか分からない顔が、こちらを、私をじっと見つめてくる……。

 こいつは誰だ、Aか、そうでないのか。Aは私の殺意に気づいていて、自分によく似た人物を替え玉に仕立て上げたんじゃないだろうか。だとしたら、だとしたら、だとしたら、この犯罪はもう失敗したも同然……。

 絶望的な気持ちに思わず顔を見上げてしまう。するとそこには、一枚の姿見が立てかけられていた。鏡に写った自分の顔……。それは、自分のようで自分じゃない、なんなのかわからない顔……。


「……あれえ、弟の高志じゃん。元気ぃ?」

「おお、いとこの大ちゃん。今度、結婚するんだってねえ」

「あ、孝好おじさん、ご無沙汰しております……」


 翌朝。管理人が訪れた際、小屋には二つの遺体があった。遺体はどちらも心臓を刺し貫かれていたが、そのうち片方は相好がわからないほどめちゃめちゃに顔を傷つけられており、その前には割れてこなごなになった姿見がひっそりと置かれていた。
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