16.風邪の日

文字数 2,471文字

 その日、私は起きて布団から抜け出しトイレに行くまで、いたって普段どおりの何の変哲もない一日だと思っていた。だが、トイレに赴いて小用を足していると、どうも頭がふらふらとして体がやけにだるいことに気が付く。もしやと思い小用を終えたあと、リビングで体温計を取り出してわきに挟む。そうしてしばらく待機していると、案の定38.8という数値が電子音とともに弾き出されてきた。
 その数値を目に入れた私はすぐさま今日の出社は無理と判断し、今度はスマホを手に取りアドレス帳から上司の名前を選んでタップする。上司は遠距離通勤のせいか、既にもう家を出て会社に向かっていたらしく、駅の構内と思われる雑音の中で私の連絡に応じてくれた。形式的な朝のあいさつを交わした後、9度近い熱を出してしまったので今日は仕事を休ませてほしい、と、できるだけ申し訳なさそうに切り出す。上司は落ち着き払った様子で、私が担当している業務の現在の状況を簡単に2、3の質問で私に確認し、事務的な抑揚の「おだいじに」という言葉の後、通話を切った。
 起床から一時間ほどたっても、ふらつきとだるさは相変わらず止まらない。ひと眠りすればどうにかなるという問題ではなさそうだ、そう考えた私は、気怠さの中でどうにかこうにか部屋着から外に出られる程度の服に着替え、わが家の戸棚という戸棚を開いて回る。そして、数年来訪れていない近所の医院の診察券をようやく見つけると、それを片手に家を出た。

 病院の待合室では、世間話に熱中している何人かの老人と、幼児を抱えた女性が診察を待っていた。私は彼らから付かず離れずの位置に腰を下ろし、スマホを取り出してだらだらと怠い中ゲームを始める。そのうちに何人かの名が立て続けに呼ばれ、老人たちの世間話の輪が途切れた。急に待合室は静かになったが、私を含めそこに残された人々は何も頓着していない。私はゲームをしているし、母は子どもの様子をながめているし、残っている老人たちも思い思いに自分たちのしたいことをしつつ、名前が呼ばれるのを待っているようだった。
 待機し始めてから20分と少したった頃だろうか、ようやく私の名が呼ばれる。スピーカーを通してもよく分かる、女性の美しい声色。ようやくかという思いで怠い体を持ち上げ診察室に入ると、まず最初に初老の医師が私の目に飛び込んできた。昔、やはり風邪をひいたときに彼の診察を受けたことがあるが、そのときよりも額は薄くなり、少しばかり太ったように思える。医者の不養生、そんな言葉が一瞬脳裏を過ぎったが、薄毛はまだ現代の医学でもどうにもならない領域だし、肥満も軽度なら長生きするなんて俗説を聞いたことがある、何か計算があってのことかもしれない、そんなことをつらつらと考えていたら、医師の傍らにいる看護師さんに目の前の丸椅子に腰掛けるよう促される。その鈴の音のような声を聞きながら、さてはさっきのアナウンスはこの看護師さんだったか、と思いつつ丸椅子に腰掛ける。すると、医師からすかさず「どうしました」という問いかけがなされた。何も考えていないまま、今の状態を他人に伝達しなければならないという状況に陥っていたことに気付いた私は、たどたどしい口調で今朝からふらつきとだるさが顕著なことと、計った体温の数値を医師に訴える。医師は私の話にうなづいたあと、のどを確認してから、服を脱ぐように指示し聴診器を胸に当ててきた。その後、三日分の薬を処方すると宣言し、それでも治らないようならまた来るように、との言葉を残して診察を終えた。
 受付で診断料を払い、近くの薬局で処方せんと引き換えに薬を手に入れる。その後、スーパーで必要そうなものや食べ物を調達して帰宅すると、もう昼過ぎだった。食欲はあまりなかったが、せめて薬は飲まないとと思い、スーパーで買った総菜パンを無理に口に押し込んだあと薬を飲み下した。こんな昼食じゃ薬とどっちがメインだか分からないなと苦笑いしながら、今朝から敷いたままの布団に倒れこむ。それほど眠たくはなかったので、布団の近くに散らばっている読みかけの本を手に取り読もうとしたが、まだ頭がふらついてるせいか一向に内容が入ってこない。それならばと思い、同じく傍らにあった携帯ゲーム機を起動したが、こちらもやる気にはならなかった。しかし、そうこうしているうちに先ほど飲んだ薬が効いてきたのか、いつの間にか眠りに落ちてしまっていた。

 目を覚ますと周囲を暗闇が支配している。スマホを手に取り時間を確認すると二十時過ぎ。ちょっと寝すぎたかと思いながら体温を計ってみると、熱はすでに下がりふらつきもだるさも消えていた。ホッとしつつ昼に購入したレトルトの卵がゆを温め、シャワーではぶり返す可能性があると思ったので風呂にお湯を張る。できたかゆをすすりながら大して面白くもないテレビを見た後、先ほど沸かした熱めの風呂で十二分に体を温める。そして、風呂から上がったあとに夕食後の薬を飲み、一日敷きっぱなしだった布団にまたまた潜り込んだ。
 昼間、よく寝たので眠れないかと一瞬だけ思ったが、眼を閉じてすぐに意識は遠のいていった。

 翌朝。
 機械的にアラームを止め、トイレに行ってから熱を測る。ここまでの様子では熱はなさそうだと思っていたら、案の定、体温計の数値は36.2を示している。どうやら会社には行けそうだ。
 どうせならもう一日くらい休んでいたかったな、という思いが心の底にこびりつく中、家を出る。満員電車に揺られながらどうにか会社にたどり着き、おとといの作業の続きを始める。

「…………」

 フロアの人間は昨日私が休んだことを誰も何も言わない、唯一理由を伝えた上司ですらも。まあ、当然っちゃ当然なのだが。でも、なぜかそのせいで、昨日の一連の出来事が、熱やふらつきがあったこともあって夢みたいに思えてくる。

「本当に夢だったら、良かったのになあ」

私はそんなことを小声でつぶやきながら、減った有休の数と遅れた仕事を恨めしそうにながめてから、もたもたと作業に取り掛かった。
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