29.模様替え

文字数 2,406文字

 夜。残業を終え、孝太は妻の待つ家への道を歩いていた。

「ふぅーっ」

 思わず長い息をはいてしまう。無理もない。孝太の勤める会社では毎日のように残業が発生し、休日に呼び出されることもしばしばだ。それに見合うものはもらっているが、正直、それほど余裕がないというのが実情だった。

 明日もまた仕事だ、それに備えて今日も早く休まねば。そんな思いを抱えながら、力なく目線を下に向けて歩き続けていると、右前方にようやくわが家が現れ始める。先年、どうにか頭金のめどが立ち、ローンを払えるような年収になったため、ようやく購入に踏み切った郊外の一戸建てだ。

「ただいまー」

孝太は、目線を足元に向けたまま玄関の扉を開ける。視界に入る自分の靴、これ、そろそろ磨かなきゃなあと思いながら、妻と、ようやくよちよち歩きができるようになった息子、洋太の出迎えを待っていた。

「…………」

 孝太は自分の靴を見続ける。その体勢のまま、そこに潜んでいる違和感に気付く。妻の久恵も、息子の洋太もいつまでたっても出迎えに来ないのだ。
 もっとも、この家族の間に夫が帰ってきたら妻子が出迎えること、なんていうルールは一切ない。ただ、今まで久恵は可能な限り、孝太の帰宅を出迎えてきた。洋太もよちよち歩きができるようになってからは、おもちゃやテレビに夢中でない限りは迎えに来てくれる。そんな、いわゆる暗黙の了解のような行動様式でしかないのだ。
 孝太は、彼女らが迎えてくれないことへの落胆や怒りなどは全く持たなかった。むしろ、凶漢が家に入り込んでいるのではないかという可能性を考えたほどだった。

「久恵ー、洋太ー。帰ったよー」

孝太は足を擦るようにして磨けていない靴を脱ぐ。そして足を上げ廊下を踏みしめた瞬間、初めて家の中の風景を目に入れ、そしてびっくり仰天した。

 家の中が、めちゃくちゃになっているのである。

 いや、正確にはめちゃくちゃという言い方はおかしい。靴箱はちゃんと存在しているし、その上に置かれている花瓶も割られているわけではなく、そこに刺さる花も新しいものだ。では、何が孝太にとってめちゃくちゃなのだろうか。それは、遅れてキッチンからやってきた妻の久恵が、手早く説明してくれた。

「あなた、お帰りなさい。実は、ちょっと模様替えをしていたのよ。そしたら、すっかり夢中になっちゃって……」

その言葉のとおり、遅い夕飯を取ろうとしてリビングに入った孝太を、またもやすっかり様変わりした家具たちが出迎えた。椅子やテーブルはややキッチンに近い位置に寄せられ、久恵は料理を以前よりも手軽に運んでいる。ソファやオーディオビジュアル機器なども位置を変え、より集中しながら見られるような奥の場所に置かれており、そこに愛し子の洋太が座り込んできゃっきゃっと喜びながらアニメが映るモニターに目をやっている。その他、食器棚やゴミ箱の位置まで事細かに位置が変わっていて、孝太は別の家にお邪魔しているのではないかと一瞬錯覚するほどだった。

 取りあえず、妻が模様替えをしたことは分かった。でも、なぜいきなりこんなことを始めたのだろう。別に気まぐれでやってもいいが、この様子を見ると重い家具なども動かしただろうし、かなりの重労働だったはずだ。別に相談してくれれば、手伝うことだってできたのに。

 そんなふうに思い、口を開こうとする孝太に、久恵はにこりと笑いかけて言った。

「あなた、最近、疲れているでしょう。だから、ちょっとでも気分転換になるかと思って」

 そうだったのか。俺のことを思ってこんな重労働を。ならば、相談してくれなかったことも理解できる。孝太は感激して、思わず久恵を抱き寄せ、その晩は親子三人で仲良く夕食の時間を過ごすことにしたのだった。


 しかし、その日以降、久恵は毎日のように模様替えをするようになっていった。

 最初はベッドの位置を変えてみたり、ドレッサーの位置を変えてみたりといった、極々小規模な、最初のそれにも及ばない程度の、模様替えをすることによってちょっとした気分転換になるよね、という感が強いものだった。

 しかし、2週間ほど時が過ぎた頃、事件が起きる。

 その日、孝太の部屋のものを勝手に模様替えした久恵を、孝太はひどく叱りつけた。模様替えをするのは構わないが、人の部屋のものを無断で動かして壊しでもしたら責任を取れるのか、そうきつく怒鳴ってしまったのだ。孝太は模型を作ることが趣味で、自室には大量の完成品が飾られており、いつか壊されてしまうことを懸念したのだ。それだけでなく、日頃からたまっている仕事のストレスも相まったのかもしれない。とにかく、この日、孝太はついつい久恵にきつい口調でお説教をしてしまったのだ。

 その日以降、久恵は孝太の言いつけをかたく守り、夫の部屋に入ることはしなくなった。しかし、それをはるかに上回る勢いで、彼女は家の中の模様替えに執心するようになった。台所でコーヒーミルと洗濯機が仲良く稼働していたり、トイレで温水洗浄便座とハードディスクレコーダーがライバルになっていたり、夫婦で読むために定期購読をしていた子育ての雑誌が、びしょぬれになって洗濯物と一緒に干されていたり……。

 そんな日々が延々と続くので、もう孝太は疲れ切ってしまっていた。ただでさえ仕事が忙しいのに、パートナーが家でもこんなトラブルを起こすようでは気の休まる暇がない。

 今夜も孝太は暗い足取りで家路を歩いていた。今夜は何をやらかしているんだろうか。もしかしたら、離婚も視野に入れなきゃならないのか。でも、そうなってしまったら、人生設計は大きく狂ってしまう。
 ゆううつな気持ちを抱えながら扉を開け、屋内を見回して様子をうかがう。どうやら、今日は大丈夫みたいだ。

 ホッとしたのもつかの間、久恵が台所からやって来て、楽しげな口調で孝太に伝えた。

「今日は、洋太の左肺と肝臓を模様替えしたのよ」
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