２６．腐敗
文字数 2,134文字
ああ、もしもし。君かい？ 実は今、ちょっと困っていることがあるんだ。
いや、ちょっとじゃない。かなり、いや、超が付くほど困っていると言っても過言ではないかもしれない。
先日、近所のスーパーに行くことがあったんだ。僕はテレワークで仕事をしているから、なるべく安い食材を調達して自炊をすることで、安い給料をどうにかやり繰りしている。だから、チラシなんかをよく確認して、スーパーで頻繁に食材を購入しているんだ。
その日は、サンマが安い日だった。鮮魚コーナーで発泡スチロールの箱に入れられ、氷の上に銀色に光る細長い身を惜しげもなくさらけ出し、彼ら彼女らは買われるのを待っていた。
（今日中ならお刺身でもいけるかな。でも、シンプルに焼くのもうまいよな）
僕は口中にあふれ出るつばを飲み込みつつ、トングでその銀色を計3匹ほどつかみ上げ、ビニール袋に入れて次の調味料コーナーへと移ったんだ。
それから、あっという間に5日の月日がたった。僕は今、わが家の冷蔵庫の前に立ち尽くしている。若干震える手を握りしめて。
そう、あのとき買ったサンマ。あのおいしそうなサンマをこの5日間、冷蔵庫の最下段に入れっぱなしにしてしまったということに、さっき気が付いたんだよ。
これは痛恨のミスだ。食物を無駄にする飽食野郎のそしりは免れないだろう。だが、盗人にも三分の理という言葉もある。どうか、言い訳だけでも耳に入れてほしい。
もちろん、わざとサンマを食べなかったわけじゃない。食べられなかった理由がある。あのサンマを買ってスーパーから家に戻り、食材を冷蔵庫に入れ終わった直後だった。その瞬間に新しい仕事の連絡が入ったのだ。
その仕事は緊急度の非常に高い仕事で、なおかつとても難しい仕事だった。それこそ、寝食を忘れて取り組まなければならないほどに。
だから、僕はすぐさま仕事に取り掛かった。本気でやらなければ間に合わない、いや、本気でやっても間に合うかどうか分からない。そんな仕事と延々向かい合い続けたんだ。もう外が暗くなってきていることにも気付かずに。そして、ようやく仕事以外のところに意識が向いた頃には、朝日が昇っていた。すなわち昼頃から翌朝まで、ぶっ続けで仕事をしていたことになる。
当然、腹は空いていたし、睡眠も取りたかったが、それ以上にとにかく時間が惜しかった。それだけの時間を費やしても、まだまだスケジュール的にはタイトだったからだ。
僕はほとんど何も考えずに、家から徒歩数分のコンビニへと足を運んでいた。そこでおにぎりやサンドイッチをいくつか購入し、家に帰って無理やり口に詰め込んだあと、アラームを4時間後にセットして、ベッドに横になった。
多少の差異はあれど、こんな生活を5日間も続けていたんだよ。その間、全く申し訳のないことに、冷蔵庫の中のサンマなどすっかり忘却の彼方だったんだ。仕事がようやく片付いて、落ち着きを取り戻した今、ようやくその存在を思い出したのさ。
え、コンビニなんて行かないで、ちゃんとご飯を炊いてサンマを焼けばよかったんじゃないかって？ いや、だから、存在を忘れていたんだって。それに、時間が惜しかったんだって言ってるだろう。コンビニへの往復時間と食事を用意している時間とを比べたら、やっぱりコンビニのほうに軍配が上がるよ。よっぽど効率よく家事が行える方々なら分からないけどさ。
さて、問題はここからなんだ。僕は今、台所の傍らに置かれている冷蔵庫の前で立ち尽くし、この四角いバカでかい箱を憂いを湛えた瞳で見つめながら、君に電話をかけることしかできない状況なんだ。
なにせ、足の速いと言われている生魚が5日間も置かれているんだ。冷蔵庫の中がどんなに恐ろしいことになってるか！ 僕はもう身の毛がよだって仕方がないんだよ。
5日程度なら大丈夫？ いや、その考えは楽観的過ぎじゃないかな。ここはむしろ、もう間に合わないと考えるべき場面じゃないかと思うよ。
きっと、サンマはもうドロドロのグチュグチュで、嫌な臭いを放っているに違いない。そのビニール袋の中は腐海のように成り果て、その汁が近くに置いてあった真っ白なヨーグルトや豆腐にまで入り込み、きっとそれらをどす黒く汚しているんだ。そして、揚げ句の果てには袖に入っている牛乳やお茶、めんつゆや玉子、野菜室に入っている野菜までもが、汚くて臭い汁に汚染されて少しづつ腐っていってる最中なんだ、そうに決まってる。
ああ、僕はもう恐ろしくて仕方がないよ。一枚壁を隔てた向こう側で、むちゅむちゅ、むちゅむちゅと「何か」が蠢いて冷蔵庫内のあらゆるものを蝕んでるに違いない。もうこの冷蔵庫は駄目だ、助からないんだ。君、頼む。僕んちへ来て、この冷蔵庫をどうにかして処分してくれないか。このままじゃ、あいつらは冷蔵庫を抜け出して、僕の家や僕の街、ひいては世界中を腐海にしてしまう。そうなる前に頼む。後生だから僕を、世界を助けてほしい。
……なんだって？ 冷蔵庫を処理する前に病院に行くべき？ 冷蔵庫を病院に連れていくってことか？ でも、医師にキチガイだと思われないか？ いや、もう狂ってるから大丈夫？
おいっ！ どういうことだよ！ おいっ……。
いや、ちょっとじゃない。かなり、いや、超が付くほど困っていると言っても過言ではないかもしれない。
先日、近所のスーパーに行くことがあったんだ。僕はテレワークで仕事をしているから、なるべく安い食材を調達して自炊をすることで、安い給料をどうにかやり繰りしている。だから、チラシなんかをよく確認して、スーパーで頻繁に食材を購入しているんだ。
その日は、サンマが安い日だった。鮮魚コーナーで発泡スチロールの箱に入れられ、氷の上に銀色に光る細長い身を惜しげもなくさらけ出し、彼ら彼女らは買われるのを待っていた。
（今日中ならお刺身でもいけるかな。でも、シンプルに焼くのもうまいよな）
僕は口中にあふれ出るつばを飲み込みつつ、トングでその銀色を計3匹ほどつかみ上げ、ビニール袋に入れて次の調味料コーナーへと移ったんだ。
それから、あっという間に5日の月日がたった。僕は今、わが家の冷蔵庫の前に立ち尽くしている。若干震える手を握りしめて。
そう、あのとき買ったサンマ。あのおいしそうなサンマをこの5日間、冷蔵庫の最下段に入れっぱなしにしてしまったということに、さっき気が付いたんだよ。
これは痛恨のミスだ。食物を無駄にする飽食野郎のそしりは免れないだろう。だが、盗人にも三分の理という言葉もある。どうか、言い訳だけでも耳に入れてほしい。
もちろん、わざとサンマを食べなかったわけじゃない。食べられなかった理由がある。あのサンマを買ってスーパーから家に戻り、食材を冷蔵庫に入れ終わった直後だった。その瞬間に新しい仕事の連絡が入ったのだ。
その仕事は緊急度の非常に高い仕事で、なおかつとても難しい仕事だった。それこそ、寝食を忘れて取り組まなければならないほどに。
だから、僕はすぐさま仕事に取り掛かった。本気でやらなければ間に合わない、いや、本気でやっても間に合うかどうか分からない。そんな仕事と延々向かい合い続けたんだ。もう外が暗くなってきていることにも気付かずに。そして、ようやく仕事以外のところに意識が向いた頃には、朝日が昇っていた。すなわち昼頃から翌朝まで、ぶっ続けで仕事をしていたことになる。
当然、腹は空いていたし、睡眠も取りたかったが、それ以上にとにかく時間が惜しかった。それだけの時間を費やしても、まだまだスケジュール的にはタイトだったからだ。
僕はほとんど何も考えずに、家から徒歩数分のコンビニへと足を運んでいた。そこでおにぎりやサンドイッチをいくつか購入し、家に帰って無理やり口に詰め込んだあと、アラームを4時間後にセットして、ベッドに横になった。
多少の差異はあれど、こんな生活を5日間も続けていたんだよ。その間、全く申し訳のないことに、冷蔵庫の中のサンマなどすっかり忘却の彼方だったんだ。仕事がようやく片付いて、落ち着きを取り戻した今、ようやくその存在を思い出したのさ。
え、コンビニなんて行かないで、ちゃんとご飯を炊いてサンマを焼けばよかったんじゃないかって？ いや、だから、存在を忘れていたんだって。それに、時間が惜しかったんだって言ってるだろう。コンビニへの往復時間と食事を用意している時間とを比べたら、やっぱりコンビニのほうに軍配が上がるよ。よっぽど効率よく家事が行える方々なら分からないけどさ。
さて、問題はここからなんだ。僕は今、台所の傍らに置かれている冷蔵庫の前で立ち尽くし、この四角いバカでかい箱を憂いを湛えた瞳で見つめながら、君に電話をかけることしかできない状況なんだ。
なにせ、足の速いと言われている生魚が5日間も置かれているんだ。冷蔵庫の中がどんなに恐ろしいことになってるか！ 僕はもう身の毛がよだって仕方がないんだよ。
5日程度なら大丈夫？ いや、その考えは楽観的過ぎじゃないかな。ここはむしろ、もう間に合わないと考えるべき場面じゃないかと思うよ。
きっと、サンマはもうドロドロのグチュグチュで、嫌な臭いを放っているに違いない。そのビニール袋の中は腐海のように成り果て、その汁が近くに置いてあった真っ白なヨーグルトや豆腐にまで入り込み、きっとそれらをどす黒く汚しているんだ。そして、揚げ句の果てには袖に入っている牛乳やお茶、めんつゆや玉子、野菜室に入っている野菜までもが、汚くて臭い汁に汚染されて少しづつ腐っていってる最中なんだ、そうに決まってる。
ああ、僕はもう恐ろしくて仕方がないよ。一枚壁を隔てた向こう側で、むちゅむちゅ、むちゅむちゅと「何か」が蠢いて冷蔵庫内のあらゆるものを蝕んでるに違いない。もうこの冷蔵庫は駄目だ、助からないんだ。君、頼む。僕んちへ来て、この冷蔵庫をどうにかして処分してくれないか。このままじゃ、あいつらは冷蔵庫を抜け出して、僕の家や僕の街、ひいては世界中を腐海にしてしまう。そうなる前に頼む。後生だから僕を、世界を助けてほしい。
……なんだって？ 冷蔵庫を処理する前に病院に行くべき？ 冷蔵庫を病院に連れていくってことか？ でも、医師にキチガイだと思われないか？ いや、もう狂ってるから大丈夫？
おいっ！ どういうことだよ！ おいっ……。
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