3

文字数 2,552文字

 昭和十五年、日独伊三国同盟が締結された。日本が乏しい資源を補うため、帝国海軍が推し進めた東南アジア進出計画も国策となって決定した。日中戦争も激化が止まらなかった。日本国内も満州も、いよいよ戦争一色となり始めた。
 虹子の働いていたキャバレーは閉鎖になってしまった。三人の生活は困窮し、日々の食事にも困るようになった。
 それは上坂夫婦も同じだった。上坂の仕事は肝心の製品が届かず商売にならなかった。給料も滞っていた。しかし、それでも夫婦は虹子たち三人を気にかけてくれた。虹子と香保子はお互い、八方手を尽くして日銭を稼げる仕事を探した。
 小学校を卒業していた紀和は、もっぱらアパートで正治のお守をしながら掃除や洗濯をしていた。
 食糧事情が厳しいので、正治にも十分な食事が与えられなかった。正治はしょっちゅうお腹を空かせ泣いていた。虹子と香保子が仕事に出る時に残してゆく、一人分に満たない昼食を紀和はほとんど食べずに正治に与えた。
 昭和十六年十二月八日、日本軍がハワイ真珠湾に奇襲攻撃をした。いよいよ日本はアメリカをはじめ連合国を相手に太平洋戦争を開始したのだ。
 日本国内では真珠湾の大戦果に祝賀ムードだったが、紀和は真珠湾の話を聞いても何の感慨も浮かばなかった。すでに、満州国のある大陸では戦争が身近なものだったからだ。

 その後、毎日をどうやって生きるかを考えるだけの四年間だった。ささやかな幸せさえ奪われた生活の中、虹子と紀和には正治の成長と時折見せる無邪気な笑顔だけが生きる糧となった。

 昭和二十年に入ると、もう日本の敗戦は決定的なものになっていた。アメリカ、イギリス、ソ連の連合国首脳が戦後体制を決めるためクリミヤのヤルタで会談をもった。その中で、ソ連は対日参戦の密約をとったのだ。
 関東軍はソ連軍の侵攻を察知して、七月十日、それに対抗すべく満州全土の十六歳から六十五歳までの男性に根こそぎ動員をかけた。そして、上坂にも召集令状が届いた。
 昭和二十年八月九日、太平洋戦争の終結が間近に迫っているのに、密約通りにソ連が日本に宣戦布告をしてきた。それによって男手をすべてうばわれた紀和たちは、さらなる地獄へ突き落されるのだった。
 その日の夜、ハルビンにも空襲があった。
 爆撃の音に驚いた虹子と紀和はベッドから飛び起き、窓を開けて外を見た。二人の目にはハルビンの郊外を赤く焦がす火柱が見えた。
「怖いよー、逃げなきゃだめじゃないの」
 紀和は恐怖に震えながら虹子を見た。六歳になった正治は泣いていた。
「大丈夫よ、ソ連軍はハルビンに攻めてこないわよ。ここには、たくさんのロシア人が住んでいるのよ。そんなところを攻撃するはずないでしょう。あれは日本の軍隊だけを狙った爆撃よ安心して」
 とはいっても念のため、三人はすぐに逃げられるように寝巻から洋服に着替えて眠ることにした。
 その後、ハルビン周辺では大きな戦闘は起きなかった。しかし、一日中絶え間なく、遠くで鳴る雷鳴のような砲撃音がハルビンにも聞こえた。紀和たちはあまり眠ることのできない不安な日々を過ごした。
 八月十五日、ついに日本が降伏し太平洋戦争が終結した。その報はハルビンにも届いた。戦争が終わり、本来なら戦時中に失った青春を取り戻すべく、恋をしたりお洒落をしたり、何かの夢を持ったりと紀和には明るい人生が待っていたはずなのだ。しかし、不幸にも紀和たちの戦争はまだまだ続くのだった。
 
 十八歳になった紀和は美しい女性へと成長したが、それがまた紀和を深い戦争の悲劇へと引きずり込むことにもなった。
 終戦の日から一週間後、ハルビンにソ連軍が進駐してきた。
 ソ連の戦車は砲塔が大きくずんぐりとした形で頭でっかちの化け物に見えた。それに十人、十五人と兵士が分乗していた。そんな戦車がハルビンの通りを四十両ぐらいで土煙をあげながら行進した。それをハルビンに住むロシア人や満人、中国人達は手を振って熱狂的に迎えた。その陰で日本人達は不安な顔で見ていた。
 それからすぐに、ソ連兵士による日本人に対しての略奪、暴行、強姦がはじまった。それは抵抗すれば、その場ですぐに殺されるという残虐なもんだった。
 虹子と紀和と香保子は協力してお互いの髪の毛を切り合い坊主頭にした。それから上坂や治孝が残していった服を仕立て直し、自分達が着られるようにした。外出時にはそれを着て、炭で顔を黒く塗り男装をしたのだった。他の日本人女性もそうした。
 それでも歩き方や背格好でソ連兵にはすぐにバレてしまうのだ。そして毎日、何人もの女性が強姦された。ハルビンの街中には抵抗して殺された女性の死体、絶望して自殺した女性の死体がいくつもころがるようになっていた。
 死体は女性の死体だけではなかった。満州の奥地からソ連軍の攻撃に追われ逃げてきた満蒙開拓団の日本人もいた。ハルビンに着いても力尽き野垂れ死にしたのだ。多くが子供やお年寄りの体力がない者の死体だった。
 ハルビンの街は形の上ではソ連軍の統治下にあったが、中国共産党軍(通称・八路軍)や国民党軍も街に入り込んでいた。敵対していた彼らは、しばしば小競り合いを起こし銃撃戦になることがあった。それの流れ弾に当たって死ぬ日本人以外の死体もあった。
 死体は日中、馬に引かせた大きな荷車がやってきて集められ、郊外にある共同墓地に掘られた巨大な穴に放り込まれた。
 そんな街の状況なので、虹子と香保子は紀和と正治をなるべく外出させないようにした。食料の買い出しなど必要な外出は香保子と虹子だけで行った。
 二人は外に出ると協力しあって辺りに気を配って歩いた。ソ連兵が遠くに見えれば路地に隠れた。そうやって市場に行って帰るには半日以上かかった。
 そんな状況では仕事などできなかった。持っていたお金が尽きれば着物などと物々交換して食料を手に入れた。また、虹子は顔見知りで好意的な中国人が経営する食堂から残飯を分けてもらった。そうやって四人は何とかハルビンでの生活を続けていた。
 やがて、ソ連兵の暴虐は昼夜を問わず行われるようになった。酔ったソ連兵が日本人の家に侵入して女性を引きずり出し連れて行くのだ。紀和達は家に居る時も男物の服を着て、顔を黒く塗ったまま過ごした。






 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み