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文字数 2,855文字

 ソ連軍の進駐から三か月後、恐れていた夜が紀和達にやってきた。
 突然、アパートのドアを蹴破りソ連兵が入ってきた。片手には通称マンドリンと呼ばれる軽機関銃を持っていた。もう一方の手には懐中電灯が握られていた。部屋の中には酒の匂いが充満した。
 紀和と虹子は悲鳴を上げて飛び起きた。正治はあまりの怖さに泣くこともなく、ただ歯をガチガチと鳴らし震えあがっていた。
 ソ連兵はマンドリンの銃口を向け、三人の顔を順に懐中電灯で照らした。光が一巡すると、懐中電灯の光は紀和を照らし止まった。そして、素早く懐中電灯をズボンのベルトに挟み、空いた手で紀和の腕を掴み引き寄せた。
「いやっー助けて!!」と紀和は悲鳴をあげた。
 虹子は「男の子」という意味のロシア語を繰り返した。女給時代に片言ではあるがロシア語を覚えていた。
 ソ連兵はマンドリンの銃身で虹子の顔を殴った。虹子は悲鳴を上げ床に倒れ動かなくなった。
 それから、ソ連兵は紀和を部屋の外に連れ出した。
「キャーーー!!いやーーー!!いやーーーー!!」
 アパートの他の住人は部屋の中で息を潜めていた。紀和の悲鳴だけが空しく廊下に響いた。
 紀和が引きずられ外に出された時、香保子は虹子の部屋に入った。正治は倒れた虹子の傍で泣きじゃくっていた。
「虹子さん大丈夫!」
 香保子は虹子の肩をゆすった。それで虹子は気が付き、ふらふらと起き上がった。
「香保子さん!正治を頼みます。私は紀和を取り返しに行きます」
 ふらふらのまま、虹子は台所にゆき包丁を手にした。
「虹子さん、そんなことしたら、正治君が、もし、虹子さんが死んだら・・・・・」
 香保子は虹子を止めようとした。虹子はそれを振り切り言った。
「私は大丈夫です。必ず紀和を取り戻します!」
 虹子は部屋を飛び出した。外に出て紀和が叫ぶ声が聞こえる方へと駆け出した。五六十メートル先、ソ連兵が路地の暗がりへと紀和を引きずり込む姿が見えた。
 虹子は猛然とその場所に走った。そして、路地の中に入ると闇の中にうごめく影が見えた。
ソ連兵の獣のような激しい息遣いが聞こえた。もはや、正気を失っていた紀和は悲鳴も上げることができなかった。
 虹子は両手で包丁を握り右わき腹のところに構え、うごめく影に向かって突進した。
 ドッスン、グサッ、ソ連兵の背中に包丁が刺さった。
「グワーッ!」ソ連兵は獣のような声を上げた。
 虹子は刺さった包丁を引き抜き、もう一度刺そうととした。だが、ソ連兵は虹子をはねのけた。そして、傍に置いていたマンドリンを掴み撃とうとした。それより一瞬はやく、虹子は体当たりでソ連兵の脇腹を刺した。
「紀和!早く逃げなさい!!」
 その声で気が付いた紀和は立ち上がり走った。胸元ははだけていた。脱がされかけたズボンを右手で掴みあげ、足をもつれさせながらも必死で走った。
 兵士のうめき声が聞こえた。「えい!」という虹子の声が何度も聞こえた。グサッ、グサッと包丁で刺す音も聞こえた。紀和は怖くて後ろを振り向かず、夢中でアパートへ走った。
 紀和は息せき切って、アパートの自分の部屋に飛び込んだ。
「紀和ちゃん!大丈夫」
 香保子は抱いていた正治と一緒に紀和も抱きとめた。二人は香保子の胸の中で泣きじゃくった。
「虹子さんはどうしたの?」
 香保子が聞いても紀和は泣きじゃくるだけだった。香保子は二人を強く抱きしめることしかできなかった。そして、一緒に泣くことしかできなかった。

 虹子は足を引きずるように歩き、激しい息遣いでアパートに戻ってきた。全身、ソ連兵の血で真っ赤になっていた。虹子は体全体を使って部屋のドアを押し開け、抱き合っていた三人の前へと倒れこんだ。
「キャーッ!」三人は悲鳴をあげた。
「虹子さん!大丈夫」
 香保子はしゃがみ込んで声をかけた。「お母さん!!死んじゃやだ!!」紀和も正治もしゃがみ込んで叫んだ。紀和はその時初めて虹子を「お母さん」と呼んだ。
「私は大丈夫・・・・。これは、・・みんなあいつの血だよ」
 虹子は喘ぐように答えた。
 香保子と紀和は一緒に虹子を抱きかかえ風呂場に連れていった。そして、服を脱がせシャワーを浴びさせた。冷たい水のシャワーだったが、虹子は何も感じず黙ったまま二人に体を洗ってもらった。その後、紀和もシャワーを浴びた。
 着替えた虹子と紀和、そして正治は一緒のベッドで横になった。香保子は居間の長椅子で横になった。疲れ切った四人は同じ部屋で眠った。
 翌朝早朝、路地で包丁の刺さったソ連兵の死体が発見された。ソ連軍の憲兵隊はただちに犯人捜しをはじめた。そして、満人の男の証言で、すぐに犯人を突き止めた。
 憲兵隊は証言した満人を連れ、紀和達の寝ていた部屋のドアを蹴破って入った。
「キャーッ!!」
 四人は悲鳴をあげて飛び起きた。
 満人は虹子を指差し、犯人だと憲兵に教えた。虹子は片言のロシア語で否定したが、聞き入れてもらえるはずもなかった。虹子は屈強な体の憲兵二人に両脇を抱えられ引きずられ連れていかれた。
 紀和と香保子は呆然と見送るしかなかった。正治は「お母さん!」と叫び泣くしかなかった。
「ねえ、お母さん、どこへ連れて行かれたの?」「必ず帰ってくるよね?」という正治の泣きながらの問に、紀和は「大丈夫、きっと帰ってくるよ」と正治を抱きしめながら言った。
 連行されて三日後の夕方、虹子は返された。憲兵隊はアパートのドアを乱暴に開けると、ゴミを捨てるように虹子を部屋に投げ入れた。激しい拷問を受けていた虹子の姿はぼろ雑巾のようだった。服は汚れて破れ、痣だらけの顔は瞼が膨れ上がっていた。
 紀和は香保子の手を借り、虹子をベッドに運び寝かせた。その間、虹子は口から血を吐いた。
「私!医者を呼んでくるわ」
 香保子はそう言って、部屋を飛び出した。
 紀和は濡らした手ぬぐいで虹子の顔を拭いた。虹子の顔は苦痛に歪んだ。
「ねえ、お母さん、しっかりして」
 紀和は泣きながら声をかけた。
「お母さん、お母さん」その脇で正治も泣きながら声をかけた。
 虹子は虫の息だった。
「紀和ちゃん・・・・・、正治をお願いね・・・・・」
 虹子はうわごとの様に、その言葉を繰り返した。
「正治、姉さんの言う・・・・事を、よく聞いてね」
「お母さん!しゃっべてはダメよ。もうわかったから」
 紀和は虹子の手を握って言った。虹子は紀和が握った反対の手で正治の手を掴み引き寄せた。
「二人とも・・・・、頑張って生きるのよ」
 ベッドのシーツと枕は虹子の吐いた血で赤く染まっていた。
 香保子の呼んだ医者は「内臓の損傷が激しい、手の施しようがない」という言葉を残し帰っていった。
 紀和と正治と香保子の三人が泣きながら見守る中、虹子は息を引き取った。紀和と正治は虹子にしがみついて涙が枯れるまで泣いた。
 葬式などあげられる状況ではないんだ。翌朝、虹子の遺体はアパートの他の住人の手伝いを得て、死体を集めにきた荷車に乗せられた。
 紀和と正治と香保子は、泣きながら手を合わせて荷車を見送った。
 

 
 

 
 


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