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文字数 2,012文字

 翌年、昭和19年8月から学童疎開が始まった。
 三津夫の学校は埼玉県に疎開することになっていたが、喜久子は縁故疎開を選んだ。三津夫は茨城県水戸市近くで筑波海軍航空隊のあった友部町にある喜久子の実家に疎開することになった。
 実家は元大地主だった農家である。だから食い物には困らないだろうと、喜久子が考えてのことだった。しかし、三津夫は気が進まなかった。何度か実家に喜久子と行ったことがあったが、陰気な家の雰囲気が嫌だった。

 三津夫は「僕、母さんとおばあちゃんを守らなければならないから、茨城に行きたくない」と駄々をこねた。しかし、厳しい祖母や喜久子に怒られ、仕方なく言うことを聞いた。
 茨城に旅立つ日、喜久子は「何かあったら、これを使うのよ」とお金を渡した。それから従兄弟たちに見せなさいと、だいぶ前に発刊された少年雑誌3冊を持たせた。最後に「辛いことがあったら、すぐに帰ってらっしゃい」と言った。じつは、喜久子も実家に疎開させることを不安に思っていた。

 三津夫が友部町の駅に着いたのは夕方だった。喜久子の兄にあたる叔父の熊坂清三が自転車で迎えに来ていた。
「よろしくおねがいします」
 三津夫はぼっそと挨拶をした。
「ああ、疲れたろう。これの後ろに乗れ、送ってやる」
 清三は三津夫を自転車の荷台に乗せペダルを漕ぎだした。
 清三の年齢は50歳だった。髪の毛は白髪が勝っていた。細面で眼鏡をかけ、ちょっと見は色男だった。清三の息からは酒の匂いがした。
「喜久子は元気にやっているか?」
「はい」
「喜久子も大変だなあ、幸太郎も死んで信一郎も死んで、ばあさんに子供一人残されてさ。三津夫がこっちにきたら、あの厳しいばあさんあとー2人だけだ。だから、女学校を出て東京に行きたいなんて言わなきゃよかったんだよー。そうすれば、軍人と結婚せずにすんだのに。こっちにいれば、水戸辺りの旦那衆と結婚して今頃は安泰してくらせたろーに。女学校時代から、水戸の旦那衆から嫁になんて声がたくさんあったんだよ。喜久子にはもったいねー話だ」
 清三はべらべらと独り言のように話した。
「三津夫、お前も母さんと離れて寂しいだろうがー、もう少しの辛抱だ。もうじき、この戦争も日本が負けて終わるからな」
 三津夫は清三の言葉にむっとした。「日本が負ける」という清三の言葉が許せなかった。しかし、反論せずに黙って聞いていた。
「ところで、三津夫、お前がこっちに来るのは何年ぶりだ?」
 三津夫は答えられずにいた。
「忘れたか。しょうがないなー。えーと、たしかあれはー、戦争前だから3年前だよなー。お前7歳くらいだったろう、俺の家までの道はおぼえているかー?」
「はい、なんとなく・・・・・」
「そうか、まあ、一本道だからわかるよなー」
 それにしても、三津夫は清三がこんなに話しかけてくることに驚いた。その前に母親と来た時は清三は無口で三津夫とほとんど話したことがなかったからだ。
 しかし、三津夫はすぐにそれが酒のせいだとわかった。まえに来た時も、酒が入ってから母親と陽気に話し始めたのを覚えていた。
 清三は素面の時は無口だが、酒がちょっと入って気持ちよくなれば饒舌になった。そしてさらに、酒が入れば見境を失った。このことが叔父の家を陰気に感じる原因になっていた。

「よし、ここらでいいか」
 とつぜん、清三は自転車を止めた。
「ここからは一本道だ。迷わないはずだ。自転車降りて歩いていけ、10分くらいで着くはずだ。俺はー、町に用事があるか戻る」
 清三は取って返し、町の方へと自転車を漕ぎだした。三津夫は唖然として清三の背中を見送った。
 仕方なく三津夫は稲穂が首をたれはじめた田んぼの中の道をとぼとぼと歩き始めた。山に沈んだ太陽はわずかに山際を赤紫に染めていた。代わりに昇った月は輝きを増し始めた。三津夫は月明かりを頼りに叔父の家へと歩いた。

 清三の家は8代続く大地主だったが、今は二町歩足らずの田んぼが残るだけになっていた。その田んぼも分家に出た清三の弟夫婦と清三の妻紗世が作っていた。清三はまったく仕事をしていなかった。
 東京の大学を出た後、清三は文人気取りで俳句や短歌を詠み、小説や詩も書いていた。そして、水戸の旦那衆数人と文芸の同人誌を作ったりしていた。いずれもお金になるはずもなく、周りから見れば完全な道楽だった。
 清三は先代が死ぬと「これからは農業じゃない」と言って、二町歩足らずの田んぼを残し土地を一気に全部売ってしまった。そのお金は酒や本を買うのと同人誌の印刷に使うだけで、湯水のごとく使うわけではなかった。そのため、当分の間は一家4人が暮らしに困らないだけの財産は残っていた。

 一本道なのと大地主だった家は大きく蔵や農作業小屋があり、周りは高い土塀で囲まれていたのですぐわかるのだ。三津夫は迷わずに叔父の家に着いた。しかし、10分という時間は嘘だった。三津夫は30分以上かかった。
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