4

文字数 2,401文字

 甲本が帰還を果たしたのは終戦の日から2か月後だった。
 甲本は一面焼け野原になっていた東京の変わりように驚いた。自分の家もどうなっているか心配だったが、幸い家は戦災を免れていた。不思議に思ったのは聖12使徒教会の周辺だけが焼け残り、他は跡形も無くなっていたことだった。甲本家にはさらなる幸運もあった。出征していた克実や志願して入隊していた聡も無事に戻っていたのだ。

 甲本が家に帰った日の夜は久しぶりの一家そろった団欒だった。その中で甲本は「お母さん」と正座をしなが志摩子に声をかけた。そして、卓袱台の上に志摩子からもらった十字架を置いた。それは手垢にまみれ黒ずんでいた。
「こうして僕が無事に帰れたのもこの十字架のおかげかもしれません。手垢で黒くなるほど何度も握っていたから、僕を守ってくれたと思います。お母さん、本当に心配かけてすいませんでした。そして、ありがとうございました」
 甲本は畳に手を付いて頭を下げた。
「なんだ、やっぱり秀樹兄さんも十字架もらったんだね。俺も敵機の攻撃を受けた時に十字架を握りしめてたよ。ほら、俺のも手垢で真っ黒だ」
 聡も持っていた十字架を見せた。
「2人もかい、俺のもそうだよ」と克実も十字架を出した。
「もう、片時もこれを離せなくなってしまった。家の中でも持ち歩いてしまってる」
 克実は苦笑いで言った。
「みんな無事で良かったよ。私も毎日十字架を磨きながらお祈りしていたのよ」
 志摩子も持っていた十字架を見せた。それはピカピカに磨き上げられ真鍮がまるで金のように光っていた。
「なんだ、十字架持ってないのは俺だけかい」
 父の勇実は不貞腐れ気味で言った。
「それじゃあ、あなたも教会に行ってみますか。一緒に行くなら神父様に頼んで十字架を貰ってあげますよ」
「何を言っとるか、この家はもともと仏教だぞ、まったくどいつもこいつもうちの家族はキリストかぶれで困ったもんだ」
 勇実は立ち上がり寝室へと引っ込んだ。兄弟3人と志摩子は、それぞれ「おやすみなさい、お父さん」と声をかけた後に微笑み合った。

「なあ、今度の日曜の礼拝、お母さんに付いて兄弟3人で出かけようか」
 そう言ったのは聡だった。
「いいね、子どもの時以来行ってないから、久しぶりに行ってみるか。まっ、お礼参りということもあるからな」
 克実が続けた。
「それはいいや、母さんと4人で行こうよ」
 甲本が言った。
「そうね、いいかもしれないけど・・・・・」
 志摩子は言いよどんだ。
「しれないけど、って、母さん何かあるの?」
 甲本が聞いた。
「ううん、何でもないわよ。皆で行きましょう」
 志摩子は場を取り繕うように、ぎこちない笑顔で言った。

 その夜、床に就いた甲本は日奈子のことを考えていた。日曜の礼拝に来るだろうかと気になっていた。来れば彼女にどんな言葉をかけようか考えた。さぞ気まずくなるだろうが、それでも日奈子の顔が見たかった。顔を見て真剣に話したかった。手紙の事を詫び、今なら真剣に神を信じられると伝えたかった。

「秀樹、起きてる?」
 襖の向こうから志摩子の声がした。
「起きてるよ、母さん何だい?」
「入ってもいい?」
「いいよ」
 甲本は布団から立ち上がり明かりを点けた。そして乱れた寝巻を直して布団の上に座った。その後、志摩子が襖を開けて入ってきた。志摩子の目には涙があった。
「どうしたんだい、母さん」
 甲本は驚きながら言った。
「じつはね・・・・・」
 志摩子は鼻声になっていた。甲本は嫌な予感がして背筋を冷や汗が流れた。
「じつはね、話そうかどうか迷ったんだけど。いずれわかることだから、辛いけど母さんが話すわね」
 甲本は身構えた。
「日奈子さん、亡くなったの・・・・・」
「えっ?!」
 甲本は雷に打たれたような衝撃を感じた。
「どうして?なんで?空襲にでも巻き込まれたの?」
「それがね、看護婦としてフィリピンの戦地に行ったのよ。そこでマラリアに罹って亡くなったらしいの」
「まさか看護婦なんて、彼女は東京高女子の学生じゃないですか。それがどうして看護婦なんかに?」
 甲本は問い詰めるように聞いた。
「ちょうどあなたが入隊を決めた頃に日奈子さんも看護婦になりたいと、学校を辞めて日赤の看護婦養成所に入ったらしいの。そして、一年後に自ら志願してフィリピンに陸軍の看護婦として行ったという話よ。日奈子さんのお母様からそう聞いたわ」
「どうして、どうして、日奈子さんが、僕が入隊を決めたから?」
「そうね、どうかしら・・・・・。日奈子さんのお母様が必死で引き留めたらしいけど、私は兵隊さんを一人でも多く救いたいの、これは神様から与えられた使命なの、と言って聞かなかったらしいわ」
「神からの使命だなんて。そんな、死んじまったらどうしようもないじゃないか、日奈子さん!!」
 甲本は布団に突っ伏し泣き崩れた。志摩子はかける言葉もなく、ただ甲本の背中をさすりながら自分も泣いていた。

 次の日から甲本は食事もまともに取らず、一日の大半を寝て過ごした。そして、自分を責め続けた。

―自分は日奈子さんへの手紙の中で生きて帰っても敵兵を殺した罪を負った人間で、もう教会には行けないと書いた。しかし、自分は一人も敵兵を殺してこなかった。運よく、あるいは母がくれた十字架のおかげで生きて帰ってこれたと思っていた。でも違うのだ。自分は戦場から逃げていたんだ。陸軍経理学校を受けたのも、もしかしたら内地勤務になるかもしれないと期待していたからだ。タイピンに行っても司令部に残されたことを喜んでいた。前線の部隊に送られたくさんの仲間が死んだのに自分は、のうのうと机に向かって計算をしていただけだ。自分は戦場から逃げ回っていたただの卑怯者なのだ。そんな自分のせいで、日奈子さんは看護婦になって戦地に行って死んだ。自分のせいだ、自分のせいだ・・・・・―

 そして、甲本は重病人のようになっていった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み