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文字数 2,382文字

 甲本が寝込んで三日後の日曜日、その日の礼拝には志摩子だけが行った。克実も聡も甲本に気を使い行くのをやめた。
 夕方になり甲本家を手塚神父が訪れた。甲本を心配して志摩子が呼んだのだ。
「秀樹、神父様がいらっしゃってるのよ、あなたを心配して私が及びしたの。入ってもいいかしら?」
 まずは、志摩子が部屋の外から声をかけた。
「秀樹君、私の話を聞いてくれないか、少しでも君の力になりたいんだ。中に入ってもいいかな?」
 手塚がそう声をかけると、部屋の中から「どうぞ」と力ない返事が返ってきた。志摩子が襖を開けると、甲本は腑抜けたように肩を落とし布団の上に座っていた。
「秀樹、神父様よ」
 志摩子の声に甲本はゆっくりと反応して、やつれた顔を手塚に向け「ああ、どうも」と言って頭をちょこんとさげた。
「お邪魔させてもらうよ、秀樹君。ここに座らせてもらっていいかい?」
「はい、どうぞ」
 甲本はまた、ちょこんと頭を下げた。
「正座は苦手でね、胡坐で失礼するよ」
 手塚は甲本の傍に座った。
「今、座布団を持ちします」
 志摩子は慌てたようにして、その場を離れた。
「つらいよねえ、秀樹君」
 手塚は胡坐をかいた両膝に両手をのせ、身を乗り出すようにしてふさぎ込んでいる甲本の耳元で言った。
「はい・・・・・」
 甲本はうなだれ力のない返事をした。手塚はフウっとため息をついて上体を戻した。
「あの戦争では私も大事な人を何人も亡くした。もちろん、日奈子さんもその一人だ。思えば私も60年以上生きてきたが、日本は戦争ばかりだった気がするよ。日清戦争にはじまり日露、そして先の世界大戦、その後満州事変だし日中戦争がはじまり、すぐにアメリカとの戦争だ。日露戦争には私も兵士として行ったし、満州事変の頃には軍医として従軍していた。正直、戦争はもうこりごりだ。これからは平和な世界になってもらいたいよ」
 甲本はうなだれたまま黙って聞いていた。手塚は話を続けた。
「戦争で何が一番つらいことかといえば、未来ある若者が命を落とすということだ。死ななかったとしても秀樹君のようにつらい思いをしなければならない。今、私の所に来る患者には戦争で負傷した者や神経症になった者も多くいるんだ」
 甲本は顔を上げた。訴えるような目には涙があった。
「でも、僕は戦争に行ったが、戦場から逃げていたんだ!戦地に行っても一度も鉄砲を撃ったことがなかったんだ!ただ、机にしがみつき計算していただけなんだ。仲間の死は自分にとってただの数字でしかなかった。こんな僕が生き残り日奈子さんが死ぬなんて、逆だよ、僕が死ねばよかったんだ!」
 甲本は布団に突っ伏して泣いた。
「秀樹・・・・・」
 志摩子が座布団を持ったまま、涙を流し立っていた。
「すみません、神父様、これを・・・・・」
 志摩子は手塚に座布団を渡し、その場に泣き崩れた。手塚は受け取った座布団を脇に置いた。
「辛い、辛いねえ・・・・・、私も辛いよ。もう、戦争はいらない・・・・・」
 手塚は志摩子と甲本を交互に見ながら言った。
「秀樹君、辛いかもしれない、私もつらい。でも生きている人間はこれからも生きてゆかなければならないんだよ。それが日奈子さんの望みでもあるんだ」
 手塚は甲本の肩に手を置いて言った。
「彼女はね看護婦になって戦地に行く前に私のところへ来たんだよ。そして、聖書の一節を使ってこう言ったんだ。『一粒の麦死なずば、唯一つにて在らん。もし死なずば、多くの実を結ぶべし』これはね、主イエス・キリストが明日十字架にかけられ殺されるという時にキリストが言ったという言葉なんだよ。私が生き続ければ何もできない唯の一人にしか過ぎないが、私が死ねば私を信じる多くの者に救いを与えられるという意味なんだがね。日奈子さんは、――この忌まわしい戦争で一人でも多くの命を救えば、それはやがて子や孫と繋がり多くの命が生まれるだろうし、その多くの人の中から世の中に役立つことを考え出す人がいれば、それによって多くの人が救われることになるかもしれない。だから私はどんな危険でも戦場に行って、一人でも多くの命を救う手伝いをしたいの。私は一粒の麦になりたいんです――と言ったんだよ。日奈子さんの決意は固いものだった。最後に祭壇に祈りを捧げる姿は聖母マリア様のようだった・・・・・」
「秀樹君」
 手塚はあらためて甲本の顔を覗き込むように呼びかけた。
「日奈子さんは君のことについても話していたよ。君にもらった手紙を見せてくれたんだ。君はあの手紙の中で―神は信じていない―と書いたね。教会に通うのは日奈子さんに会いたいからだったとも書いたね。でも彼女は言っていたよ、それでも君の心の中には神の御心が宿っていると。君は宗教が歴史によって作られたと書いたが、それはね歴史がつながってキリスト教が今日まであるということなんだよ。歴史がつながるということは、人間には言葉があるからなんだ。
日奈子さんは言葉は生きているんだと言ってたよ。言葉には心がある、聖書の言葉には神の御心がある。だから、言葉は生きて神の御心を人の心に植え付けるのだと・・・・・」
「神父様」
 甲本は顔を上げ、涙の目を見開き手塚の方を向いた。
「僕は日奈子さんの遺志を無駄にしません。僕は神を信じ人々の役に立つ人間になりたいと思います!」
「そうだ、そうだよ、秀樹君。日奈子さんもそれを望んでいると思うよ」
「秀樹、日奈子さんのためにも頑張りなさい」
 志摩子は泣きながら言った。
「ありがとうございます神父様、ありがとうございます・・・・・」
 甲本は泣きながら手塚の手を握り「ありがとうございます」を繰り返した。

 その後、甲本は手塚に付いて教会の仕事を手伝いながら神父を目指した。さらに、人の命を救いたいと自ら看護婦になった日奈子にならって自分も人の命を救いたいと医者になる決心もした。


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