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文字数 3,837文字

「寝ているところ悪いね、紀和ちゃん手伝ってくれないか」
 三十分ほど寝ていた紀和を倉さんが起こしにきた。紀和は目を閉じたまま上体だけを起こし「はい」と生返事をした後に頭がかくっと前に倒れた。それから、一呼吸置いて何とか立ち上がることができた。
「ちょっと、風呂場へ案内するから付いてきて」
紀和はそれには返事をせずに頭を下げたまま、倉さんの声のする方にふらふらしながら歩み寄った。倉さんは仕方ないかといった顔をして、紀和の手を取り風呂場へ向かった。
「まあ、無理もないと思うが、紀和ちゃんの体臭うから風呂浴びて体を洗ってさあ、それから俺の手伝いを頼むよ」
 そう言った後、倉さんは着替えの服を見せて続けた。
「風呂から上がったら、これに着替えてよ、男物の服と帽子。女の子だとわかるとアメリカさんにやられるからね。それでシノもやめたんだよ」
 その時の紀和には眠気で話の意味が分からなかった。
 風呂から上がった紀和はだいぶ頭がはっきりしてきた。そして、男物の着替えを見て、倉さんのさっきの話を思い出した。その話の意味を悟った紀和は、眠気は一気に吹き飛び心臓がどきどきして目まいもしはじめた。逃げ出したい気持ちになった。しかし、胸の前を掴みぐっと堪えた。
―ここで働くしか正治と生きて行く道はないのだ。自分を守ってくれたお母さんのためにも正治を守らなければならないんだ・・・・・― 
 紀和は目を見開き、自分を奮い立たせた。
 風呂から上がり服を着替えると、さっそく紀和は部屋に酒や料理を運ぶことになった。なるべく帽子を目深に被り顔は下げ、アメリカ兵と目を合わせないようにした。廊下はなるべく速足で歩いた。
 客が帰れば部屋の掃除やシーツの交換をした。そうやって一晩中働いた。そして、明け方四時頃にようやく仕事が終わった。
 体はくたくただった。紀和はそのまま部屋に行き布団を敷いて寝ていた正治の隣に倒れ込んだ。
「姉ちゃん、大丈夫?」
 驚いて飛び起きた正治が聞いた。その問いに答えることもなく、紀和はすぐに寝息をたてた。

 紀和が眠れたのは五時間ほどだった。午前九時頃に女将にたたき起こされたのだ。そして、女将の身の回りの世話やお使いをさせられた。
 そんな毎日で大変だったが、食うに困らないことが嬉しかった。それが働き甲斐にもつながり頑張ることができた。

 HOTEL TOKYOで働きはじめて数週間後、正治は倉さんの世話で小学校に通うようになった。小学校といっても校舎は戦災で焼失しているので、青空教室といわれる外での授業だった。それでも正治は同世代の子供と勉強できるのがうれしくて元気よく学校に通った。
 しかし、それから一か月後、正治の元気がなくなった。それに、手や顔に擦り傷を負って帰ってくることもあった。
 紀和が心配して聞いてみても、正治はなかなか答えようとはしなかった。紀和が何度も聞いてようやく、正治は重い口を開いた。
「パンパンの子、パンパンの子って、いじめられるんだ。悔しくって、悔しくってさー、俺、喧嘩したんだ」
 正治の目から大粒の涙が出てすすり泣きをはじめた。
「大丈夫よ、姉ちゃんが何とかしてあげるから泣かないで」
 紀和はそう言って正治を抱きしめた。だが、正治はますます声を上げて泣いた。

 それ以来、紀和は仕事中でも正治のことが頭から離れなかった。そして、紀和は悩んだ。
 ここを出て何か別の仕事を探そうかとも思った。でも、食事も寝るところも付いている仕事なんか他にないだろうと思った。
 結局、ここで何とかしなければならないのだという結論に達した。なら、どうすべきか? 紀和は考えた。
―正治がここから通っているからいじめられるんだ。それじゃー、ここを出てよそに部屋でも借りようか。でも、今は食べさせてもらっているだけで、まともな給金などもらっていないのだ。それでは部屋を借りることなど無理な話だ。ならどうすればいいの?―

 それから数週間後、紀和は正治のために一大決心をした。そして、女将に客を取りたいと話した。その話を聞いて、女将は密かにほくそ笑んだ。
 女将はかねがね、紀和の顔を見て―こいつが客を取ったら高く売れる上玉になるだろうな―と思っていた。
「ほおー、客を取りたいって、そして、その金でここを出て部屋を借りたいというのかい。それはいいよ、でも、お前さんに客の相手ができるのかい?男の経験なんてないだろう?ましてや、相手はアメリカさんだよ」
 女将は紀和の周りを歩き、嘗め回すように紀和を見ながら言った
「はい・・・、私・・・、やります!」
 紀和は震えていたが、言葉には力があった。
「よし、二三日のうちにお客さんの相手してもらうよ。それまでは今までどおり働いておくれ、部屋の件は私が面倒みてやるよ」

それから三日後の夜、女将は紀和を呼び花柄の浴衣を着せた。そして、ミリーに化粧を頼んだ。
「ミリー、化粧は派手にしないでおくれ、おぼこ女子のようでいいからね」
「今夜のお客は、例の禿おやじなお?」
「そうだよ、あの方に話したら、是非、俺がその娘の最初の男になりたいというから、一晩二千円だよとふっかけたら応じたよ」
 女将は笑いながら言った。
「あんた二千円だってさ、すごいねえ、ここの新記録じゃないの」
 ミリーは目を丸くして言った。今夜のことで不安いっぱいの紀和には、まったく話が通じていなかった。目は宙を見つめていた。
 化粧を終えた紀和は二階の部屋ではなく、一階にあるアメリカ軍の将校用の特別な部屋に入れられた。そこは入口が襖になっていたが、中は洋室の造りになっていて、床は板張りでベッドとテーブルが置かれていた。紀和はテーブル傍の椅子に座り、震えながらその時を待った。

「どうぞ、こちらへ」
 女将の声がして部屋の襖が開いた。紀和は顔を上げることができず、いっそう、体を震わせていた。
「どれ、顔を見せてくれないか」
 紀和の最初の客は日本人だった。その男は有力な政治家で何かと問題が起きる女将の商売を影で支えていたのだ。
 男はかがみこむようにして紀和の顔を覗き込んだ。紀和は固く目を閉じ顎を引いて震えながら恐怖に耐えていた。
「よしよし、初めてなんだね、怖くないよ」
 男は紀和の肩にそっと手を置いた。紀和の体がビックと動いた。
「まあ、焦ることはない」
 男は自分に言い聞かせるように言った。
「まずは酒と何か肴でももらおうか」
「かしこまりました」
 女将はお辞儀をして去っていった。その後すぐに、倉さんが酒と料理を持ってきた。
 男は紀和に酌をさせた。紀和の手は震えてうまく注げなかった。
「まあいい、手酌でやるから」と男は紀和から徳利を取り上げた。
「酒は飲めるか?飲んだほうが緊張もなくなるよ」
 男は盃に酒を注ぎ紀和の前に置いた。喉が渇いていた紀和は、おもわず一気にその酒を飲んだが咽てしまった。
「おい、大丈夫か、水でも飲むかい?」
 男は水を頼んでくれた。紀和はそれを飲んだ。
 その後、男は酒と食事をとりながら、紀和に出身地や家族の話を聞いた。紀和はそれに正直に答えた。
「苦労したんだね、まあ、これからは俺がいいようにしてやるから、困ったことがあったら女将に話すといいよ。女将がすぐに俺に連絡をくれるから」
 男はそう言いながら、いきなり紀和に抱きつきキスをしとうとした。
「いやっ!!」と声を上げながら紀和は顔をそむけた。キスはかわしたが、男の手が浴衣の帯を掴み解こうとしていた。帯は簡単に解けた。紀和は男から離れようと立ち上がりはだけた浴衣の前を押さえたが、男の手が浴衣の中に入り背中の方まで回り込んだ。そして、そのまま紀和はベッドに押し倒された。
 紀和は観念した。そして、振り絞るような声で「明かりを、消してください」と頼んだ。
 闇の中で自分の体が男にむさぼられる中、紀和は気が遠くなりかけ、これまでの出来事が走馬灯のように頭を駆け巡った。
「なーに、心配いらないよ。ナニの最中は自分を人形だと思っていれば、すぐに終わるよ」というミリーの言葉が頭に浮かんだ。
「そう、私は生きていかなければならないの!正治を立派な大人にしなければならないの。命をかけて私を助けてくれたお母さんのためにも」
 紀和はそんな覚悟を決めたことを思った。
「私は人形」そう何度も頭の中で唱え、紀和は耐えた。

 どれだけの時間が過ぎたかわからなかった。男が去った後も紀和は、ベッドの中で横たわっていた。枕は涙で濡れていた。
 突然、明かりが点き女将が入ってきた。
「はい、ご苦労さん。今日からここでのあんたの名前はキティーだよ。頑張っておくれ」
 それだけ言い残し女将は去っていった。
 その後何日かして、女将は紀和に部屋ではなく一軒家を世話してくれた。そこから正治は小学校に通った。しかし、パンパンの子と言われるいじめは続いた。それでも紀和は、正治のためだと思いお客を取り続けた。
 アメリカ軍の将校や例の政治家と上客を相手にしていた紀和はたちまちお金が貯まった。その一部を小遣いとして正治に渡した。当時の小学生が滅多に見ることのないほどの金額だった。正治はその小遣いで上等なお菓子を買って同級生にあげるようになった。そのおかげで正治へのいじめはなくなった。

 その後、紀和と正治の暮らしは何の不自由もなくなった。だが、二人の間に壁が出来ていた。紀和が話しかけても、正治は必要最小限のことしか話さなかった。言い方もぶっきらぼうになっていた。
        
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