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文字数 5,015文字

 ハルビンを出て一か月余り、ようやく紀和と正治は日本にたどり着くことができた。だが、二人の地獄はまだまだ続くのだった。
 昭和二十一年五月はじめ、紀和と正治は焼け野原となった東京の惨状に驚きと絶望を感じた。日本に着いて、最も当てにしていた祖母トミの家も空襲で無くなっていた。
 トミの家があった周辺で消息を訪ねまわる中で、トミと知り合いだったという人に出会った。その人の話によれば、トミは夫ともども昭和二十年三月十日の東京大空襲で亡くなったということだった。その日は、その人が自力で建てたというバラック小屋の家に泊めてもらった。
 翌日、お礼を言ってその家を出たが、行く当てはなかった。紀和は東京にある何人かの親戚が思い浮かんだが、七歳で東京を離れたため詳しい住所はわからなかった。紀和は途方に暮れながら正治とともにさまよい歩いた。
 終戦から一年になろうとしていたこの時期、焼跡にバラック小屋の家が建ち普通の暮らしを取り戻しはじめた人たちもいた。しかし、まだまだ街中には住むところや仕事のない浮浪者や浮浪児と呼ばれた戦災孤児の子供たちも多くいた。
 大きい駅の周辺、上野や銀座、新橋等には大きい青空市(闇市)があった。そこに、東京中から人が集まるのだ。一面の焼け野原でも駅前には人が湧いて出るように集まってきた。
 ボロボロの服を着た浮浪者や浮浪児、戦地からの復員兵、日用品や食料を求めてくる人たち、駅から地方に米や野菜を買い出しに出かける人、地方で空襲に焼け出され仕事もないので東京に仕事を求めてやってくる者、ありとあらゆる人が集まるのだ。
 痩せ細った体の姉弟もまた、上野駅前にやってきた。二人は瓦礫の上に腰を下ろし闇市を行き交う人たちをただ眺めていた。
 ハルビンも新京も奉天もこれほど酷くはなかった。大きな戦闘も爆撃もなく、街の形は保たれていた。こんなことなら日本に帰らず、ハルビンで香保子おばさんとともに残ればよかったと紀和は思った。だが、今更戻るわけにもいかなのだ。ともかく、この東京で正治とともに生きてゆかねばならないのだ。生きてゆくためには食料を得なければならない。そのためにはお金を稼がなくては、仕事を探さなければいけないのだ。でも、どうやって?
 結局、日本に着いても大陸にいたころと変わらないではないか。トミの知り合いの家から出る際にもらった焼き芋の切れ端を二人で分け合い食べながら紀和は思った。
 大陸から引き揚げ船で着いた舞鶴で、医師の簡単な診察を受けた。二人とも栄養失調と言われた。「何か栄養のあるものを食べなさい」という医者の言葉が頭の中で虚しく響いた。せっかく苦労して日本にたどり着いたが、このまま二人で野垂れ死にするしかないのか。満州でも東京に着いても野垂れ死にの死体をたくさん見て来た。紀和はそんな死体と同じように二人が死んで横たわっている姿を想像した。想像したが、現実にも思えてきて身震いした。
「さあ、行くよ」
 紀和は嫌な想像を振り切るように言って立ち上がった。
「どこへ?」
 正治は焼き芋の切れ端を口に入れたまま力なく聞いた。
「いいから行くの!」
 紀和は正治の手を引っ張って立たせた。
 二人は虚ろな顔で人波の中をあてどなく歩いた。すると、瓦礫で灰色になった街中に不似合いな姿の女性が目に留まった。ピンク色のワンピースを着て派手な化粧をし、赤いリボンで髪の毛を結った女性だった。
「お母さん」
  紀和は無意識にそうつぶやいた。彼女はその女性に虹子の姿を重ねていた。幼くして母を亡くした紀和の中では虹子が本当のお母さんになっていた。
「お母さんじゃないよ」
 正治がそう言って紀和の袖を引っ張ったが、紀和はそれを気に留めず女性と同じ方向に歩きはじめた。仕方なく、正治もそれに続いた。
 五分ほど女性の後を付いてゆくと上野広小路辺りに着いたようだった。女性は何とか形は留めているが、内部が全部焼け落ち廃墟となった二つのビルの間を通る横道へと曲がった。少し遅れて二人もその横道に入った。午前十時を回ったくらいなのに横道はビルのせいで日差しが入らず薄暗かった。
 女性はビルの間に建っていた木造の建物に入った。二人はその建物の入り口近くまで来て立ち止まった。
 木造の建物は旅館のようだった。ビルとビルの間にあったため、焼夷弾の直撃を免れ木造でも火災にあわなかったのだ。入口周りはモザイクのように色の違う木材が打ち付けられ何とか形を保っていた。その木材のひとつに「旅館名取屋」と書かれた看板のような板もあった。入口には木製で縦書きの看板が掲げてあった。看板には「上野鬼柳組」と彫り込まれた黒い字で書いてあったが、その上に「HOTEL TOKYO」と赤いペンキで書かれていた。そこは、アメリカ兵相手の売春宿だった。
「おはようございます、女将さん、何か大変なことになったって?」
 外に立っていた紀和は中の会話に聞き耳を立てた。中は明かりが点いているらしく、ガラス越しにぼんやりと人影が見えた。
「あらミリー、良かったわ、あなた一人だけでも来てくれて。他の女の子は連絡がつかなくてだめなの、それで倉さんと二人で途方に暮れてたところなのよ。夕べは酷かったわー、アメリカさん同士の大喧嘩よ、それで部屋が滅茶苦茶なの。何とか午後5時からの営業に間に合わせたいの。早速、悪いけどそこのエプロン着けて倉さんと後片付けお願いね。私も帳簿の整理が終わったら手伝うから」
「あのー、おじゃまします」
 紀和はいきなり引戸を開けた。傍で正治が目を見開き口をポカンと開け紀和の顔を見ていた。
 中には二人が付いてきた女性と白髪頭をお団子に結った厚化粧の老婆、それに白いダボシャツに酒の名前が入った前掛けをした白髪に角刈り、さらにねじり鉢巻きをした男がいた。
 三人の目は紀和たちに向けられた。
「おやおや、ここはあなたたち野良犬が来るとこじゃないよ、出て行きなさい」
 厚化粧の老婆が言った。竜をあしらった柄のどぎつい着物を着ていた。
「おねがいです、ここで働かせてください」
「働かせてください?ここがどんなところかも知らないくせに、働くなんて無理だよ」
「私たち、行くところがないんです。おねがいします」
 紀和は正治に手を引いて中に入り、深々と頭を下げた。
「今時、行くとこのない人間なんか東京にはごまんといるよ、そんなのにいちいち仕事をさせてられるか、お帰りよ」
 老婆は右手を振って追い出すような仕草をした。
「おねがいします!」
「ほんと、わからない野良犬だねえ、ダメなものはダメなの、いいから出て行って」
「おねがいします、ここで働かせてください」
 紀和は何度も頭を下げた。
「しつこいねえ、あんたたちも。倉さん、この二人をつまみ出してちょうだい。忙しいからね早くしてちょうだい」
「あー、はい・・・・・、でもー」
 鉢巻の男は二人の姿を見て困った顔をした。
「何をグズグズしているの、早くしなさい」
「まあまあ、女将さん、丁度いいじゃない。今、人手がいるんだし手伝ってもらおうよ」
 ワンピースの女が老婆をなだめるように言った。
「あのー、シノちゃんがやめてから、俺、忙しくて、誰か雇ってほしかったんです。だから、ちょうどいいんじゃないかと・・・・・」
「ふん、勝ってにおし!倉さん、あんた人が良すぎるんだよ。シノもそうだったけど、倉さんが探してきた子だったわね。なら、どうせすぐこいつらもシノのように出て行っちゃうよ、絶対。ああ、もーいいわ、早く部屋の片づけをしてちょうだい。早くね、忙しいんだから」
 老婆はぶつくさと何かを言いながら、帳場のある部屋に入っていった。
「ねえ、あんたたち名前は?」
 ワンピースの女が聞いた。
「私は東村紀和といいます。こっちは正治です」
「二人は姉弟なの?」
「はい、そうです。私たちハルビンから引き揚げてきたんです。祖母を頼りに東京に来たんですが祖母は空襲で死にました。それで行くところが無くなりました。父や母はハルビンで死んでしまって」
「そうかい、アタシはね親兄弟はみんな戦争で死んじゃったよ。天涯孤独の身ってやつだよ。まっ、弟がいるだけましだね」
 女は腰にエプロンを着けた。
「アタシの名前はここじゃミリーって呼ばれてる。ほんとは路子だけど。そして、こっちのおじさんは倉森さんね。皆、倉さんって呼んでるよ」
「これからお世話になります。一生懸命働きます。よろしくお願いします」
 紀和は頭を下げて言った。
「姉ちゃん、ここで働くなんて、俺いやだ」
「いいの!言うことを聞きなさい。私たちは行くとこないから、ここでお世話になるの。あんたも頭を下げて」
 紀和は正治の頭を押さえ無理やり下げさせた。
「それにしても、あんたたちの格好、それ何?日本人に見えないけど」
「はい、この服は引き揚げてくるときに中国人からもらってきた服なんです」
「ふーん、親切な中国人もいるのか、大陸じゃー日本人は皆敵なはずだけど。でも、ここじゃあその恰好だとねー、まずいなー。そうだ、シノちゃんの服、まだ残ってたはずだから後でそれに着替えるといいよ。まあ、弟の方はそれでしばらく我慢して」
 ミリーは姉さん被りで手ぬぐいを頭に巻いた。
「それで、倉さん何からすればいい?」
「それじゃー、割れた皿があるから片付けて、布団も汚れているから交換を頼みます」
「そう、わかったわ。それじゃあ、あんたたちも付いてきて」
 そう言われ、紀和たちは靴を脱いで土間から上がろうとした。
「ああいいの、靴なんか脱がなくて、土足でいいからあがって」
 元は立派な旅館のようだったが、今は見る影もなかった。アメリカ兵が土足で歩き回るので廊下や階段は外と変わらないくらい泥で汚れていた。
 片付けなければならない部屋は二階にあった。泥だらけの階段を上ると、無残な光景があった。襖は破れたり折れ曲がったりして倒れていた。割れた皿が床一面に散乱していた。布団は土足で付いた泥で汚れたうえ、破れて中の綿が飛び出した状態だった。
 二階は廊下挟んで、両側に四部屋ずつあった。その奥の向かい合わせになった二部屋が特にひどい状態だった。二階全体には酒の臭いが充満していた。
「うわー、ひどい有様ね。どっから手を付けていいかわからないよー」
 ミリーは奥の一番ひどい部屋に入り、それに続き紀和たちも入った。二人は慣れない酒の匂いに鼻をつまんだ。
 ミリーは部屋を見回した。部屋の畳の上にテーブルと椅子が置いてあった。そのテーブルには酒の残ったグラスと手を付けてないサンドイッチがのった皿が二枚あった。
「おお、ちょうどいいのがあった。朝飯がまだだから、これ食べよーと」
 ミリーはサンドイッチを食べ始めた。
「あんたたちも食べていいよ」
 そう言われても紀和は食べていいか迷った。正治は少し口からよだれを垂らし紀和の顔を見ていた。
「何遠慮しているの、その様子じゃあ、ろくなもの食べてないでしょう。どうせ、この余り物はあんたたちみたいな人達に女将さんが分けてあげちゃうんだから、食べなよ」
 食パンにハムとチーズを挟んだサンドイッチだった。紀和と正治はそれを分け合って食べた。
「ここはね、アメリカ軍から横流しの食糧がたくさん入るのよ、そんで、食べ残しも出るからね、それを分けてやってるんだよ。女将さんは、ああ見えて根は優しい人だよ」
 ミリーは口をもぐもぐさせながら言った。
 サンドイッチを食べた後、紀和たちは各部屋に残ったコップや皿を調理場に運び、それらを洗った。その間にも食い残しがあれば食べた。
 洗い物が終われば、各部屋の掃除をした。倉さんは壊れた襖を直した。よく見れば、どの部屋の襖もまともなものはなく、つぎはぎだらけのものだった。ミリーは布団の入れ替えをした。入れ替えた布団も染みだらけで黄ばんでいた。汚れを雑巾で拭き取って干しただけのようだった。
 各部屋の片づけが終わったのは午後五時近くだった。その頃になると派手な衣装を着た五人の女の子がやってきた。
 ミリーも入れて六人がHOTEL TOKYOの専属で彼女たちを目当てに来るアメリカ兵を相手にしていた。他には、街角に立って客を取った女の子が客を連れてやってくることもあった。
 紀和たちは前にシノという女性が使っていた部屋にいた。二人は後片付けの疲れと空腹が満たされたことで、部屋で横になるとすぐに眠りに落ちた。
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