2-5

文字数 3,206文字

 チリンチリンと鳴る鈴の音に、良輔ははっと顔を上げた。
 カフェのドアを開けて入ってきたのは、大樹だった。
 六年前より少し髪が薄くなり、腹回りに肉がついている以外、ほとんど変わっていなかった。
 走ってきてくれたのだろう、少し息を切らせている。

「大樹……」
 声が詰まる。
 大樹がここに来るには、葛藤があったに違いないのだ。もしかしたら、止める妻を説得してくれたのかもしれない。
 大樹が良輔の頼みを断ったことは、これまで一度もないのだ。
 でも、あんなひどいことをしたのに――それでもこいつは来てくれるのだ。
 胸がいっぱいになる。
 だが、大樹の表情は硬かった。
 それも当然だ。謝罪の前に、何か飲み物でも、とメニューを渡す。

「ええっと、俺ビールを」
「えっ!?」
 良輔は驚いた。
「ここはカフェだぞ、アルコールなんて……」
「ございますよ」
 マスターが近づいてきて、メニューをめくってくれる。
 一番最後のページに『アルコール』と書かれた項目があった。

「えっ、アルコールがあるの?」
「最近、カフェバーって増えてるからさ……あるかもって」
「えっ、そうなんだ! じゃあ、俺もビール!」
 体調が悪くなってからは、飲むのを控えていた。
 でも、もう死んだのだし、最後にビールが飲めるなんて最高じゃないか。
 そう思ったとき、向かいに座ってる大樹がぷっと吹き出した。

「え、何?」
「いや……会ったら何を言おうとか、怒鳴ってしまうかもとか、色々考えてたんだけどさ。目の前にいると、全部吹き飛ぶんだな、って」
「……そっか」
 大樹が笑っている――それだけで胸がいっぱいになる。
 マスターがさっとビールグラスを持ってきてくれた。それに砂時計も。
 これが落ちきったとき、カフェでの時間が終わるということらしい。

「乾杯!」
 大樹が勢いよくグラスを差し出してきたので、良輔も反射的にグラスを合わせる。
 グラスもビールもよく冷えていて、喉ごしが最高だった。
「あーーー、うまい! すいません、瓶ビール追加で!」
 大樹が運ばれてきたグラスにビールを注いでくれる。

「で、どうしたんだ? 急用って何だ?」
「まずは謝らせてくれ! 六年前、おまえにミスを全部ひっかぶせて悪かった!」
 テーブルに額をこすりつけるようにして、良輔は声を張り上げた。
「……あれはショックだったよ」
 静かな大樹の声が胸を刺す。
「本当にごめん! 謝って済むことじゃないけど……おまえに甘えてばかりで、挙げ句にあんなひどい裏切りをして……」
「ああ、傷ついたよ」
 大樹がぐいっとビールをあおる。

「本当にすまない。合わせる顔もないのに、呼び立てて――」
「恨んだよ、おまえのこと。あれから……ウチはめちゃめちゃになった」
「やっぱり……そうだよな」
 良輔は頭を抱えたくなった。
「ああ。マンションを買おうとしてたの知ってるだろ」
「……郊外のマンションだったよな」
「そう。ローン審査が通ったのに、キャンセルせざるを得なかった。手付けはパアだ」

「すまない……。俺の貯金を全部やりたいくらいだ……。本当、そうするべきだったのに……もう手遅れだ」
「手遅れ?」
「ああ、実は俺死んだんだ」
「……」
 大樹がぽかんとしている。
 それは当然だろう。今、一緒に喋りながらビールを飲んでいるのだから。

「でも、おまえ……今目の前にいて……それにこのカフェ……」
「ここは死者のために特別なカフェなんだって。
 ここに辿り着けた人は、一人だけ最後に会いたい人を呼べるんだ。ほら、あのピンクの公衆電話」
 良輔が指さしたほうを大樹が見る。
「あれって、生きている人になら誰でも繋がるんだって。
 このカフェも、そのとき招かれた人だけ入れるって……。この砂時計が落ちきるまでだけど……。あと一時間くらいかな」
 大樹は黙りこくっている。

「いきなりでびっくりするよな。信じられないのも当然――」
「いや、そうか、なるほどな……」
 大樹が一人でこくこく頷き出す。
「変だと思ったんだよ。なんで俺の電話番号や引っ越し先をおまえが知っているのか、とか。ウチの近くにカフェなんかあるはずないのに、看板が出てるし。そうか、『Heavens』ねえ……。天国のカフェってことか……」

「大樹、おまえ信じるのか?」
 良輔は唖然とした。こんな荒唐無稽な話なのに。
 すると大樹がニヤリと笑った。
「そもそも、ヘタレのおまえが俺に会おうとするなんて、それこそ最期のときだろうなって思ってたからさ」
「……! さすがだな……。俺のこと、よくわかってるよ……」
 確かに、最期の最後でなければ、大樹に連絡を取ろうと思わなかっただろうし、それすらも随分迷った末の決断だった。

「おまえ……最後に呼ぶ一人が俺でよかったのか?」
「ああ。ていうか、おまえしかいないよ。会いたい奴なんて」
 良輔はぐびり、とビールを口にした。
 苦みがぴりっと舌に走る。

「……あれからさ」
 大樹がぽつりと呟いた。
「本当に大変だったんだ。いきなり俺は無職になるし、予定していたマンションは購入できないし……。香帆(かほ)がもう怒って怒って……一時は離婚も覚悟したよ」
「……」
 良輔はただただ恥じ入るしかない。
「なんとか再就職を決めたけど、夫婦間の亀裂はなかなか埋められなくて、しばらくはずっと、家にいるのがつらかったよ」
 大樹がまっすぐ良輔を見つめてきた。

「正直、おまえを恨んだし、憎んだ。……でもさ、おまえとは子どもの頃から家族同然に過ごしてきたしさ、やっぱり心底嫌いにはなれなかったんだ。
 だけど、おまえと連絡は取らないと香帆と約束した。香帆はおまえは俺を利用している、疫病神だって言ってた」
「そりゃそうだよな……」
 大樹の妻が激怒するのも当然だ。

「でもさ、一昨年、大手不動産会社が手がけたマンションのトラブルが続いたのを知ってるか?」
 大樹が挙げた会社名は、ホテル業もしている大手なのでもちろん知っていた。
「ああ、ニュースで見たよ。まだ築浅なのに、マンションの外壁が崩れたり、手抜き工事かと騒ぎになった事件か」
 予定外の修繕費用は一億円以上かかる見込みで、補償しないと言い張る不動産会社と住民たちが激しく言い争っていた。
 だが、良輔には関係のない話題ですぐに忘れたニュースだ。

「それが?」
「あれ、本来俺たちが買っていたはずのマンションだったんだ」
「え……?」
「つまり、ローン審査に落ちてなかったら、あのトラブルに巻き込まれていたってこと」
「そ、そうなのか……」
 なんと言っていいかわからず、良輔はもごもごと口ごもった。

「そりゃ手付金は痛かったけどさ、結果的に買わなくてよかったんだ。今でも揉めているみたいだし、裁判だのなんだの、大変だったろうから」
 不幸中の幸いと言っては何だが、良輔は少し安堵した。
「……妻ともさ、大喧嘩したけど、そのおかげでお互いが密かに不満に思っていることも露呈して、かえってよかったこともあった。
 実は俺、マンション購入にあまり乗り気じゃなかったんだ。一戸建てに憧れがあってさ……でも、妻に気を遣って言えなかったりとか。
 まあ、大きい膿を出せたってこと。結婚生活でいつかぶち当たるだろう壁を乗り越えた」
 大樹がふっと笑った。

「今は千葉県の一戸建てに住んでる。子どもができたんだ。そうすると、一戸建てのほうがいいんじゃないかって妻も思ったみたいで」
「そうか……おめでとう」
 マイホームに家族。大樹は順調に自分の人生を歩んでいる。俺の妨害があっても、大樹はそれを乗り越えられたのだ。
 友人の順調な人生を素直に嬉しいと思えたことに、良輔はほっとした。
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