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文字数 3,193文字

「どなたかいらっしゃるなら電話をお使いになるといいですよ」
 マスターの言葉に、良輔(りょうすけ)ははっとした。
 そうだ――連絡先。大樹は六年前から電話を変えていないだろうか? いや、そもそも番号を暗記していない――。

「彼の連絡先がわからなくて……」
「大丈夫ですよ。あの電話は生きている人ならば、誰にでも繋がりますから」
「えっ?」
 良輔は思わずピンクの古い講習電話に目をやった。
 そんなすごい電話には見えないので驚く。

 これであとは電話をかけるだけ――いざそうなると、良輔は決心が揺らぐのを感じた。
 誰よりも親しかった友達――大樹(だいき)の人生をめちゃめちゃに破壊してしまったのだ。
 今更、あいつにどの(つら)下げて、会ってくれなどと言えるだろう。
 しかも、こちらからの勝手な頼み事のために。

 六年たって――あいつは今頃どうしているだろう。
 家の購入はもちろん中止になり、その後引っ越したとの噂は耳に入っていた。
 また、新たな生活を歩んでいるのだろうか?
 それとも、俺のように荒れた生活をしているとか?
 少なくとも、大樹から連絡が来ることはあれからなかった。
 つまり、俺とはもう関わりたくないということだろう。
 どういう人生を歩んでいるにしろ、嫌な思い出が過去からやってきたら、不快になるはずだ――。

 だが、大樹のことを考え始めた瞬間、紐解いた巻物が一気に広げられたように、これまでの思い出がずらずらと蘇ってくる。
 自分の人生で、おそらく誰よりも長い時間を過ごした大樹。

「あの、少し話を聞いてもらってもいいですか?」
 良輔はカウンターの奥に立つマスターに声をかけた。今、店には自分以外の客はいない。
「いいですよ」
 快く返事をしてもらい、良輔はほっとした。
「友達が……いたんです。すっごくいい奴だった」
 記憶をなぞっていきながら、良輔はぽつぽつ話し始めた。

 大樹に電話をかける前に、自分の心を整理しなくてはならない。
 ただ会うだけではない。ミイコのことを頼むのだ。
 しっかり謝罪するためには、大樹とちゃんと向き合う必要がある。

 それには、ずっと蓋をしていた暗い箱を開けなくてはいけない。
 必死に目を背けていた、過去の記憶――そして、それを誰かに聞いてほしかった。客観的な意見が必要だった。
 なぜなら、俺はいつも自分の都合のいいように考えてしまうから。

「彼の名前は肥後(ひご)大樹。その名のとおり、頼りになる大木みたいな奴でした。もっとも、身長は俺のほうが高かったですけどね」
「お客様は背がお高いですからね」
 マスターの言葉に、良輔は頷いた。身長百八十五センチ。自分より背の高い人間はあまりお目にかかれない。

「大樹とは、小学生の頃からの付き合いでした。俺は目立ちたがりのやんちゃな子どもで、大樹は口数が少ない優しい穏やかなな奴で、タイプは全然違うけど馬が合ったんです。いつも遊んでいたし、小学校のときから地元のラグビーチームに入りました」
 クラスは違っても、放課後や休日はいつも一緒だった。
 二人ともスポーツが大好きだったし、励まし合えて信頼できる友人がそばにいるのは心強かった。

「同じ高校に進んで、ラグビー部に入ったんです。クラスも偶然一緒になって、あの頃が一番楽しかった……」
 将来のことなんてろくに考えず、ただただ夢中でラグビーに打ち込んだ。
 練習はきつかったけれど、充実した毎日だった。
 そして、そばには全幅の信頼を寄せた友人がいた。それはどこにいても自分らしく振る舞える自信を良輔に与えてくれた。

「あいつの家にも世話になりました。優しいご両親と可愛い弟と妹がいて、すごく居心地が良かったんです。よく飯も食わせてもらいました。
 そうそう、あいつの家に猫がいたんですよ。神経質でツンケンした猫だったけど、大樹だけにはすごく甘えていつも膝に乗ってきていましたね。
 あいつはそういう奴なんですよ。誰からも好かれる」
「すごく懐の深い人だったようですね」
 マスターがぽつりと言った。
「そんなに若い頃から包容力があるとは珍しい。ずいぶん周囲から慕われていたのでしょうね」
 大樹を褒められたというのに、良輔は一瞬むっとしてしまった。
「まあ、器がでかい奴ではありましたね。頼まれ事に嫌とは言わないし、何かあっても絶対に怒らないし――」

 ――でも、俺のほうが人気者だった。

 そう言おうとして、良輔は躊躇った。何か自分にとって都合の悪いものが、ゆっくり鎌首を持ち上げてきた気がして、ぶるりと体を震わせた。
 そうだ。俺は自分が人気者だと思っていた。実際、自分の周りには人が集まってきたし、女子とだって気軽に話せた。強面の先輩たちにも、ズケズケと意見できて、それが許されている、一目置かれている存在だった。

 だから、大樹は自分のナンバー2だと思ってきた。
 実際、ラグビー部でも俺がキャプテン、大樹が副キャプテンになった。
 当然だと思っていた。
 だけど――それは俺がそう思いたかっただけでは?

 クラスで楽しくツルんでいた奴らの顔も名前も朧気だ。もちろん、卒業後は没交渉だ。
 ――高校の同級生の近況は、大樹がたまに教えてくれたっけ。
 ラグビー部でも、俺は皆を率いていた。先輩たちは俺を認めていたし、後輩たちは尊敬の眼差しを向けてきた。
 ――いつも生意気を言う俺を、大樹がそっとフォローしてくれていた。後輩たちの悩み相談も大樹が引き受けてくれていたな。
 それなりにモテてきた。だが、結局誰とも長続きせず、最後に付き合ったのはもう七年前か。
 ――大樹は大学の頃からずっと付き合っていた彼女と結婚した。結婚式でしか会ったことはないが、気の強そうな美人で仕事もできるらしい。

 そうだ――俺はいつもあいつより上にいると思っていた。
 俺の方が目立っていたし、クラスでも人気者だった。部活でも先輩にズバズバと物が言えて――だから、大樹のことを守っているつもりだった。
 俺がいるから、人の輪の中に入りやすいだろう、とか。女子と気軽に喋ったりできるだろう、とか。

 あと、家庭環境の違いも、自分の偏った考えに大きい影響を与えていた。
 自分は両親がおらず、祖母と二人暮らし。家事も手伝わねばならないし、時には町内会の仕事や銀行などでの手続きも代行していた。
 だが、大樹は両親がいてぬくぬくと暮らしている子どもだ。
 俺は一足先に大人になっている――などと思っていた。

 なんと厚顔無恥だったことだろう。
 まだ幼い十代のこととはいえ、充分恥ずかしかった。しかも、俺の傲慢さは大人になってからも続いていたのだ――。
 自己嫌悪にむせ返りそうになったときだった。
 すっと目の前に水の入ったグラスが置かれる。

「喉が渇いたでしょう。どうぞ」
「どうも……」
 良輔は驚いてマスターを見上げた。近くに来るまで気づかなかった。
「いただきます」
 良輔はマスターの言葉に、喉の渇きにようやく気づいた。
 冷たい水を一気に飲み干す。
 すっきりとした喉ごし、気分が少しましになった。
 口腔内が潤って、息をするのも楽になっている。

 ――まるで大樹みたいだな。

 思わずそう思ってしまう。当たり前にある存在だけど、なくてはならないもので――。
 その存在はいつも心に潤いをもたらせてくれる。
 そして、次の一歩を踏み出す活力を生み出す。
 思い出した記憶たちが、ちくちくと針でつつくような痛みをもたらしてきた。
 だが、本当につらいのはここからだ。
 良輔は優しく見守ってくれているマスターに力付けられるようにして、ゆっくりゆっくり、記憶の箱を開けていく。
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