2-1
文字数 3,430文字
真っ暗な道をひとり歩く――だが、不思議と心細さや恐怖心はなかった。
静かに現実を噛みしめるだけだ。
ああ、自分は死んだのだ、と。
兆候はあった。
不摂生に激務の毎日――思い返せばもう一年以上前から体は悲鳴を上げていた。
毎日のように襲ってくる頭痛。
朝起きるたび感じていた、泥のような疲労。
不快な体の症状をごまかすため、薬を酒で流し込むようなこともやっていた。
そりゃ、体がボロボロになっても当然だよな。
前村 良輔 は苦笑した。
三十六歳と、まだまだ若いと言える年齢ではあったが、不思議と悔しさや悲しさはなかった。
自分の愚行の行き着く先として、当然の帰結だと思うだけだ。
さて、この道の行く先は天国か地獄か、はたまた三途の川か。
「ん……?」
そのいずれでもなかった。
木製の何の変哲もないドアが前方の暗闇に浮かんでいた。
「何だこれ?」
ドアノブを握り、そっとドアを開ける。頭上でチリンチリンという鈴の音が響き、良輔はびくりとした。
「いらっしゃいませ」
木の温かみが感じられる店内は、テーブルとカウンターがあるこぢんまりした店だった。 奥にいた品のいい老人が声をかけてくれる。老人は白い襟付きシャツに黒のベスト、赤い蝶ネクタイという姿だった。
「どうぞ、好きなお席へ」
そう言われ、良輔は戸惑いながら壁際の二人席に腰掛けた。
正確には、そこしか座る椅子がなかったからだ。
「ここは……?」
「特別なカフェです。あなたのような人のための」
「俺みたいな……?」
「ええ。ここは死者と生者が繋がる最後の場所。ここに辿り着いた人は、たった一人だけカフェに人を呼び出すことができます。ただし、生きている人に限ります」
「呼び出す……?」
「ええ、あの電話で」
指さす先には、ピンク色のホームベーカリーのような四角い公衆電話があった。
「使えるのは一人につき一回だけ。だから、もし呼んでも来てくれなかったら終わりです」
「いや、ちょっと待って」
良輔は話についていけず、慌てて制した。
「なんか、誰かを呼ぶのが前提みたいだけど……。特に、誰も呼びたくないって人もいるでしょう?」
「最後に話したい人はいないということですか?」
「……誰も呼ばない、っていうのもありですか? そういう人っていました?」
「もちろん、電話の使用は自由です。ただし、これまで電話をかけなかった方は一人もいらっしゃいませんでした」
「なるほど……」
死んだあと、誰かともう一度だけ会いたい、何かを伝えたい――ほとんどの人がそうだろう。
そのチャンスをみすみす逃すのはもったいない。
「どうしようかな……。やっぱり家族を呼ぶ人が多いんですか?」
「人それぞれですね。ご友人や一度会ったきりの人を呼ぶ方もいらっしゃいます」
「へえ……」
面白そうで詳しく聞いてみたかったが、釘を刺された。
「ちなみに、ここで過ごせる時間には限りがあります。だいたい二時間くらいとお考えください。私とお話ししている間にも、時間は過ぎていきます」
「えっ」
マスターがテーブルの上の砂時計を指さす。
それはいつの間にか、砂がさらさらと落ち始めていた。
「二時間って……呼び出す人が遠方だったら? そんなの間に合うわけし、たとえば海外だったらそもそも無理ですよね」
よくある質問なのか、マスターは感情を交えず答えた。
「ここは特別なカフェです。その心配はいりません。その人に来る気があれば、一分もかからず来られます」
「……そうなんですか?」
言われてみれば、あの途方もない暗闇で見つけた場所だ。
普通のカフェではなく、特別な空間にあるカフェだから、いろんな場所とつながれるのかもしれない。
それにしても、最後に会いたい人か――。
「俺、天涯孤独なんですよね。家族はいないんですよ」
一人暮らしで最近、職場以外でこんな風に人とじっくり話す機会がなかったことに気づく。
プライベートで誰かと会話する楽しさを思い出し、良輔は少し楽しくなってきた。
「親は俺を捨てて出て行ったきりで、祖母に育てられました。でも、俺が就職して間もなく、役目は終わったとばかりに……全然恩を返せなくて」
「そうでしたか……」
マスターは静かに聞いてくれている。
「就職してからは必死で働いて、結婚もしていなければ彼女もいない。忙しくて数少ない友達とも疎遠になりました」
享年三十六歳。
早いといえば早いが、二十代の頃からやっていた不摂生を考えると妥当だとも思う。
慢性的な睡眠不足、ジャンクフードを始めとする外食ばかりの食生活、パソコンの前に座りっぱなしで、ろくに運動もしなかった。
休みの日は疲労回復を大義名分にしてろくに外出もせず、ネットサーフィンやスマホのゲーム三昧。
そんな怠惰な生活を十年以上も続けてきた結果が、コンビニに行く途中で倒れて救急車で運ばれて、大動脈剥離で一日ももたずに死亡。
「だから、特に最後に会いたい人なんて……」
そのとき、脳裏に浮かんだのは猫の姿だった。
「あ……」
「どうしました?」
「猫がいます……」
唯一の同居人である、猫のミイコの姿が脳裏に浮かんだ。
二年前に拾った野良猫の赤ちゃんは、今や体重五キロの立派なキジトラに育った。
ミイミイ鳴きながら、足に体をすりよせて甘えてきた仔猫を放っておけず、つい家に連れ帰ってしまった。
ペット飼育OKのマンションだったこともあり、なし崩しに飼うことになった。
ミイコは完全屋内飼いの箱入り猫だった。猫を飼っている同僚にアドバイスを求めたところ、外には出さないほうが長生きすると聞いたのだ。
つまり、ミイコは部屋に閉じ込められていることになる。
水や餌は――最後に与えたのはいつだっただろうか?
「どうしよう……」
いや、たぶん月曜になれば、職場から連絡が来て異変に気づいてくれるはず。
幸い、同僚たちには猫を飼っていることは周知されている。
きっと、誰か猫のことに気づいてくれるだろう。
その間、二、三日、空腹をしのぐくらいのことはできるはず――と思いたい。
寂しがりのミイコが、ミイミイ鳴いている姿を想像するのはつらかったが、命に関わることにはならないだろう。
だが、その後は?
良輔ははたと気づいた。
天涯孤独で引き取ってくれるような身内もいない。
血統書付きでもない成猫を引き取ってくれるような知り合いもいない。
いや、いた。
一人、いた――。
お人好しで、猫が大好きで、頼めばきっと引き取ってくれそうな奴に心当たりがある。
でも――。
良輔は絶望するしかなかった。
彼に対してひどい裏切りをして、償いもせずに逃げてしまった。
以来、音信不通でもう六年になる。
とても顔を合わせられないし、頼み事などできる立場でもない。
脳裏に金色の目でじっと自分を見上げてくるミイコの姿が浮かんだ。
最初から人懐こく、甘えたな猫だった。
俺が家にいるときは、ずっとぴたりと寄り添っていた。トイレに行くときも、風呂に行くときもずっとドアの前で待っていた。
俺の膝の上は彼女の指定席だった。
眠るときは当たり前のように、ちょんと布団を叩き、俺にめくらせて中に入ってきた。
彼女の柔らかな毛並みやざらりとした舌の感触がまざまざと蘇る。
ふっと涙が浮かんできた。
俺はもっとちゃんと生活をするべきだった。生き物を飼っていたのだから。
ミイコを大切に思っていたのだから。
良輔はようやく、ここで死んだことを灼けるように後悔した。
――俺は本当に馬鹿な奴だな。
自分のことはいい。自業自得だ。
だが、ミイコは別だ。
自分が愚かだったせいで、彼女が酷い目にあったり、死ぬようなことがあってはならない。
ミイコを誰か信頼できる人に預けたい――そんな思いが突き上げてくる。
そして、そんな相手は――やはり彼、大樹 しかいないことも。
軽蔑され、罵倒されても、それでも地面に頭をこすりつけてでも頼まなくてはならない。
面倒事からはなるべく逃げてきた。卑怯な方法も躊躇なく使ってきた。
だが、人生の最後の最後でとうとう向き合うことになった。
静かに現実を噛みしめるだけだ。
ああ、自分は死んだのだ、と。
兆候はあった。
不摂生に激務の毎日――思い返せばもう一年以上前から体は悲鳴を上げていた。
毎日のように襲ってくる頭痛。
朝起きるたび感じていた、泥のような疲労。
不快な体の症状をごまかすため、薬を酒で流し込むようなこともやっていた。
そりゃ、体がボロボロになっても当然だよな。
三十六歳と、まだまだ若いと言える年齢ではあったが、不思議と悔しさや悲しさはなかった。
自分の愚行の行き着く先として、当然の帰結だと思うだけだ。
さて、この道の行く先は天国か地獄か、はたまた三途の川か。
「ん……?」
そのいずれでもなかった。
木製の何の変哲もないドアが前方の暗闇に浮かんでいた。
「何だこれ?」
ドアノブを握り、そっとドアを開ける。頭上でチリンチリンという鈴の音が響き、良輔はびくりとした。
「いらっしゃいませ」
木の温かみが感じられる店内は、テーブルとカウンターがあるこぢんまりした店だった。 奥にいた品のいい老人が声をかけてくれる。老人は白い襟付きシャツに黒のベスト、赤い蝶ネクタイという姿だった。
「どうぞ、好きなお席へ」
そう言われ、良輔は戸惑いながら壁際の二人席に腰掛けた。
正確には、そこしか座る椅子がなかったからだ。
「ここは……?」
「特別なカフェです。あなたのような人のための」
「俺みたいな……?」
「ええ。ここは死者と生者が繋がる最後の場所。ここに辿り着いた人は、たった一人だけカフェに人を呼び出すことができます。ただし、生きている人に限ります」
「呼び出す……?」
「ええ、あの電話で」
指さす先には、ピンク色のホームベーカリーのような四角い公衆電話があった。
「使えるのは一人につき一回だけ。だから、もし呼んでも来てくれなかったら終わりです」
「いや、ちょっと待って」
良輔は話についていけず、慌てて制した。
「なんか、誰かを呼ぶのが前提みたいだけど……。特に、誰も呼びたくないって人もいるでしょう?」
「最後に話したい人はいないということですか?」
「……誰も呼ばない、っていうのもありですか? そういう人っていました?」
「もちろん、電話の使用は自由です。ただし、これまで電話をかけなかった方は一人もいらっしゃいませんでした」
「なるほど……」
死んだあと、誰かともう一度だけ会いたい、何かを伝えたい――ほとんどの人がそうだろう。
そのチャンスをみすみす逃すのはもったいない。
「どうしようかな……。やっぱり家族を呼ぶ人が多いんですか?」
「人それぞれですね。ご友人や一度会ったきりの人を呼ぶ方もいらっしゃいます」
「へえ……」
面白そうで詳しく聞いてみたかったが、釘を刺された。
「ちなみに、ここで過ごせる時間には限りがあります。だいたい二時間くらいとお考えください。私とお話ししている間にも、時間は過ぎていきます」
「えっ」
マスターがテーブルの上の砂時計を指さす。
それはいつの間にか、砂がさらさらと落ち始めていた。
「二時間って……呼び出す人が遠方だったら? そんなの間に合うわけし、たとえば海外だったらそもそも無理ですよね」
よくある質問なのか、マスターは感情を交えず答えた。
「ここは特別なカフェです。その心配はいりません。その人に来る気があれば、一分もかからず来られます」
「……そうなんですか?」
言われてみれば、あの途方もない暗闇で見つけた場所だ。
普通のカフェではなく、特別な空間にあるカフェだから、いろんな場所とつながれるのかもしれない。
それにしても、最後に会いたい人か――。
「俺、天涯孤独なんですよね。家族はいないんですよ」
一人暮らしで最近、職場以外でこんな風に人とじっくり話す機会がなかったことに気づく。
プライベートで誰かと会話する楽しさを思い出し、良輔は少し楽しくなってきた。
「親は俺を捨てて出て行ったきりで、祖母に育てられました。でも、俺が就職して間もなく、役目は終わったとばかりに……全然恩を返せなくて」
「そうでしたか……」
マスターは静かに聞いてくれている。
「就職してからは必死で働いて、結婚もしていなければ彼女もいない。忙しくて数少ない友達とも疎遠になりました」
享年三十六歳。
早いといえば早いが、二十代の頃からやっていた不摂生を考えると妥当だとも思う。
慢性的な睡眠不足、ジャンクフードを始めとする外食ばかりの食生活、パソコンの前に座りっぱなしで、ろくに運動もしなかった。
休みの日は疲労回復を大義名分にしてろくに外出もせず、ネットサーフィンやスマホのゲーム三昧。
そんな怠惰な生活を十年以上も続けてきた結果が、コンビニに行く途中で倒れて救急車で運ばれて、大動脈剥離で一日ももたずに死亡。
「だから、特に最後に会いたい人なんて……」
そのとき、脳裏に浮かんだのは猫の姿だった。
「あ……」
「どうしました?」
「猫がいます……」
唯一の同居人である、猫のミイコの姿が脳裏に浮かんだ。
二年前に拾った野良猫の赤ちゃんは、今や体重五キロの立派なキジトラに育った。
ミイミイ鳴きながら、足に体をすりよせて甘えてきた仔猫を放っておけず、つい家に連れ帰ってしまった。
ペット飼育OKのマンションだったこともあり、なし崩しに飼うことになった。
ミイコは完全屋内飼いの箱入り猫だった。猫を飼っている同僚にアドバイスを求めたところ、外には出さないほうが長生きすると聞いたのだ。
つまり、ミイコは部屋に閉じ込められていることになる。
水や餌は――最後に与えたのはいつだっただろうか?
「どうしよう……」
いや、たぶん月曜になれば、職場から連絡が来て異変に気づいてくれるはず。
幸い、同僚たちには猫を飼っていることは周知されている。
きっと、誰か猫のことに気づいてくれるだろう。
その間、二、三日、空腹をしのぐくらいのことはできるはず――と思いたい。
寂しがりのミイコが、ミイミイ鳴いている姿を想像するのはつらかったが、命に関わることにはならないだろう。
だが、その後は?
良輔ははたと気づいた。
天涯孤独で引き取ってくれるような身内もいない。
血統書付きでもない成猫を引き取ってくれるような知り合いもいない。
いや、いた。
一人、いた――。
お人好しで、猫が大好きで、頼めばきっと引き取ってくれそうな奴に心当たりがある。
でも――。
良輔は絶望するしかなかった。
彼に対してひどい裏切りをして、償いもせずに逃げてしまった。
以来、音信不通でもう六年になる。
とても顔を合わせられないし、頼み事などできる立場でもない。
脳裏に金色の目でじっと自分を見上げてくるミイコの姿が浮かんだ。
最初から人懐こく、甘えたな猫だった。
俺が家にいるときは、ずっとぴたりと寄り添っていた。トイレに行くときも、風呂に行くときもずっとドアの前で待っていた。
俺の膝の上は彼女の指定席だった。
眠るときは当たり前のように、ちょんと布団を叩き、俺にめくらせて中に入ってきた。
彼女の柔らかな毛並みやざらりとした舌の感触がまざまざと蘇る。
ふっと涙が浮かんできた。
俺はもっとちゃんと生活をするべきだった。生き物を飼っていたのだから。
ミイコを大切に思っていたのだから。
良輔はようやく、ここで死んだことを灼けるように後悔した。
――俺は本当に馬鹿な奴だな。
自分のことはいい。自業自得だ。
だが、ミイコは別だ。
自分が愚かだったせいで、彼女が酷い目にあったり、死ぬようなことがあってはならない。
ミイコを誰か信頼できる人に預けたい――そんな思いが突き上げてくる。
そして、そんな相手は――やはり彼、
軽蔑され、罵倒されても、それでも地面に頭をこすりつけてでも頼まなくてはならない。
面倒事からはなるべく逃げてきた。卑怯な方法も躊躇なく使ってきた。
だが、人生の最後の最後でとうとう向き合うことになった。