2-6
文字数 3,821文字
「結果オーライっていうかさ、おまえってなんか、俺の人生のラッキーマンなんだよな」
「は?」
突然何を言い出すのかと、良輔はビールを吹きそうになった。
だが、大樹は至極真面目な表情だった。
「さっき電話をもらったとき、香帆がおまえと絶対会うなって言ってきたんだ。疫病神とは縁を切る約束でしょ、って」
「……」
「だから、俺は言ったんだ。おまえにはそうかもしれないけど、俺にとってはあいつは福の神みたいなものなんだよ! おまえと知り合えたのも、あいつのおかげだろって」
「え?」
大樹が何を言っているのかわからず、良輔はきょとんとした。
「俺の人生の最大のラッキーは、香帆と出会えたこと。それは良輔が運んできたんだって言ったら黙って行かせてくれた」
大樹が照れくさそうに、頬を染める。
「いや、ちょっと待ってくれ。俺、香帆さんとは結婚式で初めて会ったんだぞ?」
「ああ、そうだな」
大樹はニヤニヤ笑って教えてくれない。
その代わり、大樹はビールをぐいっとあおった。
「おまえの勝手な振る舞いって、なぜか俺に幸運を呼ぶんだよな。
でも、おまえのとんでもないパスって、ラグビーや会社のミスだけじゃないんだよなあ」
「え?」
「おまえが高校のときにやらかした、二股トラブルあっただろ。俺に代わりに謝りに行かせたやつ」
「ああ。あれも本当にすまなかった」
「まったくだよ。俺、平手打ちを食らったんだからな」
そう言いつつ、なぜか大樹は楽しそうだった。
「付き合ってた本人よりも、付き添いで来ていた友達が激怒しててさ。
そのときの平手打ちした付き添いの女の子が今の妻」
「は? 香帆さんが……?」
思いがけない事情に、良輔はぽかんと口を開けた。
「そう! あの後、謝りに来てくれたんだ。本人じゃないのに叩いてごめん、って。その後、大学で再会して付き合い始めた」
「ああ、だからか……!! なんか俺に最初から冷ややかだと思ってたんだ」
大樹に彼女ができたのは知っていた。だが、詳しいことは教えてくれなかったし、一度も会わせてくれなかった。
なぜ、そんなに嫌われていたのか不思議だったが、すべてが腑に落ちた。
「香帆は頭がよくてしっかり者だから、俺がおまえにうまく利用されているように見えたみたいだな。俺が謝りに行ったことも、お人好しすぎるって怒ってた」
「返す言葉もないよ……」
香帆の目に映る自分がどんなだったかと思うと、脳天気に『結婚おめでとう! 美人ですね』などと言った自分に顔から火が出る思いだ。
「言い訳になるけど……俺はおまえのことを、都合よく使える人間なんて思ったことは一度もないからさ」
「わかってるよ」
大樹がふっと笑った。
「おまえ、怖がりで甘えただからな」
ずばっと言われたが、むしろ爽快な気分だった。
「でも、俺は頼られてて嬉しかったんだ。おまえが甘えたり頼ったりするのって、たぶん俺だけだったから」
「そうかもな……」
結局、三十六年生きてきたけれど、大樹以外に親しい人間は作れなかった。
だから、最後に呼ぶ人間は大樹しかいなかったのだ。
「おまえ、ここに来て大丈夫なのか? 香帆さんとまた喧嘩してしまうんじゃ……」
「香帆が納得いかないようなら、ちゃんと話すよ」
「申し訳ないって伝えてくれ……」
直接会って謝罪することはもう叶わない。
「いいって。これが最後だろ? それに、俺とおまえってこういう巡り合わせなのかな、って思うときがあるんだ」
「巡り合わせ?」
「俺はいつもおまえの無茶なパスを受けて走る。そういう運命なんだ」
大樹の吹っ切れたような笑顔を、良輔は驚いて見つめた。
「知ってたか? ラグビーでおまえの苦し紛れのパスを受けたとき、俺は必ずトライして点を挙げていたことを」
「……そうだっけ?」
俺のミスをいつも大樹がカバーしてくれる――そういうイメージはあったが、細かいことは覚えていない。
「なんでだろうな。不思議だよな。綺麗に繋がったパスのときは、意外とタックルで潰されたりしたのに、なぜかおまえの駄目なパスは俺を走らせる。そして、得点できる」
「……」
「それで思ったんだ。ラグビーでも、恋愛でも、仕事でも。いつも、おまえの無茶なパスは俺に幸運をもたらす」
大樹がにやりと笑う。
「今のところ、おまえの最高のパスは高校のときの二股事件だな。おまえの無茶なパスを受けて、俺は知らない女の子に謝罪に行った。そして、見事に妻の心を射止めた」
大樹が得意げにウィンクしてくる。
良輔は胸がいっぱいになり、何も言えなかった。
こいつはなんて優しい奴なんだ。
実際、俺はトラブルを持ち込むだけで、それを幸運に変えたのは全部大樹自身の力だ。
なのに、こいつはそんな風に言ってくれるのか……。
涙で視界が曇っていく。
「会社での裏切りには傷ついたけど、結果的には大損しなくて済んだし、妻との絆も深まった。つまり、おまえのパスはラッキーパスなんだよ」
「違うよ……それは、おまえが不運を幸運に変えただけだ。おまえの力だよ」
こらえきれず、ボロボロと涙がこぼれる。
「そうかなあ。たまにおまえのことを思い出すときは、いつも必死の形相で俺にパスを投げるおまえなんだ」
――大樹、頼む!
必死でそう叫んだあの頃を思い出す。
「そのたびに思う。パスを受け取って、絶対得点してやる!って心が奮い立つ。おまえが俺を走らせるんだよな」
「……ありがとう」
そんな風に言ってくれてありがとう。
駄目な俺に付き合ってくれてありがとう。
ずっと友達でいてくれてありがとう。
今日ここに来てくれてありがとう――。
様々な感情が込み上げ、全ての感謝を凝縮した一言を絞り出すのが精一杯だった。
「えーっと、まだ時間はあるかな? もう一杯ビールを頼もうと思うんだけど」
大樹の言葉に、良輔は砂時計の砂が残り少なくなってきたのに気づいた。
「あの、今日呼んだのは謝罪のためだけじゃないんだ。本当に厚かましいけど、頼みたいことがある」
「頼み事?」
「俺の飼っている猫がいて……その子を引き取ってほしいんだ。ほら、俺死んだから飼えなくなっただろ? 二歳半くらいのキジトラの雌なんだけど」
本当に恥ずかしくなるくらい、自分勝手な頼みだった。
六年ぶりに呼び出して、散々迷惑をかけてきたのに、さらに生き物を引き取ってくれなんて――。
しかも、相手は家族持ちだ。
「猫か……」
しばし大樹が考え込む。
「本当にすまない。でも、おまえしか頼む人がいなくて……。すごく可愛い猫なんだ。人懐っこくて、でも寂しがり屋で」
「いいよ」
大樹はあっさり言った。
「い、いいのか……?」
大樹は俺の頼みを断ったことがない。
そういう奴だと知っていても、やはり何度でも驚いてしまう。
なんでこいつはいつも、こんなにも懐が深いんだろう。
「ああ、いいよ。香帆も猫が好きだし、子どもも大きくなってきたからペットもいいなって話していたんだ。
それに、それがおまえの最後のパスなんだろ?」
再び頬に熱いものが流れていくのを感じる。
目の前の大樹の顔が滲んでいく。
「ちゃんと受け取るよ。おまえからのパス、受け取らなかったことないだろ」
「……ああ、そうだな」
どんなときでも、大樹は俺のパスを受けてくれた。
どんな無茶なパスでも。
そんな相手がずっとそばにいてくれた有り難さが、今になってようやくわかる。
自分は家族運がない人間だとずっと思っていた。
でも、自分には友達運があったらしい。
それは――とても幸せなことではないだろうか。
――悪い人生じゃなかったな。
ふっとそんな思いが胸を突いた。
こんなに早く死ぬ予定ではなかったけれど、振り返ると自分の人生は輝いて見えた。
それはきっと、隣にはいつも大樹がいたからだ――。
「きっとその猫、俺のラッキーマンになるよ」
大樹の言葉に思わず吹き出す。
「ミイコは雌なんだ」
「じゃあ、ラッキーガールだな」
「もうすぐお時間です」
マスターが声をかけてくる。
「じゃあ、最後にもう一杯だけ」
マスターがきんきんに冷えたグラスに注いだビールを持ってきてくれる。
金色に輝くビール。
しゅわしゅわと泡立っている。
カチン、とグラスを合わせ、一気に喉に流し込む。
「本当にありがとう……なんてお礼を言っていいのか……」
言いかけて、良輔は大樹が泣いていることに気づいた。
ボロボロと涙をこぼし、肩をふるわせて嗚咽をもらしている。
「……おまえの最後のパス、ちゃんと……受け取るから……。安心してくれ……」
「ああ。頼む……」
もうどちらの嗚咽かわからない。
俺には、友達がいたんだ。
たった一人、どんなパスでも受けてくれる友達が――。
最後に飲んだビールは、ほろ苦く、それでいて爽快だった。
了
「は?」
突然何を言い出すのかと、良輔はビールを吹きそうになった。
だが、大樹は至極真面目な表情だった。
「さっき電話をもらったとき、香帆がおまえと絶対会うなって言ってきたんだ。疫病神とは縁を切る約束でしょ、って」
「……」
「だから、俺は言ったんだ。おまえにはそうかもしれないけど、俺にとってはあいつは福の神みたいなものなんだよ! おまえと知り合えたのも、あいつのおかげだろって」
「え?」
大樹が何を言っているのかわからず、良輔はきょとんとした。
「俺の人生の最大のラッキーは、香帆と出会えたこと。それは良輔が運んできたんだって言ったら黙って行かせてくれた」
大樹が照れくさそうに、頬を染める。
「いや、ちょっと待ってくれ。俺、香帆さんとは結婚式で初めて会ったんだぞ?」
「ああ、そうだな」
大樹はニヤニヤ笑って教えてくれない。
その代わり、大樹はビールをぐいっとあおった。
「おまえの勝手な振る舞いって、なぜか俺に幸運を呼ぶんだよな。
でも、おまえのとんでもないパスって、ラグビーや会社のミスだけじゃないんだよなあ」
「え?」
「おまえが高校のときにやらかした、二股トラブルあっただろ。俺に代わりに謝りに行かせたやつ」
「ああ。あれも本当にすまなかった」
「まったくだよ。俺、平手打ちを食らったんだからな」
そう言いつつ、なぜか大樹は楽しそうだった。
「付き合ってた本人よりも、付き添いで来ていた友達が激怒しててさ。
そのときの平手打ちした付き添いの女の子が今の妻」
「は? 香帆さんが……?」
思いがけない事情に、良輔はぽかんと口を開けた。
「そう! あの後、謝りに来てくれたんだ。本人じゃないのに叩いてごめん、って。その後、大学で再会して付き合い始めた」
「ああ、だからか……!! なんか俺に最初から冷ややかだと思ってたんだ」
大樹に彼女ができたのは知っていた。だが、詳しいことは教えてくれなかったし、一度も会わせてくれなかった。
なぜ、そんなに嫌われていたのか不思議だったが、すべてが腑に落ちた。
「香帆は頭がよくてしっかり者だから、俺がおまえにうまく利用されているように見えたみたいだな。俺が謝りに行ったことも、お人好しすぎるって怒ってた」
「返す言葉もないよ……」
香帆の目に映る自分がどんなだったかと思うと、脳天気に『結婚おめでとう! 美人ですね』などと言った自分に顔から火が出る思いだ。
「言い訳になるけど……俺はおまえのことを、都合よく使える人間なんて思ったことは一度もないからさ」
「わかってるよ」
大樹がふっと笑った。
「おまえ、怖がりで甘えただからな」
ずばっと言われたが、むしろ爽快な気分だった。
「でも、俺は頼られてて嬉しかったんだ。おまえが甘えたり頼ったりするのって、たぶん俺だけだったから」
「そうかもな……」
結局、三十六年生きてきたけれど、大樹以外に親しい人間は作れなかった。
だから、最後に呼ぶ人間は大樹しかいなかったのだ。
「おまえ、ここに来て大丈夫なのか? 香帆さんとまた喧嘩してしまうんじゃ……」
「香帆が納得いかないようなら、ちゃんと話すよ」
「申し訳ないって伝えてくれ……」
直接会って謝罪することはもう叶わない。
「いいって。これが最後だろ? それに、俺とおまえってこういう巡り合わせなのかな、って思うときがあるんだ」
「巡り合わせ?」
「俺はいつもおまえの無茶なパスを受けて走る。そういう運命なんだ」
大樹の吹っ切れたような笑顔を、良輔は驚いて見つめた。
「知ってたか? ラグビーでおまえの苦し紛れのパスを受けたとき、俺は必ずトライして点を挙げていたことを」
「……そうだっけ?」
俺のミスをいつも大樹がカバーしてくれる――そういうイメージはあったが、細かいことは覚えていない。
「なんでだろうな。不思議だよな。綺麗に繋がったパスのときは、意外とタックルで潰されたりしたのに、なぜかおまえの駄目なパスは俺を走らせる。そして、得点できる」
「……」
「それで思ったんだ。ラグビーでも、恋愛でも、仕事でも。いつも、おまえの無茶なパスは俺に幸運をもたらす」
大樹がにやりと笑う。
「今のところ、おまえの最高のパスは高校のときの二股事件だな。おまえの無茶なパスを受けて、俺は知らない女の子に謝罪に行った。そして、見事に妻の心を射止めた」
大樹が得意げにウィンクしてくる。
良輔は胸がいっぱいになり、何も言えなかった。
こいつはなんて優しい奴なんだ。
実際、俺はトラブルを持ち込むだけで、それを幸運に変えたのは全部大樹自身の力だ。
なのに、こいつはそんな風に言ってくれるのか……。
涙で視界が曇っていく。
「会社での裏切りには傷ついたけど、結果的には大損しなくて済んだし、妻との絆も深まった。つまり、おまえのパスはラッキーパスなんだよ」
「違うよ……それは、おまえが不運を幸運に変えただけだ。おまえの力だよ」
こらえきれず、ボロボロと涙がこぼれる。
「そうかなあ。たまにおまえのことを思い出すときは、いつも必死の形相で俺にパスを投げるおまえなんだ」
――大樹、頼む!
必死でそう叫んだあの頃を思い出す。
「そのたびに思う。パスを受け取って、絶対得点してやる!って心が奮い立つ。おまえが俺を走らせるんだよな」
「……ありがとう」
そんな風に言ってくれてありがとう。
駄目な俺に付き合ってくれてありがとう。
ずっと友達でいてくれてありがとう。
今日ここに来てくれてありがとう――。
様々な感情が込み上げ、全ての感謝を凝縮した一言を絞り出すのが精一杯だった。
「えーっと、まだ時間はあるかな? もう一杯ビールを頼もうと思うんだけど」
大樹の言葉に、良輔は砂時計の砂が残り少なくなってきたのに気づいた。
「あの、今日呼んだのは謝罪のためだけじゃないんだ。本当に厚かましいけど、頼みたいことがある」
「頼み事?」
「俺の飼っている猫がいて……その子を引き取ってほしいんだ。ほら、俺死んだから飼えなくなっただろ? 二歳半くらいのキジトラの雌なんだけど」
本当に恥ずかしくなるくらい、自分勝手な頼みだった。
六年ぶりに呼び出して、散々迷惑をかけてきたのに、さらに生き物を引き取ってくれなんて――。
しかも、相手は家族持ちだ。
「猫か……」
しばし大樹が考え込む。
「本当にすまない。でも、おまえしか頼む人がいなくて……。すごく可愛い猫なんだ。人懐っこくて、でも寂しがり屋で」
「いいよ」
大樹はあっさり言った。
「い、いいのか……?」
大樹は俺の頼みを断ったことがない。
そういう奴だと知っていても、やはり何度でも驚いてしまう。
なんでこいつはいつも、こんなにも懐が深いんだろう。
「ああ、いいよ。香帆も猫が好きだし、子どもも大きくなってきたからペットもいいなって話していたんだ。
それに、それがおまえの最後のパスなんだろ?」
再び頬に熱いものが流れていくのを感じる。
目の前の大樹の顔が滲んでいく。
「ちゃんと受け取るよ。おまえからのパス、受け取らなかったことないだろ」
「……ああ、そうだな」
どんなときでも、大樹は俺のパスを受けてくれた。
どんな無茶なパスでも。
そんな相手がずっとそばにいてくれた有り難さが、今になってようやくわかる。
自分は家族運がない人間だとずっと思っていた。
でも、自分には友達運があったらしい。
それは――とても幸せなことではないだろうか。
――悪い人生じゃなかったな。
ふっとそんな思いが胸を突いた。
こんなに早く死ぬ予定ではなかったけれど、振り返ると自分の人生は輝いて見えた。
それはきっと、隣にはいつも大樹がいたからだ――。
「きっとその猫、俺のラッキーマンになるよ」
大樹の言葉に思わず吹き出す。
「ミイコは雌なんだ」
「じゃあ、ラッキーガールだな」
「もうすぐお時間です」
マスターが声をかけてくる。
「じゃあ、最後にもう一杯だけ」
マスターがきんきんに冷えたグラスに注いだビールを持ってきてくれる。
金色に輝くビール。
しゅわしゅわと泡立っている。
カチン、とグラスを合わせ、一気に喉に流し込む。
「本当にありがとう……なんてお礼を言っていいのか……」
言いかけて、良輔は大樹が泣いていることに気づいた。
ボロボロと涙をこぼし、肩をふるわせて嗚咽をもらしている。
「……おまえの最後のパス、ちゃんと……受け取るから……。安心してくれ……」
「ああ。頼む……」
もうどちらの嗚咽かわからない。
俺には、友達がいたんだ。
たった一人、どんなパスでも受けてくれる友達が――。
最後に飲んだビールは、ほろ苦く、それでいて爽快だった。
了