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文字数 3,599文字

「部室に置いてある箱を、あなたに回収してほしくて、それでここに呼び出したの」
「箱……ですか?」
 真子は思いがけない言葉に呆気にとられ、茉莉花をまじまじと見つめた。

「ええ。窓際に棚があるでしょう? その一番下の引き出しの奥に、アンティーク調の革張りの箱を置いてあるの。大きさはA4の紙が入るくらい」
「はあ……」
 棚の一番下の引き出しなど見たことがないが、箱の外観はイメージできた。

「それを持ち出して、先輩に渡せばいいんですか?」
 大して難しい頼みではなかったが、なぜ自分でやらないのか不思議ではあった。
「でも、どうして私に……?」
 茉莉花の顔が一瞬、くしゃっとゆがんだ。
 泣くのかもしれないと思ってしまうほど、その大きな瞳が揺らぐ。

「その箱を回収して……あなたに預かっていてほしいの。ちょっと置き場所に困っていて」
「箱って……何が入っているんですか?」
「私の原稿。没にした短編とか、あと物語の構想やアイディアメモが入っているの」
 一瞬怪しげなものを想像してしまったが、原稿やメモと聞いて納得した。
 それと同時に、茉莉花の事情が少しわかった気がした。

 茉莉花の家はお金持ちで、しかも一人っこだと聞いている。
 もしかしたら、親が小説を書くのに反対しているのかもしれない。
 漫画だけでなく、小説ですら、不必要な娯楽と見なす大人もいる。
 親の目を盗むために、本や漫画をこっそり友達の家に置いたり、学校のロッカーに隠したりするようなものか。

「いいですよ」
 幸い、押し入れ付きの自室があるので箱を一つ置いておくくらいわけはない。
「本当? ありがとう!」
 茉莉花がぱっと大きな目を輝かせる。
 無邪気な笑顔が眩しい。

 ――本当に魅力的で可愛らしい人だな。

 愛しさとともに、仄暗い嫉妬が首をもたげてしまう。
 自分が持っていないものを持っている人だと、改めて感じた。

「じゃあ、これを渡しておくわね」
 茉莉花が差し出したのは、銀色の鍵だった。
 茉莉花の細い指に掴まれた銀色の鍵を見た瞬間、どくんと真子の心臓が大きく跳ねた。

 これは――まるであの物語の――。

 不思議な感激に囚われながら、真子は鍵を受け取った。
 そして堪えきれず、口に出す。
「まるで第1話の”始まりのシーン”みたいですね」
「え?」
 茉莉花の怪訝そうな表情に、真子は一瞬話したことを後悔したが遅かった。
 仕方なく、真子は説明を始めた。

「ほら、主人公の真理(まり)が、古道具屋の男性に鍵を渡されるシーンです」
「ああ、あれかあ」
 茉莉花の顔がくしゃりと崩れた。
 それは――心底嬉しそうな笑みで、真子は胸を突かれた。

 ――なんて嬉しそうな顔をするんだろう。

「じゃあ、私は”大魔法使いのシャルナード”ね」
 古道具屋の、眼鏡をかけた栗色の髪をした理知的な青年は、実は王国の三大魔法使いの一人、シャルナードの仮の姿だ。
 鍵を託し、王国の運命を変えてくれる少女を、彼はずっと探していたのだ。
 そして、導かれるようにして真理が店を訪れた。
 彼が『王国の鍵』を真理に渡すシーンは、まるで王の戴冠式のような厳かさに満ちていて、ドキドキした。

「ふふ……素敵」
 そう言った瞬間、茉莉花がすっと顔をひきしめた。
 まっすぐ射貫くかのように、真子を見つめてくる。

「きみに、世界の命運を託す」

 それは――作中でシャルナードが口にした台詞だった。
 真子は天にも昇る気持ちで受け取った鍵を握りしめた。
「……私でいいんですか?」
 それは作中の真理の言葉だったが、実際真子もそう感じていた。
 大事な原稿やメモを――単なる後輩の私が預かっていいのだろうか?
 茉莉花が微笑む。

「きみにしか、託せないのだよ」

 作者本人にそう語りかけられ、真子はまるで、自分が”真理”になったような気持ちになった。
 ふっと空気が緩み、ふたりは同時に笑い出した。
 即興だったが、妙にこの状況に嵌まっていたのがおかしかった。
 なんとなく茉莉花との距離が縮んだ気がして、真子はずっと言いたかったことを口にした。

「真理、っていい名前ですよね……。名は体を表す、きみは世界の真実を担うよう、生まれついたんだ、っていうシャルナードの言葉が印象的で……」
「覚えててくれてるのね。嬉しい」
 茉莉花が楽しげに言ってくれたので、真子の緊張は一気にほどけた。

「私、自分の名前があまり好きじゃなかったんです。でも、真子っていうのは”真実の子”って意味なんだとしたら、悪くないなって……」
 茉莉花は――ジャスミンという花の名前だ。
 香りが豊かな可愛いらしい白い花。先輩にぴったりだ。
 ペルシア語で『神からの贈り物』という意味らしい。
 愛らしく可憐な、神からのギフト――。
 いい名前ですね、と言いたかったが、密かにジャスミンについて調べていたことを知られるのが恥ずかしく、口に出せなかった。

 名前のことだけではない。茉莉花に必要以上に興味があると思われないよう、真子は細心の注意を払っていた。
 どちらかと言えば、茉莉花には素っ気なく接していたと思う。
 それは、ともすれば迸ってしまう熱い本心を隠すためだ。
 だって、こんなに彼女と彼女の作品に夢中なんて伝えたら、きっと引かれてしまう。
 それに、同じ創作者としてのプライドもあった。
 でも、本当は茉莉花に伝えたかった、聞きたかった。物語のことを。

「田代さん……続きを書いてみない?」
「え?」
 茉莉花の言葉が理解できず、真子はぽかんとした。

「鍵の王国物語の続き」
「は?」
 一瞬、自分がこっそり鍵の王国物語の番外編を書いていることに気づかれたと思った。
 顔が赤く染まるのがわかる。
 でも、そんなわけはない。
 あれは、自分の部屋でこっそり書いただけだし、外に持ち出してもいない。
 茉莉花は知らないはずだ。

「……ごめんね。変なこと言った」
 無言でうつむいた真子に、ぽつりと茉莉花が言う。
「先輩、もう書かないんですか? 続きを……」
「……」
 茉莉花は無言だった。その顔に暗い陰がよぎる。

 ――私、すごく楽しみにしてるんですよ!

 そう言いたくて、でも真子は言葉にできなかった。
そのとき、茉莉花がテーブルの上の砂時計に目をやった。
 いつの間にか、砂時計の砂はほんの数粒を残して落ちきっていた。

「ああ、時間ね。名残惜しいけど」
「ここ、時間制なんですか?」
「そうよ」
 真子は少し驚いた。
 混んでいる店ならば時間制も理解できるが、客はずっと自分たちしかいないのに。
 このあと、貸し切りの予約でも入っているだろうか。
 真子は椅子から立ち上がった。

「あの、家が近いから、今から部誌を持ってきましょうか?」
「え?」
 茉莉花が首を傾げる。
「ああ、部誌ね……」
 そんなことはどうでもいいと言いたげな、明らかに興味がない口調だった。

 事実、彼女の”本題”は部誌の盗難ではなかった。
 それにしても、文芸部の部長としてはあまりに扱いが軽すぎる。
 妙な違和感があった。
 だが、それが何なのか、今の真子には突き止められなかった。

「いえ、急がなくていいわ。学校が始まったら、そのときに部室に戻して」
「わかりました」
「じゃあ、箱をお願いね」
 茉莉花は座ったままだ。

「はい。あの、先輩は出ないんですか?」
「ええ、私は後から出るから。代金は気にしないで」
 茉莉花がにこりと微笑む。
「さよなら。来てくれてありがとう」
「あ、はい……」
 違和感は募っていくばかりだ。
 だが、何を聞いていいかもわからず、真子はおとなしく店を出た。

「はー!」
 店の外に出ると、真子は大きく伸びをした。
 あまりに濃密な時間で、春休みののんびりした空気に慣れていた自分には、かなり刺激的だった。

 馴染みの町並みが目に入る。まるで長い旅行から帰ってきたかのような、不思議な懐かしさを覚えた。
 やはり、ずいぶん緊張していたらしい。
 部誌の盗難について、あまり怒られなくてよかった。
 真子は手渡された鍵をバッグから取り出した。なくさないようにしないと。
 それに、頼まれごとを完遂しなくちゃ。

 ――そうだ。このあと、すぐに学校に行って箱を回収しよう。

 それはとてもいいアイディアに思えた。
 まだ胸はドキドキしたままで落ち着かないし、晩ご飯まで時間がある。
 高校まで行って帰って一時間くらいだし。
 それに、箱の中身がとても気になっていた。
 鍵を渡してくれたってことは――中を読んでもいいってことだよね?
 わくわくしながら、真子は駅へと向かった。
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