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文字数 3,431文字
――私への電話だ。
家の電話が突如鳴り響いたとき、田代 真子 はなぜか直感した。
そして、それが歓迎しない相手からだ、とも。
高校の春休み中、自室でごろごろしていた真子は、仕方なく体を起こした。
電話に出るかぐずぐず迷っているうちに、階下で母が電話に出る声がした。
息を潜めて成り行きを窺っていると、案の定母から声が飛んできた。
「真子ちゃーーん!小鹿 さん、ていう方から電話よ」
――小鹿 茉莉花 から!?
思わぬ名前に動揺しつつ、真子は階段を駆け下り、母から受話器を受け取った。
話を聞かれたくなかったが、幸い母は夕食の準備に忙しいらしく、多少気にする素振りを見せつつも、台所に戻っていった。
「もしもし……」
自分の口から出た低い声に、改めて自分が狼狽していることを思い知らされる。
きっと部誌の原稿の催促だ。そうに違いない。
必死で自分にそう言い聞かせても、動悸は収まらない。
今日は三月三十日。部誌用の原稿の締め切りを十日も過ぎている。
わざわざ所属している文芸部の部長が電話をかけてくる用件なんて、それくらいしか思いつかない。
本来ならば。
ただ、真子にはもう一つ心当たりがあった。
――もしかしたら……”アレ”がバレたの?
急に心臓が激しく鼓動し始める。
「小鹿です、今ちょっといいかな?」
一つ上の十七歳とは思えない、大人びた落ち着きのある声が聞こえてくる。
電波が悪いのか、少しくぐもって聞こえるけれど、聞き慣れた茉莉花の声だ。
「……はい」
思ったより優しい声だったので、真子は内心ほっとしていた。
どうやら、”アレ”のことではないらしい。
「悪いんだけど、今近くのカフェにいるの。そこに来てくれる?」
「え……?」
――近くにいる? カフェ?
あまりに想定外の言葉の羅列に頭がついていかない。
だが、茉莉花は無言を肯定と取ったようだ。
「おうちを出て右に曲がったところの、『Heavens』ってカフェにいるから」
「ヘブンズ?」
初めて聞くカフェの名前に、真子は首を傾げた。
そんな名前のカフェなど近所にあっただろうか……。
とはいえ、近隣の個人経営のカフェのすべてを把握しているわけではない。
十六歳の真子にとって、カフェは気軽に入れる場所ではなかった。
「じゃあ、待ってるね」
逡巡しているうちに、電話は切れてしまった。
先輩を待たせるわけにはいかない。
考える暇 もなく、真子は部屋に戻ると着替え始めた。近所だから、普段着でいいだろう。
水色のシンプルなワンピースに着替えると、小さい布のバッグに財布を入れる。
階段を駆け下りると、台所で夕食を作っている母に声をかけた。
「ちょっと出かけてくる。先輩に呼び出された」
「遅くなるの?」
「ううん、そんなに時間かからないから」
真子の家では夕食は七時に始まる。今、四時くらいだから、近所で三十分かそれくらい話すだけなら充分間に合う。
「行ってきます!」
玄関のドアを開け、真子は足早に道を歩いた。
妙に胸騒ぎがする。
四月から高校三年生になる茉莉花と、高校二年生になる真子。
学年も違うし、同じ部とはいえ、特に親しい間柄ではない。
春休みにわざわざ電車に乗って、家の近くのカフェに呼び出すとは、何か特別な用事があるとしか思えない。
「わあ、もうすぐ満開ね」
角を右に曲がった瞬間、近くを歩く年配の夫婦が感嘆の声を上げるのが聞こえた。
真子もついついつられて、同じように上を見上げる。
そこには、民家の庭に咲く桜の木が淡いピンクの花を咲かせていた。
確かに、桜には不思議な魅力というか、魔力があると思う。
見ていると、吸い込まれそうな気がするのだ。
――そういえば、明後日だっけ。
真子は明後日の土曜日に、家族四人で花見に行かないかと母から誘われていたことを思い出した。
桜の名所が電車で一時間ほどのところにあるのだ。
だが、有名な桜の名所なので満開のときは大混雑し、小学校の頃に行って辟易した記しかない。
二つ下の弟は満開の桜並木にはしゃいでいたが、真子は終始ぐったりしていた。
今も変わらずインドア派の真子としては、花見に行くよりも家でゆっくり本を読む方がいい。
真子は、自他共に認める腰が重いタイプだ。
きっと今年も真子を除いた家族で花見に行くことになるだろう。
せっかく綺麗なのに、と母にため息をつかれるのが鬱陶しいが、高校生にもなって家族で花見というのも恥ずかしい。
どうせ桜は毎年咲くのだ。気が向いたときにいけばいい。
桜から目をそらせ、道を歩き始めた真子はすぐ足を止めることになった。
「あった……」
何の変哲もない住宅街の道の脇に、その立て看板は置かれていた。
木製の看板には、確かに『Cafe Heavens』と描かれており、その奥には木製の重厚そうなドアがある。
「ここって前は何だっけ……?」
よく覚えていないが、小さな工務店か何かだった気がする。家から徒歩一分もかからないところにカフェができていたなんて、全然知らなかった。
真子はドアを開ける前に、ふうっと軽く深呼吸をした。
まるで悪いことをして、校長室に呼び出されたような気分だ。
要は後ろめたいのだ。
だが、いつまでも立ち尽くすわけにはいかない。
真子はなけなしの勇気を振り絞り、木製のドアを押し開けた。
チリンチリンとドアの上部につけられた、小さな鈴が軽やかな音を立てて客の来店を知らせる。
カフェは木を基調にしたインテリアの、こぢんまりしたお店だった。
奥には木製のカウンターがあり、マスターらしき老人が軽く会釈をしてくる。
白髪をきれいに撫でつけて、きちっとした襟付きの白シャツに黒のベストを合わせ、赤い蝶ネクタイをしているマスターは、イギリスの老紳士のようだ。
カウンターの脇には、無骨な四角いピンク色の公衆電話が鎮座している。茉莉花はあの電話でかけてきたのだろうか。
木のぬくもりが感じられる店内には、客は一人しかいなかった。
壁際の二人がけのテーブルに座ったロングヘアのセーラー服姿の少女が、軽く手を挙げて合図してくる。
「田代さん、こっち」
真子は無言でテーブルに向かうと、茉莉花の前に座った。
休日なのに制服姿ということは、学校に寄った帰りなのだろうか。
心臓は依然、ドキドキと激しく脈打っている。
「急に呼び出してごめんね」
真子の緊張を感じ取ったのか、茉莉花が安心させるような笑顔を浮かべた。
「いえ……」
「これ、メニュー。先に注文しちゃおうか」
渡された茶色の革張りのメニューは、思ったよりも厚みがあった。
コーヒーだけでも、いくつも項目があり、ホットとアイスという定番以外にも、ずらりと種類が書いてある。
「何がいい?」
「えーと……」
真子は甘い飲み物が大好きだ。
コーヒー、紅茶のページをさっと通り過ぎ、見覚えのあるソフトドリンクのページにたどり着いた真子はほっとした。
よかった。ちゃんとオレンジジュースやコーラなどもある。
「私、クリームソーダで」
「わかった」
茉莉花は軽く手を挙げて、カウンターの中のマスターを呼んだ。
マスターは水の入った透明のグラスをテーブルに置くと、にこりと微笑んだ。
「ご注文は何になさいますか?」
見た目通り、彼は紳士だった。女子高校生の二人連れと侮らず、きちんとお客として丁寧な対応をしてくれる。真子の緊張が少しほぐれた。
「クリームソーダとウィンナー・コーヒーで」
茉莉花が慣れた様子で注文を口にする。
「かしこまりました」
マスターが当然のように受け答えをしているのを、真子は驚いて見ていた。
――ウィンナー・コーヒーって何?
名前のとおりだと、ウィンナー付きのコーヒーだけれど……。
食事メニューはなかったし、どういうことだろう?
気になったが、自分の無知を晒すようで率直に尋ねるのは躊躇われた。
そして、さらにそのことが真子を惨めな気分にさせた。
自分の幼いプライドと、茉莉花に対するコンプレックスを直視する羽目になり、真子は唇をかんだ。
家の電話が突如鳴り響いたとき、
そして、それが歓迎しない相手からだ、とも。
高校の春休み中、自室でごろごろしていた真子は、仕方なく体を起こした。
電話に出るかぐずぐず迷っているうちに、階下で母が電話に出る声がした。
息を潜めて成り行きを窺っていると、案の定母から声が飛んできた。
「真子ちゃーーん!
――
思わぬ名前に動揺しつつ、真子は階段を駆け下り、母から受話器を受け取った。
話を聞かれたくなかったが、幸い母は夕食の準備に忙しいらしく、多少気にする素振りを見せつつも、台所に戻っていった。
「もしもし……」
自分の口から出た低い声に、改めて自分が狼狽していることを思い知らされる。
きっと部誌の原稿の催促だ。そうに違いない。
必死で自分にそう言い聞かせても、動悸は収まらない。
今日は三月三十日。部誌用の原稿の締め切りを十日も過ぎている。
わざわざ所属している文芸部の部長が電話をかけてくる用件なんて、それくらいしか思いつかない。
本来ならば。
ただ、真子にはもう一つ心当たりがあった。
――もしかしたら……”アレ”がバレたの?
急に心臓が激しく鼓動し始める。
「小鹿です、今ちょっといいかな?」
一つ上の十七歳とは思えない、大人びた落ち着きのある声が聞こえてくる。
電波が悪いのか、少しくぐもって聞こえるけれど、聞き慣れた茉莉花の声だ。
「……はい」
思ったより優しい声だったので、真子は内心ほっとしていた。
どうやら、”アレ”のことではないらしい。
「悪いんだけど、今近くのカフェにいるの。そこに来てくれる?」
「え……?」
――近くにいる? カフェ?
あまりに想定外の言葉の羅列に頭がついていかない。
だが、茉莉花は無言を肯定と取ったようだ。
「おうちを出て右に曲がったところの、『Heavens』ってカフェにいるから」
「ヘブンズ?」
初めて聞くカフェの名前に、真子は首を傾げた。
そんな名前のカフェなど近所にあっただろうか……。
とはいえ、近隣の個人経営のカフェのすべてを把握しているわけではない。
十六歳の真子にとって、カフェは気軽に入れる場所ではなかった。
「じゃあ、待ってるね」
逡巡しているうちに、電話は切れてしまった。
先輩を待たせるわけにはいかない。
考える
水色のシンプルなワンピースに着替えると、小さい布のバッグに財布を入れる。
階段を駆け下りると、台所で夕食を作っている母に声をかけた。
「ちょっと出かけてくる。先輩に呼び出された」
「遅くなるの?」
「ううん、そんなに時間かからないから」
真子の家では夕食は七時に始まる。今、四時くらいだから、近所で三十分かそれくらい話すだけなら充分間に合う。
「行ってきます!」
玄関のドアを開け、真子は足早に道を歩いた。
妙に胸騒ぎがする。
四月から高校三年生になる茉莉花と、高校二年生になる真子。
学年も違うし、同じ部とはいえ、特に親しい間柄ではない。
春休みにわざわざ電車に乗って、家の近くのカフェに呼び出すとは、何か特別な用事があるとしか思えない。
「わあ、もうすぐ満開ね」
角を右に曲がった瞬間、近くを歩く年配の夫婦が感嘆の声を上げるのが聞こえた。
真子もついついつられて、同じように上を見上げる。
そこには、民家の庭に咲く桜の木が淡いピンクの花を咲かせていた。
確かに、桜には不思議な魅力というか、魔力があると思う。
見ていると、吸い込まれそうな気がするのだ。
――そういえば、明後日だっけ。
真子は明後日の土曜日に、家族四人で花見に行かないかと母から誘われていたことを思い出した。
桜の名所が電車で一時間ほどのところにあるのだ。
だが、有名な桜の名所なので満開のときは大混雑し、小学校の頃に行って辟易した記しかない。
二つ下の弟は満開の桜並木にはしゃいでいたが、真子は終始ぐったりしていた。
今も変わらずインドア派の真子としては、花見に行くよりも家でゆっくり本を読む方がいい。
真子は、自他共に認める腰が重いタイプだ。
きっと今年も真子を除いた家族で花見に行くことになるだろう。
せっかく綺麗なのに、と母にため息をつかれるのが鬱陶しいが、高校生にもなって家族で花見というのも恥ずかしい。
どうせ桜は毎年咲くのだ。気が向いたときにいけばいい。
桜から目をそらせ、道を歩き始めた真子はすぐ足を止めることになった。
「あった……」
何の変哲もない住宅街の道の脇に、その立て看板は置かれていた。
木製の看板には、確かに『Cafe Heavens』と描かれており、その奥には木製の重厚そうなドアがある。
「ここって前は何だっけ……?」
よく覚えていないが、小さな工務店か何かだった気がする。家から徒歩一分もかからないところにカフェができていたなんて、全然知らなかった。
真子はドアを開ける前に、ふうっと軽く深呼吸をした。
まるで悪いことをして、校長室に呼び出されたような気分だ。
要は後ろめたいのだ。
だが、いつまでも立ち尽くすわけにはいかない。
真子はなけなしの勇気を振り絞り、木製のドアを押し開けた。
チリンチリンとドアの上部につけられた、小さな鈴が軽やかな音を立てて客の来店を知らせる。
カフェは木を基調にしたインテリアの、こぢんまりしたお店だった。
奥には木製のカウンターがあり、マスターらしき老人が軽く会釈をしてくる。
白髪をきれいに撫でつけて、きちっとした襟付きの白シャツに黒のベストを合わせ、赤い蝶ネクタイをしているマスターは、イギリスの老紳士のようだ。
カウンターの脇には、無骨な四角いピンク色の公衆電話が鎮座している。茉莉花はあの電話でかけてきたのだろうか。
木のぬくもりが感じられる店内には、客は一人しかいなかった。
壁際の二人がけのテーブルに座ったロングヘアのセーラー服姿の少女が、軽く手を挙げて合図してくる。
「田代さん、こっち」
真子は無言でテーブルに向かうと、茉莉花の前に座った。
休日なのに制服姿ということは、学校に寄った帰りなのだろうか。
心臓は依然、ドキドキと激しく脈打っている。
「急に呼び出してごめんね」
真子の緊張を感じ取ったのか、茉莉花が安心させるような笑顔を浮かべた。
「いえ……」
「これ、メニュー。先に注文しちゃおうか」
渡された茶色の革張りのメニューは、思ったよりも厚みがあった。
コーヒーだけでも、いくつも項目があり、ホットとアイスという定番以外にも、ずらりと種類が書いてある。
「何がいい?」
「えーと……」
真子は甘い飲み物が大好きだ。
コーヒー、紅茶のページをさっと通り過ぎ、見覚えのあるソフトドリンクのページにたどり着いた真子はほっとした。
よかった。ちゃんとオレンジジュースやコーラなどもある。
「私、クリームソーダで」
「わかった」
茉莉花は軽く手を挙げて、カウンターの中のマスターを呼んだ。
マスターは水の入った透明のグラスをテーブルに置くと、にこりと微笑んだ。
「ご注文は何になさいますか?」
見た目通り、彼は紳士だった。女子高校生の二人連れと侮らず、きちんとお客として丁寧な対応をしてくれる。真子の緊張が少しほぐれた。
「クリームソーダとウィンナー・コーヒーで」
茉莉花が慣れた様子で注文を口にする。
「かしこまりました」
マスターが当然のように受け答えをしているのを、真子は驚いて見ていた。
――ウィンナー・コーヒーって何?
名前のとおりだと、ウィンナー付きのコーヒーだけれど……。
食事メニューはなかったし、どういうことだろう?
気になったが、自分の無知を晒すようで率直に尋ねるのは躊躇われた。
そして、さらにそのことが真子を惨めな気分にさせた。
自分の幼いプライドと、茉莉花に対するコンプレックスを直視する羽目になり、真子は唇をかんだ。