9・織田信長とルイス・フロイス

文字数 1,155文字

9・織田信長とルイス・フロイス
ヒロシさんと牧師先生からは、僕とヒロシさんが見つけたジュネーブ聖書と古文書は極めて貴重なもので、「どうやら本物の1560年聖書らしいので、東北学院大学の中で専門家が調査することになった」ということまで知らされていた。

「今、聖書に使われた紙が1560年当時のものかどうかの炭素年代測定などの検査機器で念入りに調べているけど、仮の調査ではどうやら本物らしいよ。つまり、教会の地下室から歴史的な発見がされたということらしいよ。」
「ええ、ツイッターやインスタグラムでお祭り騒ぎのようですね」と僕が言った。

でも、なぜ1560年ジュネーブ聖書が教会の地下室に長い間眠っていたのかそれがミステリーであり、謎だという。ヒロシさんが話しはじめた。

「古文書の中の『永禄8年(1566)10月、ガスパル・ヴィレなるポルトガル人から堺の商人を通じ購入せしめし聖書なるもの』という古文書のことなんだけど、ガスパル・ヴィレがルイス・フロイスと一緒に日本に来たことはわかっているよね。僕は、以前、長崎の西坂公園にあるルイス・フロイスの記念碑を見に行ったことがあるんだよ。記念碑の近くに日本二十六聖人記念館というのがあるんだけど、その中にルイス・フロイスに関する資料もあるんだ。今は、ネットで日本中どこからでも検索できるけどね。
最初は、織田信長とルイス・フロイスは親しくしていたんだよ。
織田信長は延暦寺攻撃などで仏教の僧侶を徹底的に弾圧していた時代だからね。豊臣秀吉は、最初、織田信長の政策を継承してキリスト教の布教を認めていたんだよね。
ところが、天正15年(1587)7月に「バテレン追放令」を出したんだ。その2年前の天正13年(1585)10月には、秀吉はイエズス会の日本副管区長のスパル・コエリヨと大坂城で謁見しているんだ。
すると、スパル・コエリヨと秀吉が謁見後に秀吉がキリスト教に怒りを発し「バテレン追放令」を出したことがわかる。これにはさまざまな学説があるんだけど、一番考えられるのは、ポルトガルがイエズス会を利用して日本への領土を拡大しようという意思をくみとったのではないかという学説があるね。
いろいろな学説はあるけど、森の都教会に1560年ジュネーブ聖書があるのはまぎれもない事実。
だから、最初は織田信長がキリスト教の宣教師を大事にしていたので、宣教師が持ってきた聖書も大事にされていたんだと思うね。それが、秀吉の代になって突然弾圧されたので、聖書を持っているだけで罰せられるのではいかという判断が働いのではないかなと僕は思う。
あくまで、これは僕の意見であって、牧師や長老さんたちの意見ではないよ。」
ヒロシさんは、神学生らしくわかりやすくていねいに説明してくれた。
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登場人物紹介

僕・大学4年生・菊地イチロー






佐藤ヒロシ・東京神学大学大学院生

菊地小百合・僕の姉

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