第13話

文字数 3,302文字

 里山温泉街で現在営業している温泉は、国民宿舎里山荘と温泉街の中ほどにある共同浴場『たぬき湯』の二カ所だけである。
 この『たぬき湯』は、旧陸軍が里山岳で演習を行っていた昭和の初め頃、軍人用入浴施設として整備されたものだ。それを戦後に地域の住民が手を加え、今日に至るまで大切に使われてきた。
 赤茶色い瓦屋根の平屋建ての入口にかけられた暖簾をくぐると無人の受付台があり、横の自動券売機で大人三百円の入浴券を購入し、受付台の上にある箱に券を放り込めば誰でも入ることができる。
 しかし、住民のほとんどは一年間何度でも使える三千五百円のパスポートを小島商店や佐野商店などで購入し、ほぼ毎日利用している。
 受付台を通り過ぎると、座面が裂けて綿がはみ出た長椅子二本がぽんぽんと並べられた六畳ほどの板張りの広間で、向かって中央に男女共用の和式トイレ(もちろん汲み取り式)、左に男湯、右に女湯の入口がある。
 それぞれの入口の引き戸を開けると、壁面に棚と籠が設えられた三畳ほどの脱衣所、その奥のガラス戸の向こうに浴場がある。
 浴場内は、脱衣所の倍ほどの洗い場と大人五~六人が入れる大きさをしたひょうたん型の浴槽があり、壁面からにょっきり突き出た太いむきだしのパイプから、じゃばじゃばと、かけ流しというより、ほとんど垂れ流しのような状態で湯がそそがれ、茶色いにごり湯が湯船から絶えず溢れ出している。
 湯船の淵や排水溝の周辺は、湯の花が茶色くこびりつき、奇怪な形に盛り上がった自然の造形に時の流れを感じさせられる。
 利用客のほとんどは地元住民だが、ごくまれに、噂を聞きつけた温泉マニアが都市部から訪れることがある。すると、一緒になった近所の老人たちに囲まれて延々と話しかけられ、いちいち相手をしようものなら、すっかり茹で上がって広間の長椅子でマグロのようにころがる羽目に陥る。
 風呂上りには、建物の左横、駐車場との隙間の数メートルの石畳の先にある、ちんまりとした祠の横の湧き水飲み場でのどを潤すことができる。
 蕎麦屋でざっくり打ち合わせした翌日、香芝と内村、山口の三人は『たぬき湯』の前で盛り上がっていた。
「正面入り口と、壁面に吊り棚を作って、じゃらじゃらぶら下げましょうか」
 香芝は頭の中でイメージしたことを伝えようと、指で宙に絵を描いた。
「そがなら、お狐さんの参道にも吊り棚作って、上からぶら下げたらどがですがか」
「お狐さん?」
 山口の言葉に、香芝は首をかしげた。
「風呂は茶色いけん狸。で、隣の祠の湧き水は透明だけん、白ってことにしてお狐さんですがぁ。ほれ」
 そう言って山口が指差した先、湧き水飲み場の横の祠に、なぜか狸のような丸顔に垂れ目の石像が、ちょこんと鎮座していた。先の尖ったふっくらとした尻尾の形で、言われてみれば狐に見える。
「なるほど。じゃあ、お狐さんにもたっぷり吊るしましょう」
「なんか、ここだけで五十個以上吊るせそうですがぁ。本通りの店舗の軒下も営業休業関係なく、全部吊るしていったら二百個では足りんですがぁ」
 内村が指を折りながら勘定した。
 三人がわいわいやっているところに、一台の軽トラックが『たぬき湯』の駐車場に勢いよく飛び込んで急停車した。運転席からは里山牧場のマコちゃん、助手席からパンチパーマの勇次が飛び降りて、やっと見つけたとばかりに駆け寄ってきた。
「和尚~。また、なんか、おもしろそうなこと始めるって、『木の芽』のオヤジから聞いたがぁ」
「おう、マコちゃんか。早耳だがぁ。昨日、話してたとこだがぁ。もうちょっと煮詰まったら、里和会と商店主会に話持っていこうと思っとったがぁ」
「もう、リュウちゃんも小島のおやっさんもみんな知っちょうだがぁ」
 田舎のネットワークは恐ろしく早い。動き出すまではなかなかだが、一度動くと、誰も止められないのが、おもしろいけどちょっと怖い。
「そがなら話は早いがぁ。梅雨明けから盆明けくらいまで、このあたり一帯に風鈴をぶら下げるけん、たのんますがぁ」
「そがだけがか。もっと、何かせんがか」
 不服そうなマコちゃんと勇次の顔を見て、山口が困った顔をしたので、香芝が加勢した。
「ここの温泉はなかなか優れものなのに、知名度がなさすぎるでしょ。だから、風鈴の景観で話題作りをして、同じく美味いのに知られていない蕎麦も一緒に売り込もうって作戦です」
「そがにええですがか。どがにでもある銭湯ですがぁ」
 納得いかないマコちゃんは口を「う」の発音の形にして、駄々っ子のようにつまらなさそうな顔をした。香芝がさらに何かを言う前に、
「そがですねえ。ここは内湯しかないですけん。いっそ露天風呂でも掘りますがか」
と、内村が適当なことを言った。
 一同がぶ~ぶ~と盛り下がるなか、香芝は一人、目を輝かせた。
「野天風呂、作りましょうよ。どっか空いてるとこに」
 一瞬、香芝を除く全員がぽかんとして、その後、示し合わせたかのように腕組みをすると、う~んと唸った。
「香芝さんまで、そがなこと。簡単にできませんがぁ。そがな金、どがにあるがか」
 山口が渋い顔をして首を振った。けれど香芝は、うれしそうに話を続ける。
「このあたりの休業中の温泉宿って温泉はでてるんでしょ。だったらそれをパイプかなんかで引っ張ってきて、大型のビニールプールにためて、ちょっと囲い作って。野天なんだから、ちゃんと整備されてないほうがおもしろい。手作り感が肝心なんです。期間限定だし、それだとそんなに金もかからないでしょ」
 香芝の提案に、一同はお狐さんにつままれたような顔をしたが、勇次だけ、めずらしく思案顔になったかと思うと、急に活力をみなぎらせた。
「そがなことなら、おいがやっちゃあがぁ。使えそうなとこがいくつかあるけん、センセ一緒に見に行くがぁ」
 言うが早いか、勇次は香芝の腕をつかんで引きずるように温泉街を走り出した。
「いけん、勇次が張り切ると、やれんことになるだがぁ」
 山口とマコちゃんが血相を変えて二人の後を追い、その後を事態が把握できないまま内村がついて行った。
 結局、五人で「あがこが」言いながら、いくつかの空家を見て回った結果、温泉街の端の休業中の民宿の庭先がいい、ということになった。
 宿自体は一階建で部屋数は五室ほど、内湯のみの小さな民宿だが、縁側に面した庭は建物の面積とほぼ同等の広さで、今は雑草が生い茂っているが、草刈りすれば大型プールを置いて内湯から湯を引き込める。
 初夏の日差しが降り注ぐ庭は、取り囲む雑木林の隙間からこぼれた光が筋状になって幾何学模様を描き出し、様々な野鳥のさえずりが聞こえてきた。
「なかなかいいロケーションやけど。勝手に入り込んで、しかも勝手に決めて大丈夫か」
 心配する香芝に勇次は目配せすると、鼻歌を歌いながらニッカズボンの後ろポケットに手を突っ込み、スマホを取り出して、ニカッと歯を見せた。
「ここの持ち主は小島のおやっさんだがぁ。一昨年まで人に貸してほそぼそやっとっただがぁ、その人がぽっくり逝ってからやる人がおらんけん、放置しとるがぁ。あ、おやっさんがか。勇次だがぁ。ほれ、温泉街の端の民宿あ~が。そうそう。あれ、庭に野天風呂作るけん貸してごせ。そがなことで、はいはい」
 勇次は電話を切ると、香芝に向かって自慢げにピースサインを出した。ものの数十秒で話がまとまったことに不安を感じた香芝は山口にそっと耳打ちした。
「大丈夫ですかね。あんなんで」
「たぶん大丈夫だと思いますがぁ、後で自分が小島さんちに行って、ちゃんと話しときますけん」
 二人がひそひそ話していると、勇次がどこかへ駆け出そうとしたのでマコちゃんが引き留めた。
「おい勇次、どが行くがか」
 呼び止められて振り返った勇次は「へ?」と不思議そうな顔を向けて言った。
「風呂の穴掘るけん、ユンボとってきますがぁ」
 勇次以外の四人が、一斉に怪訝な視線を彼に向けた。
「穴は掘らんがぁ!」
 山口の叫び声より先に、マコちゃんが素早く勇次のケツに飛び蹴りをくらわした。
 雑木林の中から、数羽の野鳥が「きぃ~」と鳴いて、ばさばさと飛び立っていった。
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