第19話

文字数 8,479文字

 三月最後の週末、『里山のひなまつり』が開催された。二週間の開催期間である。
 まずは本会場となる里山町公民館へ行ってみよう。
 入口にはでかでかと、『里山のひなまつり』の看板が立てかけられていた。マコちゃんディレクション、看板屋青年の作で、今回は和風にこだわり、木目を活かした板を縦使いに、桃色のペンキで味のある手書き文字のタイトルがしたためられている。ところどころに小さく描かれた桃の花も愛らしい。これを目にした人たちは、まさか、金髪で眉毛のない前歯のかけた男が作ったとは、夢にも思わないだろう。
 靴を脱いでスリッパに履き替え、受付をすぎて左手、十畳の和室へ入る。
 入口正面の壁際に三組の御殿飾り、左手に二組の親王平飾りとガラスケースに入ったセット雛、右手奥の床の間に天神様人形とその掛け軸が備え付けられている。それぞれの飾りの前には、年代や謂れなどの注釈が添えてある。
 この部屋に入った人は、視線が低くなるため、自然に部屋の中央で膝を折り、希少な雛飾りを間近でじっくり眺めることができる。
 入口の左手に小さな台を置き、その上にポットと湯呑を用意して、自由に温かいお茶が飲めるようにした。まだ寒い中をはるばるお越しいただいたお客さまに、くつろいでもらおうという趣向である。
 和室をでて、調理場の前を通り、突き当りの体育館へ足を運ぶと、正面奥の舞台の手前にずらりと五組の七段飾りが並んでいる。ちょっと、人形屋の店頭のような感もなくはないが、なかなか圧倒される風景である。
 さらに左手の壁際には、赤い生地が掛けられた三段の雛段があり、地元幼稚園の子供たちが紙コップに顔を描き、折り紙を貼り付けて装飾した内裏雛が、二十組ほど並んでいるのが微笑ましい。
 体育館の入口付近には大きな石油ストーブがどんと置かれており、その脇の机にもポットと湯呑を置いた。
 広々とした体育館の中を、ぐるりと見てまわると底冷えするので、帰る前に、ストーブで暖をとってもらおうというはからいである。
 公民館コレクションを堪能した後は、内村が作成した『ひなあるきマップ』を片手に温泉街本通りへ移動して、小島をはじめ各商店の店先に展示されている、それぞれの家に伝えられてきた、見応えある雛人形を見て歩こう。
 雛人形のない商店では、できれば特産物や新鮮な野菜などを買って帰ってもらえればありがたいと、意匠をこらしてひなまつりの飾り付けをし、おすすめ商品を並べている。
 手作りのワサビ漬けに、キクイモの醤油漬け、ふきのとう味噌など、懐かしいような珍しいような、田舎土産に興味をそそられる。
 さらに移動して、本通りから徒歩五分ほどの坂の上にある『里山神社』の社で葵先生とその元教え子たちがお茶とお菓子を用意してもてなしてくれる。
 安らぎの時間を過ごした後は、冬の間は休業していたが、『里山のひなまつり』に合わせて営業を再開する蕎麦店で腹ごなしをするのもよし、『木の手作り工房』で、チェーンソー雛の恐怖体験に肝を冷やしてから、里山温泉『たぬき湯』であったまるのもいいだろう。
 初日の今日は、まだ人はまばらだが、プレスリリースを新聞社などに送ったところ、反応は上々で、来週あたりに取材に来てくれることになった。
 メディアが入れば地元のモチベーションはあがるし、何より客が来る。客がくれば、来年にも繋がるだろう。
 香芝にできるのはここまで。あとは、この灯火が消えることなく、どれだけ大きく育つかは、地元の人たちの創意工夫にかかっている。  
 正直、まだまだやれることはあった、というより、やるべきことがいくらでもある。しかも、地元の人間だけで動いていると、次第に内輪だけのイベントに陥って、廃れてしまう危険性は充分に考えられる。けれども、これでバトンタッチだ。自分はどこか遠いところから、この町の行く末を見守るしかないのだ。
 香芝は、残雪でまだらになった里山町の風景を眺めながら、名残り惜しさを鎮めるように佇んでいた。
 小さな黄緑色のふきのとうが、道端から香芝を見上げるように顔を覗かせていた。

「きゃ~、かわいい~っ!」
 チェーンソー雛を一目見たとたん、美香は本能のまま突進し、自分の目の高さほどの木人形に抱きついた。
「そがですか、そがですがか!さすが、香芝さんの奥さんは、見る目がありますがぁ」
 予想通り子供たちに大泣きされて、子供会滞在中はシートで覆い隠され、いろんな人たちに、怖いキモいとけなされていたチェーンソー雛が、初めて大絶賛されて、自信を喪失していた雨宮は感激した。
「美香さんって、変わってますがぁ」
 内村が口に手をあてながら、香芝の耳元で囁いた。
「人のヨメさん、変人扱いせんといてくれ。まあ、ちょっと、好みが偏ってるところがあるんは確かやけど」
 美香は雨宮と談笑したあと、木人形の男雛と女雛の間から顔を突出し、雨宮に渡した自分のスマホに向かってピースサインをしながら大口を開けて笑っている。香芝は困ったような、喜んでいるような複雑な表情でその様子を眺めていた。
 撮ってもらった写真を満足げに確認しながら美香が香芝のところに戻ってきた。
「この後、“里山神社”に行くって言ったら雨宮さんも、昨日見てきたって。それはそれは素晴らしい出来栄えで、しかも葵先生はすっごくかわいらしい人なんやて」
 美香の後ろからにこにこしながら近づいてきた雨宮が大きく頷いた。
「里山神社の設えは、趣があって、本当に素晴らしいものですがぁ。また、その空間に葵先生がよく馴染んでますがぁ。あそこはなかなか、心が癒されますがぁ」
 雨宮の屈託のない笑顔に、なぜか香芝は一抹の不安を感じたが、すっかり舞い上がっている内村にせかされて、雨宮に別れを告げ、里山神社へと向かった。
 温泉街本通りの空き地に車を停めて、とぼとぼと五分ほど歩いて行くと、神社の境内へと続く数十段の階段が見えてくる。
 階段の中央には、緋毛氈に見立てた赤いシートが敷かれ、その上に、小石に色づけして作られたストーンアートの雛人形が段々に並んでいた。
「へえ、なかなか絵になるねえ」
 香芝は感心しながら、カメラを構えてシャッターを押した。
「これも葵先生のアイデアがか?なかなか洒落たことを考える方ですがぁ」
 何を見ても、まだ見ぬ葵先生の天女のような姿を想像している内村は、すっかりにやけ顔が戻らない。
 ストーンアートの雛段を横目に、階段の両端をゆっくり上って鳥居をくぐると、正面に小さな社殿があり、その手前に賽銭箱と紅白の鈴緒が垂れ下がった大きな鈴が見えた。
 とりあえず賽銭を入れ、鈴を鳴らして手を合わせ、社殿に目を向けると、三段の板階段の上の木の引き戸の左脇に、桃色のペンキで「ひなまつり開催中。ぜひ、中へどうぞ。」と丸文字で手書きされた板が立てかけられていて、その下にも色とりどりのストーンアートがあしらわれていた。
「あら、かわいい。こんなとこまで凝ってるね。では、さっそくあがらしてもらいましょか」
 美香はうれしそうに靴を脱ぎ、とんと板階段に足をかけた。内村もそそくさと靴を脱ぎ、香芝も、ゆっくりその後に続く。
 美香が「ごめんください」と声をかけ、社の引き戸に手を掛けようとしたとき、突然、扉が左右にガラリと開いた。
 三人は瞬時に硬直した。
 なんでこんなとこに、チェーンソー雛が正座してるんだろう、と香芝は思った。横では内村が完全に凝固している。
 言葉を発することができずに固まったままの三人に向かって、チェーンソー雛がしゃべった。
「香芝さんと奥さん、内村さんですがか?ようこそ来てごさったがぁ。わだしが橘葵ですがぁ」
 木人形ではなかった。よく見ると、藤色の着物を小奇麗に着込んだ、小さな老婆だった。
 気が動転している男二人をよそに、美香は即座に笑顔を取り戻し、動いた。
「はじめまして~。きゃ~、葵先生かわいい~。ステキ~」
 美香の好みは一貫していた。
 葵先生に向かい合うように美香はちょんとしゃがんで両手を大きく広げて、彼女を抱きしめた。
「こがなとこでは寒いですけん、どうぞ、中へお入りくださいがぁ」
 葵先生の言葉を受けて、美香が子ウサギのようにぴょんぴょんと社の中に入るのを見届け、まだ固まったままの内村の背中をぽんぽんと叩き、香芝も中へ入った。我に返ったもののまだ状況を呑み込めないでいる内村は出来そこないの木偶人形のようなぎこちない動きで後に続いた。
 小さな社の内部は三十畳ほどだろうか。
板敷の床に大きな緋毛氈が敷かれ、正面の左右いっぱいに七段の雛段が横長に作られ、五十体ほどの雛人形がずらりと並んでいる。その横には半分ほどが蕾のままの桃の花が活けられていた。
 雛段の手前両側にはぼんぼりが三つずつ等間隔に置かれ、柔らかなあかりが灯されている。
 さらに、天井から、数十本もの吊るし雛がゆらゆらと吊り下がり、その風景が鄙びた社の風情と相まって、なんとも優しい情緒ある空間を作りあげていた。
 社には葵先生の他に、三人の着物を着た老婆が置物のように座っていた。
 確かに、雨宮の言うとおり、この空間にはこの人たちが見事にはまっている。
 確かに、葵先生は、山口の言っていたとおり、小さくて可愛らしくて、年齢不詳であった。
 香芝たち三人は勧められるまま、隅に置かれた電気ストーブのそばの座布団に座り、その向かいに葵先生がちょこんと納まった。
 すると、他の一人の老婆がお茶を淹れ、小皿に高木の蕎麦饅頭を載せて、ふるまってくれた。
「なんで、私たちのことご存知やったんですか」
 美香が温かい湯呑を両手で包み込みながら、葵先生に訊ねた。
「さっき、雨宮さんから連絡もらったがぁ。今から、香芝さんたちが来られえけんって。最近は便利ですがぁ」
 そう言って、葵先生はピンクのスマホを手にして見せた。
「こんたびは、こがな素晴らしい企画を考えてごさって、香芝さんも奥さんも、内村さんも、本当に、よろこびますがぁ」
 小さな葵先生は、さらに小さく縮こまると、三つ指をついてお辞儀した。
「ダンナさんと内村君はともかく、私は何にもしてませんねん」
 恐縮して頭と手を振る美香を見て、葵先生はしわくしゃの顔をさらにくしゅくしゅと収縮させ、口元に手をあてて上品に笑った。
「ああ、懐かしい、関西弁ですがぁ」
「あ、そういえば、葵先生は京都にいらっしゃったんですよね」
 すっかり冷静に事態を把握した香芝が、湯呑を片手に、思い出したとばかりに言った。
「そがですがぁ。戦後すぐ帰ってきましたがぁ。この子らはみんな、わだしの教え子ですがぁ」
 葵先生が老婆たちを振り返ると、彼女たちは恥ずかしそうに顔を見合わせて、女学生のようにきゃっきゃと笑い合った。
 こうなると、もう、十年、二十年、三十年の差はない。
 多少、葵先生より、三人の老婆の方が、まだ目鼻口の区別がつきやすい、くらいのものである。
 戦後に葵先生の教えを受けたというこの人たちが八十前後くらいとすると、はたして葵先生はいったい幾つなんだろう。小島商店の雛人形とおっつかっつだろうか、まさかなあと、香芝は漠然と考えていた。
「素敵な設えですよね。これみんな、葵先生がしはったんですか」
 目を細めて社内を見渡す美香に、葵先生は頷いているのか、首を横に振っているのかわからない動作をした。
「全体の構想は、わだしが考えましたがぁ、飾り付けはこが神社の今の宮司の息子さんとそのお友達が手伝ってごさったですがぁ。先代の宮司もわだしの教え子だったですけん、その縁で、ようしてごさってますがぁ」
 先代の宮司はもう随分前に亡くなっているらしい。
「こがへ帰ってきた頃は、わだし、抜け殻みたいだったですがぁ。だってねぇ、わだしは子供らに、戦争は正しい、一人一人がお国のためにならんといけんって教えとったんが全部間違ってたんですがぁ。なんという恐ろしいことをしてたがぁって考えると、もう、辛くて辛くて」
 葵先生は当時のことを思い出して、掌をこすり合わせながら顔をくしゅくしゅとしかめた。
「そがときに、こがの先先代の宮司さん、先代のお父さんに怒られましたがぁ。こがままぼんやり生きおるほうが、罪を重ねることになるがぁって。あんたは、これからの子供らに本当に大切なことは何かをきちんと教え続けんといけんがって。そがからは、嫁にもいかんと、ずっと教鞭をとってきましたがぁ」
 葵先生は息継ぎをするように茶をすすると「つまらん話、してしまいましたがぁ」と目を伏せた。
 美香は、葵先生の手をとると、俯いた顔を覗き込み、
「里山町の昔のお話、聞かせてください」
と、笑いかけた。
 葵先生は、美香の顔を愛おしそうに見つめて、微かに頷いた。
「戦争が終わって、十数年くらいたった頃からだったがかねえ。こがあたりは、それはそれは賑やかで。温泉街の本通りなんて、人をかきわけんと通れんくらいでしたがぁ」
 葵先生は化石のようだが、さすがに長年の教職で培われてきた声は若々しく、聞き取りやすい。清流のように透き通り、聞いているものの心にすうっと入り込む心地よさがあった。
「昼も夜もないような感じで。映画館に、ダンスホールまであったんですがぁ」
「ええ?そんなんまであったんですか。それはすごい」
 香芝の驚く顔がよほどうれしかったのか、葵先生はくすくすと笑いながら、懐かしそうに語った。
「冬はスキーのお客さんがたくさん来られてただがぁ。わだしも子供ら連れて、スキー場まで行って、授業でスキーを教えとったんですがぁ。昔は今よりずっと雪も多くて、帰りはスキー場から家までそがまま滑って帰ったんですがぁ」
「うそでしょ~。想像できませんよお」
 美香が葵先生に「またまたあ」と茶茶を入れた。
「本当だがぁ。だってその方が早いし、楽ちんだがぁ。みんな、歩くより上手だっただがぁ」
 半信半疑の美香に、元教え子の三人の老婆たちが「そがそが」と頷いた。葵先生は「だがぁ」と言ってうふふと笑った。
「夏は涼しいから避暑地として、ぬるい温泉につかって、みなさんくつろいでおられましたがぁ。若い恋人たちは、里山岳の麓の里山湖で、ボートに乗ったりしてねえ。だけん、温泉宿はいっつも満室で、商店も何を並べてもよう売れとりましたがぁ」
 三人が「へえ~」と感心すると、葵先生はふっと何かを思い出してくすりと笑うと、口元に手をあてて、内緒話をするように三人に顔を近付けた。
「そがに人が集まると、いかがわしいお店もできて、教師としては子供らの教育上よろしくないと憤慨しておりましたがぁ。その中でね、女の人が裸で踊りを見せるお店があってね、まだ未成年だった小島君と芳川君がこっそり潜り込んで、すぐに見つかってつまみ出されて、こっぴどく叱れてましただがぁ」
 小島くんとは小島商店の主、芳川くんとは食堂よしかわの主である。
 三人は一斉に手を叩いて大爆笑してしまった。あのじいさまたちにも青春時代があったんだ。当たり前だけど。
 まさかこんなところで大昔の恥ずかしい話を暴露されているとは思ってもみないだろう。今頃二人とも、くしゃみをしているにちがいない。
 ひとしきり笑った後、葵先生は、ふっと寂しそうに首を傾けて目を伏せた。
「そがな賑わいが十年、二十年、もっとだったかどうか忘れちゃあがぁ。それが、だんだん陰りを見せ始めただがぁ。でも、最初のうちは誰も気にしとりませんでしたがぁ。だって、里山町の繁栄は、永遠に続くと思ってましたけん。なくなるなんて夢にも思いませんがぁ。それが、あれよあれよと寂れちゃあて、気付いたときには、どがしようものうなってしまったですがぁ」
 それがまるで自分の責任とでも言うように、葵先生はうなだれてしまった。
「なんとかあが頃とまでは言わんでも、もう少し、賑やかさを取り戻したい、そがまではあの世には行かれんとずうっと思っとるうちに、こが歳まで生きながらえてしまいましたがぁ」
 葵先生は小さく息を吐き出すと、そうっと顔をあげて香芝にじっと目をとめた。
 一瞬、若き日の葵先生の姿が見えたような気がして、香芝は目をこすった。
「香芝さんが、こが町に来られてから、若い人たちと一緒に、いろんなことを始めてごさったことは知っとりましたがぁ。雪灯篭も風鈴も素晴らしかったがぁ、こがひなまつりは、ほんにあが頃が思いだされますがぁ。いい冥土の土産になりましたがぁ」
 小さな葵先生の小さな澄んだ目に、宝石のような滴が浮かんだ。
 この人は、この町と共に老いていった。自分の老いを止めることができないように、寂れていくこの町をどうすることもできずに心を痛め、多くの教え子たちを送りだし、そして一人、見守り続けてきたのだ。
「そがなこと、言わんでくださいがぁ。冥土の土産にはまだ、足りんですけん、もっともっと、賑わいを取り戻すまで、葵先生は里山町を見守ってくれんといけんですがぁ」
 いつのまにか解凍された内村が、目と鼻を真っ赤にしながら葵先生の手を握りしめていた。
 薄く紅をさした唇を優しく微笑ませて、小さな手で内村の手をしっかりと握り返す葵先生は、まぎれもなく、気高く美しい女先生だった。
 情緒ある雛人形の設え、温かいお茶と蕎麦饅頭、そして葵先生のお話。
 夢見心地の時間を過ごした三人だった。

 香芝が運転する帰りの車中で、いつになく饒舌な内村は、後部座席から身を乗り出し、運転席の香芝と助手席の美香に途絶えることなくしゃべり続けていた。
「帰り際に、葵先生が言っとられましたがぁ。駐車場の表記がないのはいけんがぁって。僕たちは、車なんて空き地とか、どがなと適当に停めりゃええがぁって思っちゃあけど、やっぱりよそから来られる人にはちゃんと表示しとかんと困られえがぁ。そがなこと、今まで考えたことなかったがぁ。とりあえず、帰ったら車停めてええ場所を入れてマップを作り直しますがぁ」
 後ろからにょっきり突き出された内村の顔があまりにも至近距離のため、美香は振り返らずに答えた。
「それはええね。でも、マップ見て行ってみて、ただの空き地とかやったら、ここ、ホンマに停めてええんやろかってまた不安になるんよ。だから、マップと合わせて現地にも看板立てるとかした方がさらにええと思う」
「そがですがか。は~、街の人はそがに心配性ですがか」
 内村が半信半疑に首をかしげた。
「それそれ。まだ、自分らの常識にとらわれてるで。ここらと違って、都市部は狭いねん。空いてるからって勝手に停めるんは非常識なんや。だいたいキミら、どこなと停めてええって言うくせに、見なれん他府県ナンバーの車が停まってたら、怪しいがぁってじろじろ見るやろ。あれもけっこう、辛いんや。看板は来る人のためだけやのうて、地元のもんにも、ここはよそから来るお客さんも車停めますよって周知してもらうもんにもなるんや」
 諭すような香芝の言葉に「はは~」と恐れ入った内村は、気を取り直して言った。
「そがですがか。わかりましたがぁ。じゃあ看板も作って立てますがぁ」
 素直な内村の反応に香芝はうれしくなった。
「まあまあ、内村君一人でなんでもせんかてええって。看板は里和会の誰かに頼んだ方が早いやろ。山口さんには僕から言うとくからどこに立てるかをまとめて、山口さんに伝えてや」
「山口さん、理解してくれますがか」
 不安げな内村を励ますように香芝は言った。
「葵先生の御神託やって言うたら逆らえんやろ。あのお人が悪い人は、長いもんには上手に巻かれはるからな」
「そがですねぇ」
 山口のいろんな言葉と態度を思い出したのか、内村は怒りながら笑った。
「内村君、山口さんと一緒に、里山町のこと頼むな」
 真顔になって急にしんみりとした香芝の口調に、内村は顔を引きつらせて、ちょっと俯いたかと思うと、鼻を赤く染めて涙目になった。
「香芝さん、また、いつか帰ってきてごせ。待っとりますけん」
 香芝はバックミラーに写った内村の泣きっ面を確認すると、ふうっとため息をつき、片側の口角を引き上げて意地悪な表情を作った。
「こんなクソ田舎、もう一生来ることないわい」
 驚いた内村は「え~」と大声をだし、落とした肩をいからせて、香芝に顔を近付けた。
「なんで、そがなこと言うがか。そうだが、山口さんに市長になってもらって、もういっぺん香芝さんを呼び戻してもらうがぁ」
 香芝は、興奮する内村の息が顔にかかるのを露骨に嫌がりながら首を右に傾け、鼻に皺を寄せ、もっと嫌味な顔で言った。
「せやなあ、山口さんが市長になるか、このわさび市が消滅するか、どっちが早いやろなあ」
「な、なんてこと言うがか。洒落になっとらんがぁ」
 真っ赤な顔をしてわめき散らす内村と、何食わぬ顔でくわえた煙草に火をつけ、ハンドルを握る香芝の横顔を見ながら、美香は「ええコンビやのになあ」とつぶやいた。
 三人を乗せた四輪駆動車の目の前を、正体がわからない大きな野鳥が「くぉ~」と一声鳴いて、素早く横切っていった。
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