第20話

文字数 5,153文字

 ンキョ、キョケ、ホ、キョケ。
 どこからともなく、不思議な野鳥の鳴き声が響き渡り、里山町に、遅い春の訪れを告げる、四月のはじめ。
 香芝と美香は、わさび市を去る前に、もう一度里山岳を拝んで行くことにして、里山草原広場に立ち寄った。
 辺り一面を埋め尽くしていた雪はほとんど消え去り、ところどころに、忘れ物のような残雪が、まだ緑の少ない地面の上にまだら模様を描いている。
 雪融け水で湿った枯草の上を、五十羽ほどの群れをなしたツグミが、寝ぼけ眼の虫でも狙っているのか、ぴょこぴょこと跳ねまわり、しきりに地面をついばんでいる。冬の渡り鳥である彼らも、どこかへ旅立つ前に、名残を惜しんでいるのかもしれない。
 原っぱの向こうで、澄んだ青の空を背負ってそびえる里山岳は、雪化粧の隙間に茶色い地肌を見せ始め、頂上付近には霧がかかっている。ぼんやり霞んだ姿は、まだ眠そうだ。
 頬をなでる風は刺すような冷たさだが、ぽっかり雲が浮かんだ空は清々しく、のんびりとした陽気が心地いい。
「さっきから、ヘンな鳴き声がするけど。ウグイス?にしてはへたくそやね。なまってんのかな」
 ウグイスは鳴き声が聞こえても、その姿を見つけることはなかなか難しい。美香はあたりの樹木をきょときょとと見上げながら首をかしげた。
「まだ練習中なんですよ」
「わ~っ!」
 何の気配もなく背後から突然声をかけられて、二人は驚いて振り返った。
 里山荘の飛田が、お得意の爽やかな笑顔で立っていた。
「今年初めて鳴く若者や、去年の鳴き方を忘れてしまったうっかり者は、鳴き始めには、はっきりホケキョと鳴けないんです。ああいうのを“ぐぜり鳴き”といいます。今はあんなに不器用でへたくそな鳴き声ですが、これから毎日練習を重ねて、雪がすっかり消える頃には、見事なホケキョを披露してくれますよ」
 飛田は眩しそうな眼差しで樹木を仰ぎ見て、ゆっくりと香芝と美香に視線を向けた。
「今日、発たれるんですか」
 二人は微笑みながら頷いた。
「飛田さんにはいろいろ、お世話になりました。どうぞ、お元気で」
 香芝が礼を言い、二人で飛田に向かってお辞儀をした。
「礼を言うのはこちらの方で。いや、むしろ謝罪をしないといけない」
 気まずそうに目を細める飛田に、香芝は口元をきゅっと結んで首を振った。
「飛田さんのせいではないでしょう。あなたが謝ることじゃない」
 香芝の言葉に、飛田は悲しそうに眉を寄せた。
「力を持つものには危機感がなく、危機感を抱くものには力がない。それが今のわさび市の現状です」
 晴れ渡る空で一羽のトンビが、翼を大きく広げて「ぴ~ひょろ」と鳴きながら気持ちよさそうに円を描いていた。
「このわさび市があなたを呼び寄せておきながら、あなたの予想以上の働きに驚き、戸惑い、そして煙たくなって、法的には問題の無いやり方で追い出した。しかし、それに対して、立場のある人間は誰も何も言わなかった。市長も市議たちも見て見ぬふりをした。自分たちが出来なかったことを、あなたには出来たと認めたくなかったから。実際はやらなかったから出来なかっただけなのに」
 円を描くことに飽きたのか、トンビは旋回しながら里山岳の頂を目指して飛んで行った。
「私も山口君も、外から帰ってきてこの町の寂れように驚き、なんとかしたいと思いながらしがらみに縛られてなんとも出来なかった。何にもしなかった。自分の不甲斐無さをひっそり恥じるしかなかった。そこへ、何のしがらみもない無垢なあなたがやって来て、私たちに魔法をかけた。しかし、しがらみのないあなたは誰にも守られることなく、“鬼は外”とばかりに追い払われた」
 飛田は、トンビを目で追うように、遠く離れた里山岳の頂の、霧の隙間から見える残雪を食い入るように見つめた。そんな飛田の姿を、二人はただ黙って見守っていた。
「あなたが灯した、小さなあかりは、どこまで持ちこたえることができるかわかりません。でも、できるだけ長く、できるだけ大きく、灯す努力をすることが、せめて私たちにできる謝罪と感謝なんだと思います。山口君をはじめ、里山町の連中は、そこまで口には出しませんが、みんな同じ気持ちだと私は信じています」
 里山岳に懺悔するように、思いを吐き出した飛田は、憑き物が取れた表情をして香芝と美香に向かい合った。そんな飛田に香芝はにっこりと微笑んだ。
「そうだといいんですけどね。まあ、連中はうっかり者で不器用ですからね。では、飛田さん、お元気で。もう、お会いすることもないと思いますが」
 香芝と美香がぺこりと頭を下げ、立ち去ろうとすると、飛田はなんだか、急にうろたえ始めた。
「あ、あ、あ、いや、ですからね、香芝さん。まあ、そんなに急ぐことはないでしょう。ほら、ご覧なさい、里山岳のなんとすがすがしい姿」
「う~ん、霧がかかって、ぼんやりしてますけど」
「おや、またウグイスが鳴いてますねえ。彼らはねえ、練習して上手になるんですが、その上達にも個体差があるんですよ。鳴き声で縄張り宣言するわけですから、上手い奴と下手な奴では、さぞ、生き方が変わるんでしょうねえ。人と同じですねえ」
「ふ~ん、鳥の世界も大変なんですねえ、じゃ、飛田さん、お元気で」
「おっとっと、ちょ、ちょっと待ってください。まったく、連中は何をしているんだ」
「何の話ですか?」
 さすがに飛田の様子がなんか変だと、香芝はいぶかしんだ。
「いやあ、なんといいますか、足止めも大変だなと、あ、来ました、来ました。どうやら不器用な連中が間に合ったようです。ほら、ご覧なさい」
 香芝と美香は怪訝な顔で振り返り、飛田が指さす方向へ視線を向けた。そして、あんぐりと口を開けた。
「な、なんじゃ、あれ」
 荷台にたくさんの人を乗せた軽トラが何台も連なってやって来た。その後方には、市の公用車のバンが続いている。荷台に乗った人々は何やら大声で叫びながら、こちらへ向かって突進してくる。その塊が近づくにつれ、知った顔や知らない顔が入り交じっているのが見て取れた。知らない日焼け顔の男たちは、大きな旗をぶんぶん振り回している。日章旗をベースに赤や青の原色使いで、海流丸とか勇丸とかの文字が躍っている。
「あれは大漁旗ですね。ははあ、漁師町の連中だな、彼らは。あとは、隣の地区の岩谷町の人と、農協と漁協の人たちもいますね」
 手をかざして団体を見守っていた飛田が、さも楽しげに解説した。
 目の前で停車した団体が、ぞろぞろと車から飛び出してきた。あっというまに数百人の人々に取り囲まれてしまった。
 戸惑う香芝の目の前に、リュウちゃんが大漁旗を担いだ男を連れて現れた。
「な、なに?みなさん、見送りに来てくれたの?」
「見送りじゃあないがぁ、お迎えに来たがぁ」
 訳がわからず目をしばたたかせ首をかしげる香芝などおかまいなしに、リュウちゃんは隣の男を紹介しだした。
「センセ、こがは、漁師町のイサオだがぁ」
 紹介された男は、坊主刈りに無精ひげ、赤黒く潮焼けした丸い顔。リュウちゃんが毛のないクマなら、さしずめこちらは毛のある海坊主である。その海坊主はずかずかと歩み寄ると、香芝の両手をぎゅっと握りしめた。
「漁師町公民館でまとめ役しちょう、磯崎イサオいいますがぁ。センセがワシらの町のことも引き受けてごさるそうで、よろこびますがぁ」
 ますます訳がわからず、ぽかんと間抜けな顔をさらしていると、山口がひょっこり顔をのぞかせた。
「香芝さん、ほら、こないだ、公民館に文句の電話がひっきりなしにきて、面倒だがって言ってたがぁ」
「ああ、そういえば、そんなことありましたね。で、それが?」
「見山館長と相談して、そがに文句言いよるんは、うらやましいからに違いない、そがなら、香芝さんを他の町と共有しちゃあがって話になったがぁ」
 皆が腕を組み、大きく頷いた。香芝はあせった。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。私はわさび市からお役御免って言われて、今日、出て行くんですよ」
「間に合ってよかったがぁ。ねえ、市役所のみなさん」
 市の公用車から出てきたのは、見覚えのある観光課の面々、ほかに、顔は知ってるけれど名前は知らないよその課の人たちもちらほらいる。
「香芝さん、竹原課長が、再契約についてご相談したい言うとりますけん、今から市役所に来てごせ」
 観光課の女性職員の一人がにこやかに言った。
「な、何が起こってるんです。ちゃんと説明してください」
 思わず声を荒げた香芝の肩を、見山がぽんぽんと叩いた。
「いやあ、なんか知らんが、みんながダメ元で動いたことが功を奏したみたいだがぁ」
 見山の話によると…。

 山口をはじめ、里山町の主立った面々がない知恵をしぼって、香芝を引き留めるために、何か打つ手はないかと考えた。その結果、里山町公民館へ文句を言ってきた連中をリストアップして、かたっぱしからあることないこと吹いて回ることにしてみた。得策とは思えないが、ダメ元である。
 まず、リュウちゃんが嫌煙の仲の漁師連中に斬り込んだ。以前、山口から、漁師町が夏に行っている漁船パレードを観光イベントにしたいがうまくいってないという話を耳にし、それなら香芝に任せればええ、なんなら自分が頼んでやる、でも、香芝は市から追い出されようとしていると告げた。すると漁師たちは漁協に駆け込んだ。
 次に、農産物の販路拡大に悩んでいた農家の連中に、牧場のマコちゃんが声をかけた。香芝ならええアイデアが出るかもしれんが。でも、市から追い出されようとしちょうがぁ。そうなると農家は農協へ駆け込んだ。
 そして、閉鎖された石切場を持て余していた隣の地区の岩谷町へ、勇次が声をかけた。山口の入れ知恵で、見学ツアーみたいなことをやってみたらどがかと。やり方は香芝に任せればええ、なんなら自分が頼んでやる、でも香芝は市から追い出されようとしていると告げた。そのほか、里和会のメンバーたちが、手当たり次第に香芝がなんとかしてくれるけど、追い出されると触れ回った。
 困っていたのは里山町だけではない。市の中心部以外の、市町村合併でなしくずしにわさび市に組み込まれた町や村は、みんな、くすぶっていた。そこへ火を点けてまわったのである。  小さな火だねはあっというまに大炎上。そしてとうとう、各町の口うるさい連中が観光課の職員を羽交い締めにした。
 役人というのは、基本的に自分からは動かない。けれど、ケツを叩かれると、右往左往しだす。それに、実は、観光課の一部の職員たちも、香芝が出て行くことを理不尽に思っていた。が、表だって動いては、報復人事が怖い。
 そこで、職員たちは密談を重ねて悪知恵を働かせた。結果、妙案を思いついた。漁協、農協が顔をそろえ、里山には重鎮の小島がいるではないか。このメンツが揃えば、市長に揺さぶりをかけることができるのでは、と。
 実は里山町の重鎮、小島は、ある意味、陰の実力者でもある。本人に欲がないので表だったことはしないのだが、選挙では各町の商店主たちの票のとりまとめをしていた。その範囲は、わさび市全域に及ぶ。そこへ、漁協と農協も手を組めば鬼に金棒どころか、鬼にミサイル。その気になれば、山口どころか、そのあたりでニャアと鳴いてる猫でも市長にしてしまえそうな勢いである。
 小島と漁協、農協のトップが揃って、このまま香芝がこの町を去るのなら、次の選挙の票のとりまとめはやめる、なんて市長に囁いてみたら効果てきめん。血相変えた市長は観光課の竹原を呼びつける。小心者の竹原は縮み上がった。
 なんだかんだ言っても、小さな町の役場では、市長の鶴の一声は天の声に等しい。逆らえば、間違いなく天罰がくだってしまう。
 というわけで、香芝が、すでに引っ越し荷物を大阪のマンションに送ってしまって、あとは当人たちが帰るだけという日になって、事態が一変したのであった。
「いやあ、ダメ元で動いてみちゃあが、なんかうまくいきましたがぁ」
 ケロリと言って頭を掻く山口の横で、飛田がしみじみとつぶやいた。
「ダメ元も、数が増えれば力になるものですねえ」
 開いた口が塞がらない、とはこのことだ。まったく、ここらの人々は、自分たちの都合で人をあっちにやったり、こっちにやったり。
 香芝は大いに憤慨した。が、へらへらと笑う、この町のバカモノやワカモノを見ていると、笑いがこみ上げてきた。やっぱり、ここの連中は非常識だ。けれど、そんなこと、もう、どうでもいい。この非常識に、自分の常識で、とことんつきあってやろうじゃないか。
 あ~あ~と大きく息を吐きながら、手をかざして里山岳の頂を仰ぎ見た。
 ケキョキョ、キョケ、キョ。
 またどこかで、不器用なウグイスの鳴き声がした。
《完》
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