第3話

文字数 7,054文字

 香芝が再び里山町を訪れたのは、九月中旬の夕暮れどきだった。市街地から里山町へは、車で二十分ほどの道のりだ。
 広大な庭付きの古い平屋の家屋が建ち並ぶ住宅街を抜けると、ほどなく民家がまばらになる。さらに川沿いの道路を山へ向かうと、次第に、くねくねと曲がりくねった坂道へとさしかかる。
 雑木林が覆いかぶさるような道路は、川に沿って右へ左へ、何度も急なカーブが繰り返され、それが徐々に傾斜のきつい直線の坂道になる。軽自動車なら、ベタ踏みしてもエンジンの唸る音が響くばかりでなかなか速度は上がらないが、香芝の四輪駆動車は難なく駆け上っていく。
 最後の直線の坂道を登りきると、さっきまでの雑木林がうそのように開けて、標高およそ千百メートルの里山岳を仰ぎ見る、青々とした草原が広がる。里山草原広場だ。
 夕暮れどきのいまの時間は、原っぱが真っ赤な西日に照らされて、山裾の牧草地に放牧された牛の群れが影絵のようにぽつぽつと浮かび上がる。
 草原広場をつっきる道路の両側には隙間なく並んだススキが、ひしめく生きもののように、豊かな穂先を秋風になびかせて来訪者を迎えてくれる。
 道路と牧草地の境界線には柵があり、『牛注意』の看板が立てられている。かつては放牧された牛たちが道路をしばしば横断した。牛にも車にも危険なので柵を作ってからはそういう光景にでくわすことも少なくなったのだが、ごくまれに強者牛が柵を乗り越え脱走を試みることもあるらしい。
 脱走牛に遭遇することなく、のんびり草を食む牛たちに見送られて草原を抜けると、宿泊施設では唯一営業している国民宿舎『里山荘』が見えてくる。古びた三階建ての宿舎だが、露天風呂を備えた温泉浴場があり、それを日帰り客にも開放して、なんとか細々と営業を続けている。
 里山荘を通り過ぎると、その先は里山温泉街の本通りになるのだが、こちらは狸一匹も通らない寂れようである。
 車が行き違えるほどの道幅の両側には数十軒の店舗と民家が立ち並んでいるが、そのほとんどは、入口や窓枠に、ハロウィンの装飾のような、見事な蜘蛛の巣が張り巡らされ、人の気配が感じられない。売家と記された看板でさえ、古びて色あせ傾いている。かろうじて営業しているらしい店は、本当に営業しているのかどうか疑ってしまうくらい薄暗く、まちがいなく、知っている人間以外は立ち入らないだろう。
 夜になるとさぞかし真っ暗になると思うのだが、通りの突き当りに店をかまえる、木造二階建ての食堂『よしかわ』の照明が、かろうじて辺りに薄明かりを届けている。この店の店主は、死んだように静まり返る町の様子を嫌い、客がいようがいまいが、夜十一時までは店を開けているという。
 やる気がないわけではないと思う。すべての人ではないかもしれないが、こうして自分にできることをしている人もいる。
 香芝は課長の竹原が言った「連中はやる気がない」という言葉を思い出し、
「やる気がないんは、あんたらやろ」
と、人前では控えている関西弁で一人つぶやいた。
 食堂『よしかわ』の手前を右に、脇道へと入ると急な坂道が現れる。この坂道を登りきった先にあるのが里山町公民館だ。
 香芝が公民館に到着すると、何やら館内が騒々しい。何か催しものでもやっているのだろうかと思いながら、気にすることもなく玄関のガラス扉を開けた。
「こんにちは~。香芝です。入りますよ」
 二度目の訪問であるが勝手知ったるとばかりに靴を脱ぎスリッパに履き替えて館内に上り込むと、奥の体育館で、数人の男たちが、一人の若者を取り囲んで口々に罵っている様子が目に入った。
「おまえのために、わしらがどがだけ手ぇ貸しちゃあか、わかっちょうがか」
「でかいのは口ばっかしだけん、ケツの穴の小さいやつだがぁ」
「こがにやれんやつじゃあて、思っとらんかったがぁ」
 怖いモノ見たさで剣呑なやり取りを恐る恐る眺めていると、山口が苦笑いしながら事務室から顔を出し、手招きした。
「どうも、こんにちは。なんかあったんですか。えらい剣幕ですけど」
 香芝が体育館の男たちを指差しながら訊ねると、山口は口の端に手を添えて、声をひそめて言った。
「いやあ、駆除か殺生かで…」
「駆除か殺生?」
 香芝は目をぱちくりと見開き、首をかしげた。
「農作物のイノシシ被害がね、年々深刻ですけん、里山町の有志で金だしあって、猟友会の若手を育てないけんて話になったんですがぁ」
 山口が腕組みしながらため息をつく。
「ああ、じゃあ、あの真ん中の彼が拒んでるんですね。嫌やって」
「その段階なら、ここまでの騒ぎにならんのですがぁ。あいつ、やる気満々で、鉄砲の資格もとって、今日、初めてじいさま猟師たちとイノシシ駆除に出かけたんですがぁ。守備よくイノシシの親子にでくわしたんですがね、鉄砲をかまえても、一向に撃たんけん、様子がおかしいってぇ、見てみたら、鼻水たらして泣き出したらしいですがぁ。殺生できん、かわいそうだがぁって。まあ、みんなが怒るのも無理ないがぁ、あいつも気の毒ですがぁ」
 山口は眉を寄せながら笑いを浮かべるという器用な表情をした。
「放っといていいんですか。仲裁入るとか」
「もう、手は打ってますけん、ほら、来たがぁ。助っ人が」
 山口の視線を追って入口の方に目を向けると、三十代後半とおぼしき大柄の男がいた。丸い小さな目にちょこんとのった団子鼻がコアラみたいで、体格のわりには人懐っこそうな顔をしている。右手に一升瓶、左手には手提げ袋を携えており、なにやら香ばしい匂いがする。
「マコちゃん、すまんがぁ」
 コアラ顔の男に山口は笑いかけた。
「いやいや、和尚の頼みは断れんけん。お、あれだがぁ。あ~あ~、勇次のやつ、だけん最初っから断れて言ってやったのに。鼻水にヨダレまで垂らして、ほんとにやれんやつだがぁ」
 マコちゃんと呼ばれたコアラ男は、スリッパも履かずに裸足のまま、どかどかと奥の体育館へ向かい、騒動の真っただ中にすうっと入り込むと、中央で責められているパンチパーマの二十代前半の青年の頭をくしゃくしゃなでながら、無邪気な笑顔を取り囲む男たちに向けた。
「みなさん、おつかれさまですがぁ。串焼きと酒、持ってきましたけん、これで治めてごせ。ほれ勇次、ぼやっとせんと、湯呑借りてくるだがぁ」
 男たちの顔が一気に緩み「お~」と手を叩いてはしゃぎだした。パンチ青年の勇次は弾かれたように立ち上がって調理室へと走った。
 ほどなく、一同が体育館の床に座り込み、酒盛りが始まった。騒がしいのは変わりないが、とにかく場は治まったようだ。
 香芝が呆気にとられて見ていると、山口がおかしそうに説明してくれた。
「マコちゃん、藤崎真ってんですけど、里山牧場の跡取り息子だけん、肉は売るほどありますがぁ。それで、うちの実家の酒屋に寄らせて、酒と一緒に呼んだんですがぁ。ああなったら飲ませでもせんかぎり、収拾つかんですけん」
「あれ、ご実家は酒屋で?でも、いま和尚って呼ばれてはりませんでした?てっきりご住職されてるんだと」
 首をかしげる香芝に、山口は顔の前で手を振りながら笑った。
「僕は尚一って名前なんで昔から和尚ってよばれてますがぁ」
 なんとなく、人をくったような、のらりくらりとした温和な山口を見ていると、和尚というあだ名は名前からだけではないんだろうな、と香芝は思った。
「いやあ、お騒がせしてすまんでしたがぁ。それで?電話ではイベントスケジュールがどうとか言っとられましたがぁ」
何事もなかったように山口は茶を入れながら香芝に椅子をすすめた。
 さっきまで事務室で、体育館の連中との関わりを避けていた館長の見山の姿が見えない。どうやら肉と酒につられて、マコちゃんの後をついていったらしい。
「見山さんはああなったら戻ってこんけん、後で自分から話しますがぁ」
 見山の様子を窺っていた香芝を気遣い、山口が言った。
「では、簡単に、説明させてもらいます」
 香芝は気を取り直して、カバンから資料を取り出すと、山口の前に広げた。
「年間スケジュールです。カレンダー催事とか旬だとか、一年を通して何かを仕掛けていくのがいいと思いまして。具体的なことはこれからご相談しながらと思ってるのですが、とりあえず、一番目先のことからいえば、秋の収穫祭みたいなことができないかなと」
 香芝は上目遣いで山口の反応を窺った。
「収穫祭って?」
 山口は香芝と香芝が広げたスケジュールを交互に見ながら眉毛をへの字に曲げて困った顔をした。そんな山口の反応は香芝にとって想定内だったようで、気にせず笑顔で話を続ける。
「田畑や牧場、山菜や蕎麦もあることですし。食にからんだイベントは集客力がありますから。いきなり大掛かりなものは無理としても、たとえば市街地の人たちを呼び込むくらいのこじんまりした規模で。今回は軽く、予行演習くらいの気持ちで、うまくいけば春先に第二回をもう少し規模を広げて、今度は市外や県外の人をターゲットにですねえ…」
 香芝の乗り気に反して、山口はどんどん顔を曇らせる。
「やっぱり、急すぎますかね。冬までに何かできればと思ったんですが」
 上目遣いのまま、香芝は遠慮気味に言い添えた。
 香芝に見つめられた山口は、しばらくじっと身動きすることなく沈黙し、大きく息を吸い込むと、
「いや、急も急だが、秋は無理だがぁ」
 腕組みをしたまま、渋りきった顔で首を振った。
「やっぱり準備が無理ですかねえ。もう九月も中旬ですし、いくら小規模と言っても、初めてのイベントを一カ月や二カ月で仕上げるのは難しいですかねえ。もっと早くお話しに来ればよかったんやけど」
 香芝は残念そうに眉毛を下げて「それではですねえ」と次の説明に取り掛かろうとした。
 それを山口が申し訳なさそうに手を振りかざして止めると、香芝は不思議そうに口を閉じて顔を上げた。
 山口は、どう説明しようか迷っていたようだが、ひとつ息を吐くと、端的に言った。
「稲刈りだがぁ」
「へ?」
 一瞬、言葉の意味が理解できずに、香芝は間抜けな声を上げた。
「こがの頃は、みんな稲刈りで忙しいけん、イベントなんかやってる暇はねえがぁ」
 申し訳なさそうな山口の顔を見ながら香芝はしばらく唖然とした。
「へ?そうなんですか?じゃ、じゃあ春先では?」
「春先って言っても、ここいらは春が遅いけん、いつまぁでも雪に埋もれちょうがぁ。それに雪が融けたら田植えで忙しいなぁがぁ」
「へ?田植え?」
 さらに予想外の返答に、香芝の頭は真っ白になった。
 状況を理解できていない香芝に、山口は丁寧に説明した。
 ここ里山町は、いわゆる農村である。農村では、田植え、稲刈りは一家総出で行われる。隣近所も手伝う。一般企業や役場に勤めている人間でも実家に田んぼがあるものは、田植え、稲刈りのときは休暇をとるほどだという。
 そんな町中繁忙期に、イベントをやろうなどとのってくるモンはいないというのだ。
 香芝は絶句した。考えてみれば、今まで農業を営む人間と関わったことがない。せいぜい、趣味の家庭菜園くらいだ。けれどもこの山間部の町では、家に田んぼや畑があるのはあたり前で、他に仕事を持つものでも、繁忙期に手伝うのは当然のことなのだ。
 しかし、ここで引き下がっていては話が前に進まない。香芝は気を取り直して、さらに次の提案を試みた。
「で、では、稲刈りが終わって、冬場はどうでしょう。ほら、冬休みに入るし、クリスマスとかお正月とかバレンタインとかあるじゃないですか。そういったカレンダー催事に合わせてですねえ」
 そこへ追い打ちをかけるように山口は申し訳ないを通り越して、気の毒そうな顔をした。
「確かに冬場は田畑もすることがねえだがぁ、ここいらは雪にすっぽり埋もれちょうがぁ。多いときは、二メートルくらい積もるがぁ。そがなとこに、よその人は来てごさるがか」
「二メートルの積雪…」
 雪が降るということは知っていたが、実際に二メートルとなると相当な量だ。何よりも車しか交通手段がないこのあたりで、雪道に不慣れな人たちをわざわざ呼び寄せるには、よっぽど魅力的なことをしないと無理だろう。
「かまくら作りだの、カンジキ体験だの、近隣の雪の多い地域でいろいろ仕掛けとるとこはあるみたいだがぁ、そうそう人は来んようだがぁ。スキー場が開いてれば、近頃はだいぶ家族連れが戻ってきたって聞きますが、こがのスキー場はとうの昔になくなっとりますけん、やれんですがぁ」
 山口の憐みの眼差しを受けながら、香芝は呆然とした。
 まずは、軽くおざなりのことを試みて、様子を見てと思っていたが、机上の空論というやつか。やはり現場には現場の事情がある。まだまだ、自分は甘かったと痛感させられてしまった。
 状況は理解できたが、解決策は見いだせない。香芝は「出直してきます」と肩を落とした。
「すいませんがぁ。そがに気を落とさんでごせ。気長にいきましょうがぁ」
 山口の慰めの言葉を背に受けながら、香芝は落胆して公民館の外にでた。もうすっかり日が暮れている。田舎は想像以上に暗いという学習から、持参した懐中電灯を取り出し足元を照らした。
駐車場に停めた車に向かって数歩進んだところで、裏山の竹林の隅で何かが動いた。恐る恐る音がした方に目を向けると、柴犬ほどの大きさをしたイノシシが、鼻先を地面に押し付けうろうろしていた。
 声もだせずにじっとイノシシの様子を見ていると、
「今日は月夜だけん、明るいがぁ」
と、背後から声をかけられた。
 びくっとして振り返ると、山口に言われたのか、館長の見山がほろ酔いのご機嫌な様子で見送りに出てきてくれていた。
「香芝さん、せっかく来てごさったのに、すいませんがぁ」
「ああ、館長、いえ、また出直してきます」
そう言いながら香芝はイノシシから視線が離せない。その様子に気付いた見山がにんまりと笑った。
「ウリボウの縞がとれたとこくらいのヤツだがぁ。香芝さん、あがなこまいイノシシの捕まえ方、知っとられるがか」
 返答に困った香芝は見山の顔をじっと見つめて首を捻った。
「罠とか、鉄砲とか、ですか。まさか吹き矢じゃないですよね」
 見山の酔った目がすわった。
「吹き矢は罠にかかった熊を眠らせるときくらいしか使わんだがぁ」
 吹き矢、使うんだ…。香芝が「へえ~」と感心すると、見山は気をよくして、さらに話を続けた。
「あがなくらいなら、素手で充分だがぁ」
「はあ?」
 目が点になっている香芝に、見山は胸をそらせて得意げに言った。
「ほれ、あがして、無心に食いもん探しとるだがぁ。あの後ろからそぉっと近付いて、後ろ足をがっと掴むんだがぁ」
「つ、掴むんですか?足を?素手で?」
 見山はますますうれしそうに首を上下させた。
「で、そがまま持ち上げて、脳天を地面に叩きつけぇだがぁ。簡単だがぁ。やって見せちゃあか」
 手振り身振りをまじえて解説しながら、腰をかがめて今にもイノシシを掴もうとする見山を香芝は必至で制止した。
「いいです、いいです。や、やめてください。それじゃあ、また」
 大急ぎで両手を振り、香芝は足早にその場を立ち去った。後ろから見山が何か言ったような気がしたが、聞こえないふりをした。
 すがるようにハンドルを握り、急いで坂道を下りながら、香芝は少しずつ冷静さを取り戻していった。
 からかわれたのだろうか。しかし、妙にリアルだった。酔っていたからというより、シラフだったら言うより前に、有無をいわさず実演していたかもしれない。
 イノシシが見山の手で持ち上げられ宙でじたばたする光景を想像しながら、駆除と殺生の間で苦悩する勇次青年は、やっぱり気の毒だと思った。
 同時に、自分はとんでもない人たちを相手にしているのかもしれないと、脇の下に嫌な汗をかいた。
 群青色の夜空にぽっかり穴が開いて、まんまるお月さんが浮かんでいた。

 帰宅した香芝は、夕飯を食べながら、今日の里山町での出来事を妻の美香に話した。
「ひえっ。素手で持ち上げて、脳天落とし。そんなこと、ホンマにできんのん?」
 美香はかわいそうと眉をよせたが、興味津々である。
「たぶん、うそとちゃうんちゃうかなあ。手つきが妙にリアルやった」
 飯をかきこみながら、香芝は答えた。
「イノシシとか狸は普通にでるみたいやね。住んでる人は困ってて申し訳ないけど、都会の人間が見たらうれしがるネタやわなあ。大雪はどうやろか」
 雪と聞いて、美香がはしゃいだ。
「雪ええやん。雪月花っていうやろ。まえに奥飛騨の温泉で、雪まつりやってたやん。かまくらとか、きれかったやん」
 香芝は視線を上げてしばらく考え「あったあった」と笑みを浮かべた。
「あれは確かに楽しかったけど、あの雪まつりを目的に行ったわけとちゃうやん。露天風呂と飛騨牛料理の温泉宿を目当てに行ったら、たまたまやってて見に行ったわけやろ。あの雪まつりだけやったら、わざわざ行こかてならへんで」
「そやなあ。よっぽど、うわっていうことせな、わざわざ行かへんわなあ。でも、雪使ってなんかしたいなあ。冬場は農作業ないから、里山の人らも動けるんやろ」
「たぶん」
 冬場はまさか、囲炉裏の前でわらじ編みってわけじゃないだろうなと、香芝は箸をもったまま、真剣に考え込んでしまった。
 車の音も、街の喧騒も、そして外灯もない秋の夜長。風がそよそよ流れ込む窓の外では、リンリン、チリチリ、コロコロと、虫たちの大合唱がとめどなく続いていた。
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