第12話

文字数 4,593文字

 コツ、コツコツ、コツコツコツ。
 すっかり緑だけになった桜の木にとまった白黒の波線模様の小鳥、キツツキ類のコゲラが、上下左右にちょこまかと移動しながら、懸命に樹皮をつつき、何かをついばんでいる。
 三月末の山焼きのお蔭で、すっかりまるぼうずにされた里山草原広場も、ゴールデンウイーク前の山開きの頃には、新芽が息を吹き返し、雲ひとつない青空と競い合うように、瑞々しい緑に覆われた。ふりそそぐ木漏れ日の中を歩けば、チリチリ、キリキリ、ピーピー、さまざまな野鳥たちのさえずりが耳を楽しませてくれる。
 連休明けのその日、香芝は内村と二人で、里山町の蕎麦店『木の芽』にいた。
 里山町には蕎麦専門の店が六件、蕎麦を提供する食堂や喫茶店が二件ある。この辺りでは、昔から蕎麦の栽培が盛んで、秋になると白い小さな蕎麦の花が、辺り一面に咲き誇る。
 その、里山産の蕎麦粉を使った打ち立ての蕎麦は、薬膳を思わせる独特の風味と強いコシが特徴的で、県内外の有名店にも引けを取らないほど優れているのに、知名度が低い。
 方々の蕎麦を食べ歩いてきた蕎麦通の香芝が、初めて里山蕎麦を食したとき、予想外の美味さに驚き、同時にこれだけ知られていないのはもったいないと思った。
「杉本さん、やっぱりここの蕎麦は美味いですよね」
 大盛りのざる蕎麦を旨そうにすすりながら、還暦を前にした無愛想な四角い顔の大柄な店主に声をかけた。店主はちらりと香芝に横目を向けると「よかったですね」と他人事のように言った。
 この、そっけないヘンコな返答も蕎麦屋らしくて好ましい。
「そういえば、香芝さんちは、もう泥落としは済まされましたがか?」
 すっかり蕎麦を平らげた内村が、蕎麦とセットででてくる、小鉢に入った蕎麦団子に爪楊枝を突き刺しながら言った。
「泥落とし?何それ?」
 目をぱちくりとさせながら首をかしげる香芝に蕎麦団子を口に放り込みかけていた内村は、口を開けたままの間抜けな表情で動きを止めた。
「泥落としですがぁ。大阪では違う言い方しちゃあですがか。ほら、田植えを無事終えた慰労というか、田植え後の打ち上げって言ったらわかりますがか」
 田植え自体、経験のない人間の方が多い都市部で、田植え後の打ち上げと言われても、それに該当するものがあるはずがない。どうも内村は、自分の見える範囲がすべてと思うところがある。内村に限らず、わさび市の人たちの多くがそうなのだが。
 ここでくどくど説明してもしょうがないので、さりげなく話題を変えようと思案していると、ガラガラと店の入口が開く音がした。
「香芝さん、やっぱりこがでしたがぁ。最近、こがあたりの蕎麦屋に昼はよく来られちょうって聞いたけん、今日あたりは『木の芽』かと思ったら、当たりましたがぁ」
 いいタイミングで山口が現れたので、これ幸いと、香芝は身体ごと入口の方を向いて機嫌よくしゃべりだした。
「冬の間は、蕎麦屋さん、みんな休業してますからね。やっと食べられると思って。それに、いろいろ、相談してたんですよ、ね、杉本さん」
 話をふられた店主の杉本が、山口に向かって意地悪そうに、にやりと笑った。
「そがですがぁ。里山蕎麦のウエブサイトとパンフレット作らんかって、言ってくれとりますけん、今は、香芝さんは忙しいがぁ。だけん和尚、邪魔せんでごせ」
 杉本の突き放すような物言いにもめげず、山口は香芝の横に腰かけると、ざる蕎麦大盛りを注文した。
「邪魔とは人聞きが悪いがぁ。そがですがか、蕎麦を売り出しますがか。それは調度よかったがぁ。実は、泥落としも終わったけん、そろそろ、夏場になんかできんか、考えてたんだがぁ、思いつかんけん、香芝さんに相談しようと思ったがぁ」
「香芝さん、泥落としまだみたいですがぁ」
 内村が横から口を挟んできた。
「そがですがか。あ、ちょうど里山荘のトンビの旦那がチラシを置いて行ったけん、香芝さんにあげますがぁ」
 そう言いながら、山口はジャンパーのポケットから四つに折りたたまれたA4版のチラシを、にこにこしながら香芝に手渡した。
 一度、この町から都市部へ出たことがある山口なら、香芝が泥落としなんて知らないことはたぶん承知しているはずだ。
 わざとだな…。香芝の胡乱な目付きを物ともせず、山口は素知らぬ顔で蕎麦茶をすすっている。
 話題を変える作戦が見事失敗したので、仕方なく、ため息をつきながら、のろのろとチラシを広げてみた。

『田植えの後のお楽しみ!今年も泥落としは里山荘で。』

 太い丸ゴシック体で、でかでかと書かれたキャッチコピーの横に、じじばば、オヤジオカン、若い夫婦、小さな子供の一家が、並べられたご馳走の前で、グラス片手に大口を開けて笑っている写真が貼り付けられている。

『温泉で泥と疲れを落とした後は、料理長自慢の会席料理に舌鼓!ご一族、ご町内お揃いで、和気あいあいのひとときを。
里山荘泥落としプラン(温泉入浴付き会席プラン)。五名様以上でお一人様三千八百円。飲み放題は追加千円。早乙女プランはお一人様二千八百円(デザート付き)。いずれも税サ込。』

「この早乙女プランってのはなんですか?」
 香芝がチラシの最後の行を指差して訊ねた。
「まあ、今風に言うなら女子会ですがぁ。苗を植える女の人のことを早乙女って言うただがぁ。今ではみんなババアだけん、女子会ちゅうよりお婆会ですがか、ガハハ」
 とりあえず、話を合わせて一緒に笑っておこう。
「ところで山口さん、夏場に何かしたいっておっしゃってましたっけ」
 香芝は気を取り直して、蕎麦団子に爪楊枝を突き刺しながら、今度こそ話題を変えた。
「そがそが。夏には街へ出たもんが帰省してくるけん、今年の里山はいつもと違うっちゃあもんを見せつけてやろうと思うがぁ」
 山口はめずらしく熱い口調で、香芝ににじり寄った。
「内輪ウケっていうのはどうかと思いますが、確かに帰省に限らず、夏休みに向けて、何か仕掛けたいのは事実ですね」
 飛沫が入りそうなので、蕎麦団子を持ったまま、香芝は身体を引いた。
 山口はそんなことを気にする風もなく、さらに身を乗り出し、人差し指を香芝に向けて忙しく振りながら、熱を込めてしゃべりだした。
「そがだがぁ。盆踊りだけっていうのも毎年のことですけん、『雪のあかり』みたいな洒落たもんができんですがか」
 香芝は団子を口に放り込み、もぐもぐしながら、手元の泥落としプランのチラシに何気なく目を向けた。
 しばらく物思いにふけて動きを止めると、ふっと、何かを思いついたように顔をあげた。
「里山の温泉って、源泉温度は低かったですよね」
「そがですがぁ。確か、三十六度くらいだったがぁ。冬場は沸かしとるがぁ、夏の昼間はぬる湯のまんまですがぁ。案外、これが気持ちええんですがぁ」
 テーブルに片肘をつきながら、うれしそうに山口が解説すると、内村も「そがそが」と頷いている。
「夏の疲れをぬる湯で癒す…か」
 香芝が宙を見ながらぼそりと呟いた。
「何か、ええアイデア、でましたがか」
 山口が期待の眼差しを向けた。
「風鈴、ぶら下げましょうか」
 香芝が口元をにんまり引き締めながら、ゆっくり山口を見た。
「風鈴?それだけですがか」
 山口があけっぴろげに期待外れな顔をした。
「百個とか二百個とか。町中に、ぶら下げられるところはとことんぶら下げて。風鈴の音色とぬる湯の温泉で夏の疲れを心身ともに癒してもらうという企画で『おんせんdeふうりん』ってのはどうですか」
 香芝が、チラシの裏側に『おんせんdeふうりん』と書いてみせると、山口と内村が覗き込んだ。そこにざる蕎麦大盛りを運んできた杉本も加わった。
「風鈴が連なる風景を眺めて、ちりんちりんいうとる中で温泉につかって、蕎麦食って帰る。ええがぁ。ここらは夏でも風があるし、風鈴もよう鳴るがぁ」
 めずらしく愛想のいいことを言う杉本を見ながら、山口は口をすぼめた。
「なるほど。連なる風鈴ですがか。数がありゃあ、確かに見栄えはするかもしれんがぁ」
 山口もだんだんと乗り気になってきたようで、うんうんと頷きながら、目の前に置かれたざる蕎麦大盛りに箸を伸ばした。
「そういえば、こないだ、百円ショップに透明ガラスの無地の風鈴が売ってましたけん、それなら安くてできますがぁ」
「内村君、いいコト言うねえ。でもどうせなら絵柄がついてる方が綺麗ちゃうか?」
 香芝が意地悪く突っ込むと、内村は眉を下げて口を尖らせた。向かいで蕎麦をすすっていた山口が、箸をおいて、テーブルをぽんと叩いた。
「無地風鈴に、公民館で子供らに絵描かせたらええがぁ。そんなら地域みんなの取り組みになるがぁ」
「なるほど。おもしろいかもしれません」
 蕎麦と温泉をセットで売り込む。なかなかの妙案に満足した香芝は、蕎麦湯の入った蕎麦猪口を口元に運んだ。
 横では山口が懸命に蕎麦をすすり、その向かいの内村は追加の蕎麦がきを注文した。
 厨房では、もわもわと立ち込める蕎麦の香りの湯気の向こうで、杉本が三人の様子に目を細めていた。

 その頃、わさび市役所の観光課では、課長の竹原が相も変わらず不機嫌そうな顔をしていた。
「香芝さんはまた、里山に行っちょうがか。内村まで引き連れて」
 独り言のような愚痴に、すかさずすり寄ってきたのは課長補佐の郷田だけで、他の職員たちは、できるだけ目を合わさないよう、理由なくパソコンのキーボードを叩いたり、コピーをとったりしている。
「なんか、蕎麦屋めぐりをしとられるみたいですがぁ。いったい何を考えとられるか、ようわからんですがぁ」
 郷田は貧相な身体を折り曲げて、揉み手をしながら竹原の右横にへばりつくように立った。
「まったくだがぁ。こないだの雪のなんとかも成功だがいうても、たかだか一晩だけ、二千人ほど呼んだだけだがぁ。焼石に水っちゅうもんだがぁ」
 竹原は吐き捨てるように言うと、鼻毛を抜きながら口をへの字にゆがめた。
「あがなことくらいで、里山がなんとかなるわけないですがぁ」
 郷田は、鼻毛を抜く竹原の右手を注視しながら、さりげなく左側に移動した。
「それでも里山じゃあ、大騒ぎだがぁ。このまま調子に乗られたら、ますます市の職員をこき使われるがぁ。あげくに、市は今まで里山の活性化を何もしとらんかったっちゅう話にでもなったらこっちのメンツは丸つぶれだがぁ。それではやれんがぁ。郷田、何とかならんがか」
 鼻毛を抜いた右手で竹原に掴まれかけたので、郷田は半歩後ろに下がり、そばにあったポットで急須に湯を注いだ。
「確か、香芝さんの契約は二年でしたがぁ。あと一年きりましたがぁ」
 湯呑に茶を注ぎながら、郷田は意味ありげな笑みを竹原に向けた。
「一応、結果もだしとるけん、更新できんとは言えんがぁ」
 竹原は郷田の差し出した湯呑を手にしながら鼻に皺をよせた。
「ようは香芝さんが再契約せんて言えばええですがぁ」
 湯呑を口にしようとしていた竹原が郷田の方を見て「その手があるがか」とつぶやき、右手で郷田の腕をしっかりとつかみ、隙っ歯の口元をかぱりと開いて笑った。
 郷田は掴まれた腕を凝視し、一瞬たじろいだが、ぐっと目と口をかみしめるように閉じると、観念してめいいっぱいの愛想笑いを返した。 
 ふぉふぉふぉふぉふぉ…
 嫌な笑いの合唱が響く中、他の職員たちは何も聞いていないふりをしていた。
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