第14話

文字数 6,127文字

 山陰の梅雨は辛気臭い。
 梅雨どきはどこもじっとりしているものだが、ことさら山陰の梅雨はじっとりなどと生易しいものではない。
 雨が降らない日は、朝から濃い霧が立ち込めて数メートル先も見えなくなる。
 色を失い、灰色に包まれた町の様子を初めて目の当たりにしたとき、美香は「この世の終わりや~」と驚愕した。
 里山町に至っては、そこにあるはずの里山岳が忽然と霧の中に消え、草原広場をつっきる直線道路も、この先に道が続いているのか不安にさせられる。
 梅雨の間に準備できることをはじめようと里山町の公民館の体育館では、その日、昼過ぎから地元の子供たちに交じって美香が風鈴の絵付けに励んでいた。
「美香さん、絵心ありますがぁ」
 透明ガラスの風鈴に、赤い油性マーカーで小さな金魚を器用に描いていた美香の手元を覗き込みながら、山口が感心した。
「一応、芸大でてますねん。大阪にいたときは、グラフィックデザイナーをやってたんです」
 美香は、ちょっと照れながら言い訳するみたいに言った。
「そがですがか。こがなとこだと、そがなカタカナの仕事もないけん、つまらんでしょうがぁ」
 金魚のまわりに、細い緑のマーカーで水草を描いていた手を休めて、美香はふうっとため息をつき、窓の外を見た。
 午前中の雨は一時休戦のようだが、あたりはじっとりとした霧に覆われている。灰色の背景に黒の濃淡だけで浮かび上がる木々や山々の風景は、水墨山水みたいだと思った。
「最初は、なんか仕事でも見つけてって思ってたんやけど。なかなか、コレっていうのをよう見つけられへんかったんで、ちょっと退屈っちゅうか、なんかぽっかり穴が開いたみたいな気分になっとったんです。せやから、今回は、こんなん手伝わしてもろて、うれしかったんですわ」
「そがですがか。確かに、こがあたりですぐにできる仕事ゆうたら、カマボコ工場くらいですがぁ」
「それはそれで、面白そうですけど、魚、さばいたことないしねえ」
 口元は笑っているのに目が悲しそうな複雑な表情で、同じように窓の外に目を向ける山口を見ていると、美香は手元の風鈴にマーカーをあてながら、懺悔でもするようにぽつぽつと話し続けた。
「うちは子供もいやへんし、仕事もせんと家でじい~っとしてたらヒロちゃん帰ってくるまで誰ともしゃべれへんでしょ。ほんなら、今までのこと、大阪で毎日、忙しいしてたこととか思い出して、好きな仕事やったし。まあ、十のうち楽しいのは一か二なんやけどそれがまた、やりがいあるっちゅうか。ほんならなんで辞めてんって話やけど、あの時は、まあ、どこぞでなんか、また楽しいことも見つかるって思ったんやね。でも、失ってしもてから、ああ、あんときが一番よかったんやなあって。ないもんねだりみたいに思うんかなあ。そんなら、自分の人生のピークはもう終わったんとちゃうやろか、この先は、ずるずるだらだら、三十年、四十年てすぎていくだけなんやろかって考えたら、もう、明日死んでもええかなとか思うんですよね。そのほうが短い人生やったけどおもろかったって思えるんとちゃうかて。あ、そんなびっくりせんといてください。ちゃいますよ、別に、死にたいとか、死んだろかとか思ってるんとちゃいますよ。なんて言うんかな。別にもう生きてんでもええんとちゃうかなって思うんです。自分なんか、グラフィックの仕事のうなったら、ただの役立たずやんって。そんなん生きてる意味ないよなって。これってちょっと病んでますよね」
 美香の話を聞いた山口が、みるみる青ざめていくのを見て、美香は肩をすくめておどけた表情で取り繕った。
「なんやすんません。いやあ、この霧に包まれた辛気臭い、いや、あの、幻想的な風景を見てると、ついつい愚痴っぽいこと言ってしまいましたわ。ヒロちゃんには言わんといてくださいよ。今は、ほれ、けっこう楽しんでますから。ね、和尚さん」
 美香が出来上がった風鈴を差し出しながら笑いかけたが、山口は俯き、黙り込んだままだ。
 手に吊り下げた風鈴の、水草の間で気泡を吐き出しながら遊ぶ金魚たちが、ちりんと鳴いた。
 山口はゆっくりと顔をあげると、金魚を見て、美香の顔に視線を移し、また俯いて、観念したように口を開いた。
「その気持ち、ようわかりますがぁ。自分もそがでしたがぁ。二年ほど前まで、広島の食品メーカーに勤めとったんですがぁ、身体こわしてしもうて、ヨメも地元のもんですけん、子供連れてUターンするがって、帰ってきたんですがぁ」
 とつとつと語りだす山口の様子をじっと見守りながら、美香は風鈴をテーブルにそっとおいて神妙な顔をした。
「最初は、帰ってきたらまわりのもんも喜んでくれて、こが仕事にすぐにつけて、自分もよかったって思いよったんですがぁ。よっしゃ、僕がこが寂れた里山町を再生しちゃあけんって、張り切っとりましたがぁ。でも、現実はそがに甘くはないですがぁ。こがなとこ、どがしようもないがぁ、誰も期待しとらんがって、すぐにわかりましたがぁ。そうなったら、広島でのことが懐かしい思えてきて、確かに忙しくて死にそうだったけど、毎日、必要とされとったですがぁ」
「あ、その必要とされてるって、大事なんよね。せやねん」
 つい同調して口を挟んだ美香は、余計なことを言ったとばかりに口元を手で押さえ目で謝ったが、山口は同志に対する眼差しを向けながら、うっすらと笑みを浮かべた。
「一緒にこの町をでて、都会でばりばりやっとる連中が、盆や正月に帰省しちゃあと、顔を会わせるのが辛かったですがぁ。みんな身体こわしたんなら仕方ないがぁ、ゆっくりしたらええがって言いよるけど、腹んなかじゃあ、こいつクスブリやがったって、思っちょうに違いないって、ヘンな被害妄想にとっつかれるんですがぁ」
 山口は自嘲の笑いを浮かべ、鼻の頭を掻いた。
「あ~、それ。わかるわ~。せやせや。みんな、田舎暮らし憧れるわあ、うらやましいとか言うけど、腹んなかでは、美香はすっかり都落ちやって思ってるに違いないって、勝手に一人でへこむんですよ」
 興奮して手をバタバタしながら口を挟む美香につられて、山口はどんどん饒舌になっていった。
「でも、ヨメさんは地元に帰れてよかった、やっぱり都会暮らしはしんどかったって言っちょうし、子供らはすぐに近所と馴染んで、すっかり里山っ子になっちょうし、こがなこと、誰にも言えん、言っても理解してもらえんって思ったら、そがこそ、もう、いつ死んでもええがぁって。あ、別に自殺願望じゃあないですけん。そう、まさに、生きとらんでもええがぁって。自分の人生のピークは終わってしもうたがぁって」
「人って、案外、そういう理由で死んでまうんかなって考えませんでした?」
「そがですが~」
 二人はすっかり陰気な話で意気投合し、盛り上がってきた。知らず知らずに暗い語り口調から、ピクニックの計画でもしているような、弾む会話になっている。
「なんか、こう、社会との繋がりがなくなったっていうか、取り残されたっていうか、見捨てられたっていうか」
 美香が懸命に言葉を選んで、考えを伝えると山口は大きく頷き「そがそが」と同意する。
山口の反応に気を良くして、美香もまた饒舌になる。
「せやけど、ときどき、浮上するでしょ。あかんあかん、死んだらあかん。何、考えとんねん、ちゃんとせいって」
「そがですがぁ、誰のせいでもない、自分で決めたことだけん、甘えとったらいけんだがぁって」
「せやせや。そんなときは、こう、ものすごいギャグが冴えてきて、なんか今日はご機嫌やなあとか言われたりして」
「そがそが。でも、一人になっちゃあとき、急に空気が抜けたみたいになって、なんとも暗~い気分になってくるがぁ」
「せやせや。いっそ、日本海に飛び込んだろか、とか思ったりする」
「そがそが。でも、水飲んで死んだら苦しいに違いないだがぁ、わざわざ苦しいのはごめんだがぁ」
「せやせや。やっぱり死にたいわけとちゃうねん」
「そがそが。生きとることがしんどいんだがぁ」
「せやせや!」
「そがそが!」
「せやせや!」
「そがそが!」
 祭りの掛け声のような合いの手を入れながら、二人は毒を吐ききり、なぜだか無性に可笑しくなってきた。
 そのうち、憑き物が落ちたように顔を見合わせてのけぞり、大声で笑った。
 風鈴の絵付けをしていた子供たちが、遠くから不思議そうに、陽気な大人二人を眺めている。
 人の気鬱の原因は様々である。盲腸になったことのない人が盲腸の痛みがどれほどのものかわからないように、自分の痛みを他人に理解してもらうのは難しい。
 まして、見た目にも大けがではない場合はなおさらである。
 しかし、小さな傷を放っておいて、取り返しがつかないほど化膿することだってある。だから、なんとか、小さな棘を抜こうとするのだけれど、自分ひとりでもがけばもがくほど、棘はどんどん奥深くに突き刺さり、どうしようもなくなってしまう。
 そんなとき、同じような痛みを持つ人と出会うことができたなら、幸いである。根本的な解決には至らなくとも、相手を通して自分の傷と向き合うことができる。どんなにつらいことでも、誰かに理解してもらえるだけで、人は案外救われるものだ。
 二人は同時に黙り込み、同じようなことを考えた。
 自分はいったい、何が辛いのか、何に悩んでいるのか、それを見極めるのは難しい。けれども、ちゃんと自分の現実と問題点に向き合わなければ何も解決しない。過去にかじりついていても未来は見えない。
 社会から取り残されたと思っても、社会は歩み寄ってきてくれない。だから、自分の足で、一歩ずつでも、近づいて行かなければならない。その道を模索しなくては始まらない。
 手探りでもいい。まずはやみくもに、もがいてみるのもいいかもしれない。もがいたその手に、たまたま何かが当たることもあるかもしれない。
 一瞬、抜け殻のようにぼんやりしていた美香は、賑やかな笑い声に引き戻された。山口が、子供たちとじゃれ合っている。
 子供たちが絵付けした風鈴を手にして、ほめたりからかったりしている山口の横顔にうっすらと光が当たっていることに気付いて、窓に目を向けた。
 いつのまにか霧がはれている。さっきまでの陰気な世界は、夢かまぼろしか。思わず目をこすった。
 雲の隙間からこぼれた光線の筋が数本、山の稜線を照らしている。人里と山頂を結ぶ大きな虹がくっきりと色鮮やかに浮かび上がっている。
 薄日が降り注ぐ木々は、淡い緑色に染まり、光を浴びて輝く水滴がぽたり、ぽたりと滴る。その木々の間を、橙色の腹をした小鳥が、陽気にさえずりながら飛び交っている。
 どんな巨匠にも描くことができないであろうこの風景を見ていると、なんと人とはちっぽけなものだと、美香は思った。

「館長さん、和尚さん、美香ちゃん、さようなら~」
「はい、さいなら。気をつけて帰るだがぁ」
「今日はみんなありがとう。また来週、きてごせ」
「またね~」
 日が暮れる前に、今日の作業はお開きとなり、三人は手を振って、ぞろぞろと公民館を後にする子供たちを見送ってから、事務室で茶を飲んでいた。
「美香ちゃん。今日はごくろうさんだがぁ。よかったらどうぞ」
 見山は美香の向かいに座ると、うれしそうに高木菓子店の蕎麦饅頭を差し出した。
「ありがとうございます。これ、おいしいですよね」
「わしの好物だがぁ」
 美香が饅頭の包装紙をとかぬまに、見山はすでにふたつめに手をのばしていた。
「館長、甘いもんばっか、食べすぎはいけんですがぁ」
 茶を淹れながら見山をたしなめる山口の方を振り返った美香は、事務室の窓の外でうごめくものを見た。
「ひゃ、和尚さん、館長さん、外になんかいます。狸ですかね」
 美香はわくわくしながら窓辺へそうっと近付いた。
「また、狸がか。懲りん連中だがぁ」
 山口は机の引き出しから威嚇用の爆竹を取り出して窓の外を見た。
「ん?あれはアナグマですがぁ」
「アナグマ?そういえば、狸より顔が細長くて、鼻の頭が黒っぽいような。ちょっとイタチっぽいかな。あ、こっち向いた」
 アナグマはしばらく、窓にへばり付く美香の方を見ていたが、興味なさそうにまた地面に鼻を押し付け辺りをうろついている。
「アレは悪さをせんけん、しばらく遊ばしておくがぁ」
 山口は慈愛に満ちた顔で爆竹を引き出しに戻しながら言った。そんな山口の様子を、見山は目を細めながら見て、饅頭を口に放り込んだ。
「美香ちゃん、ほんまに今日は、ありがとうございましたがぁ」
「いえいえ。まだ百個くらいしかできてないですよね。また、次も来ます」
 見山の改まった礼に、美香は恐縮しながら手をぶんぶん振った。
「次は来週にまた子供らを集めますけん、そんときもじゃあ、お願いしますがぁ」
 自分の湯呑を手にしながら見山の横に座った山口も饅頭を口に放り込んだ。腰を据えた山口に向かって美香が、
「山口さん、今年の夏は、みなさんが帰省するまでに、盛大に風鈴吊るしましょね」
と話しかけると、山口は口をもぐもぐさせながら、「たのんますがぁ」と返答した。そんな二人のやりとりを眺めていた見山は、垂れた目尻を細めて顔をほころばせた。
「香芝さんたちが来てごさって、ホントによかっただがぁ。里山のためにも、山口のためにものぉ」
 訳知り顔で二人の顔を交互に見る見山の態度に、山口は気まずそうに鼻をこすった。
「もしかして、聞いとられましたがか?さっき美香さんと話してたこと」
「笑いながら死ぬだが死なんだが、せやせやそがそが言う声が合唱みたいに聞こえてきたら、気持ち悪いだがぁ」
 見山は何食わぬ顔で茶をすすった。
 二人はいたずらが見つかった子供みたいに、首をすくめて上目遣いで見山を見た。老人はそんな二人を労わるように、優しい眼差しを向け、おどけた調子で言った。
「でも、山口の様子が変だがぁってことは、ずっと前から気付いとったがぁ。おおかた、そがなことだと思っとったけん、去年の夏の終わりに香芝さんが訪ねて来てごさったときは、ええきっかけになればて、思いよっただがぁ」
「ご心配、おかけしましたがぁ」
山口は、ばつが悪そうに身体を縮めて頭を下げた。
「わしだけじゃあ、ないがぁ。マコも、勇次もリュウも、みんな心配しとったがぁ。リュウなんかは、和尚のあれはノイローゼだけん、いっぺん、クマ狩りにでも連れてっちゃあかあって言っとったがぁ」
「あ、危ないとこでしたがぁ」
 苦笑いする山口に、見山が意地悪そうな口調で言った。
「いやいや、まだ治っとらんかもしれんけん、クマ狩りで完治させたほうがええかもしらんがぁ。そうだが、美香ちゃんも一緒に行ったらええがぁ」
「んなアホな」
「治る前に死にますがぁ」 
 美香と山口が口ぐちに叫ぶのを見て、見山は満足げにがははと笑い「あんたらは真面目すぎぃだがぁ」と、二人の頭をくしゃくしゃとなでたおした。
 なでられる頭を左右前後にぶんぶん振られながら、美香は、今度、水墨画に挑戦してみようと思った。
 草陰で遊んでいたアナグマが首をひねって振り返り、賑やかな部屋の様子に興味をひかれて、しばらく鼻をひくつかせていた。
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