6 師を無数に択ぶ

文字数 3,296文字

6 師を無数に択ぶ
 日本料理を賛美しているからと言って、魯山人はたんなる伝統回帰論者ではない。彼は徒弟制に対して否定的である。魯山人は、『青年よ師を無数に択べ』(1953)において、「私はこの古い昔の人達の遺した作品を師と仰げと言うのである。何を戸惑して今時の先生から芸美を学ばんとしているのか。束縛を受けながらも一人の先生に師事して学ぶ要のあったのは、過去の事である。古美術が遺っている。写真製版が世界中の美術を観せてくれる。活字がありとあらゆることを教えてくれる世の中となっている。一人の師を仰ぐ要は無くなっている」と言う。魯山人はよい芸術は徒弟制からよりも、私淑して過去の作品から学ぶこと、すなわちテクスト・クリティックから生まれることを提唱している。それは芸術に向かうものに「自由」を与えてくれる方法論である。

 魯山人は、『私の作陶体験は先人をかく観る』において、芸術に必要なのは「自由」であると次のように述べている。

 人の悪口を言って悪いようですが、近ころは民芸派という一派がありまして、これが何でも民芸に限るということを主張をするし、したがるのである。しかし、どんなことでも何に限るということは、めったに言えたものではない。そんなことを言うと、そういうことに捉われて自由がきかなくなる。イデオロギーというのは、あるものによってはいいことでしょうが、もっと視野を広くして、自由自在の振舞いが出来るのがいいと思うのです。茶碗はのんこうに限るというようなことを言うのは、夕顔棚に体を縛りつけて涼をとらんとする人のようだと私は思うのです。夕涼みというものは、素っ裸でむしろの上に寝ころんでおるから涼がとれる。自由だから涼がとれる。しかし、なんぼ夕顔棚の下でも、イデオロギーに縛りつけられておったのでは、まず涼はとれぬのじゃないか。だから、そういうものに縛られないように、自由な境地に自分を置くことが必要だと思うのです。

 日本の陶芸家は、通常、一つの技法しか習得しない。それを磨きあげていく職人的姿勢が評価される。一方、魯山人はさまざまな芸術にとりくむ。それは、彼が一つのものに縛られることを拒んだから、すなわち「自由」だからである。芸術は、「夕涼み」のように、快であるので、「自由」なくしてはよい芸術作品など出現し得ない。「イデオロギー」に縛りつけられたプロパガンダ芸術など「自由」を欠いており、最初から芸術作品としては失格だ。

 だが、「自由な境地に自分を置くこと」には、芸術家個人にはどうすることもできない限界がある。それは歴史である。魯山人は、『私の作陶体験は先人をかく観る』において、「それからもう一つは時代の問題である。木来でも、頴川でも、道八でも、室町時代に生まれていたら、周辺の環境がいいから相当いいものにしたに違いない。徳川末期になって来ると周辺の環境が悪いから、浮世絵を除いたら何もありはしない。狩野派の絵描きなどは、問題にならぬでしょう」と言っている。芸術において個人の力は、確かに、必要ではあるが、「時代」がよくなければそれは十分に発揮されない。「自由」が達成されている時代でなければすぐれた芸術は生まれない。すぐれた芸術が生まれたということは「自由」がその時代には実現されていたことを表わしている。いかによい「自然」に恵まれていたとしても、「自由」のあるよい「時代」がなければ、よい芸術は出現しない。

 ヘーゲルは、『歴史哲学』において、「世界史とは自由の意識の進歩を意味する」と世界史の発展の研究に関して次のように述べている。

 前に述べたように、世界史は自由の意識、自由の精神の発展と、この意識によって産み出される(自由の)実現の過程とを叙述する。発展は段階的な行程であり、事物の概念から生ずる自由の諸規定の全身的な系列であるという意味をもつ。概念一般の論理的な本性、一層立ち入ったいえば、概念の弁証法的本性、すなわち概念が自分自身を規定し、諸規定を自分の中に措定するとともに、またこれらの規定を再び止揚し、この止揚を通して肯定的な、しかもさらに豊富な、ヨリ具体的な規定を獲得するということ、──この必然性と、純粋な抽象的概念規定の必然的系列は、論理学の中で叙述される。われわれは、ここではただ、(発展の)各段階が他の段階と異なるものとして、それぞれ特有の原理をもつということを指摘しておくにとどめる。このような原理は歴史の中では精神の規定性であり、──それぞれの民族精神である。歴史の中では民族精神は具体的なものとして、その意識と意欲、その全現実性のすべての側面を表現する。すなわち、その宗教、その政体、その人倫、その法律組織、その慣習、及びその学問、その芸術、技術的技倆などは共通の原理である民族精神の封印を帯びている。それで、これらの特殊的なものは、この一般的特性、すなわち民族の特殊的原理から理解されるが、また逆に歴史の中に現われる個々の事実を通して、この特殊性の一般的原理が発見されなければならない。一定の特殊性が実際に一民族の特有の原理をなしているという点は、経験的につかまれ、歴史的に証明されなければならないものである。もっとも、そのためには、熟練した抽象の能力のあることが前提されるとともに、またすでに理念を熟知していることが前提される。つまり、研究者は、問題の原理の含まれているその領域を、いわばア・プリオリ(先天的)に熟知していなければならない。

 世界史は「自由の意識の進歩」であり世界史研究はその原理を認識するものだという彼のヴィジョンの真偽を問うことは見当はずれである。「いかなる民族といえども倫理的に自滅する権利はもっていない。革命が民族の果たすべき義務となったときにそれを成し遂げる倫理的な力をもたぬ民族にこそ禍いあれ」(テオドール・リップス『倫理学の根本問題』)。ヘーゲルは、『歴史哲学』において、「この講義の対象は哲学的世界史である。いいかえると、われわれは世界史からして、世界史に関するいろんな一般的反省を引き出そうとしたり、また世界史の内容を例として、世界史に関する一般的反省を説こうしたりしようとするのであるが、この対象はそんな世界史に関する一般的反省ではない。むしろ、それは世界史そのものである」と述べている。彼は世界史をある諸原理からあくまでも演繹的に考察するフィクションの一種であることを意識している。かりにこの原理を置き換えるならば、別の始まりと終わりに規定された世界史が導き出される。

 だが、ヘーゲルが「自由」を原理としたことには哲学史的な必然性がある。レオンハルト・オイラーの「ケーニヒスベルクの橋」という一筆書きの問題で知られるケーニヒスベルク出身のカントは、『純粋理性批判』において、古代ギリシア以来の「世界とは何か」という問いを四つに整理して、超越論的理念の四つの自己矛盾としてそれらの証明の不可能性の証明を提示している。それはちょうど、古代ギリシアの三つの難問と呼ばれた問題――「コンパスと定規を用いて、与えられた任意の角を三等分せよ」・「与えられた任意の正立方体の二倍の体積を持つ正立方体を作図せよ」・「与えられた任意の円と同じ面積を持つ正方形を作図せよ」――がその不可能性を証明することによって、19世紀になって、解決したようなものである。

 「ケーニヒスベルクの橋」問題とは1700年代のケーニヒスベルクを流れる川に七つの端が架けられており、同じ橋を二度通ることなく、すべての端を渡るにはどうしたらいいかというもので、オイラーがこれを解いたことによりトポロジー(位相幾何学)が始まる。図形の持つ量的側面──長さや面積、体積、角度──を取捨して、質的側面に注目すれば、パイプとドーナツ、コーヒー・カップは同一であるというトポロジーの発想は、カントの「共通感官」に近い。その上で、カントはこれまでの哲学的議論の証明不能を宣告し、思弁的問題に知的努力を費やすこと以上に、「自由」の問題を論ずることを説いている。

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