5 人間の問題

文字数 3,483文字

5 人間の問題
 魯山人は、『日本料理の要点』において、「料理」は「人間の問題」であると次のように述べている。

 頭もなし、知恵もなし、修養もなし、天才もなし--と言った料理人が、今日、料理でもって飯が食っていられるというのは、つまり、彼らよい頭脳の持ち主が、みずから料理づくりに頭を振り向けないからの僥倖である。幼稚な人間がつくった料理、それを幼稚でない人間が口にしているのである。ここに思い至れば、すでに主客の調和を破っている無謀に、恥ずかしさを感じないではいられないではないか。だから、故井上馨候のような趣味に嗜好に至らざるなく精通した食通、料理づくりにまで通じた人であっては、他人に料理をまかしておくことができないのは、当然のことである。
 またまた人間の問題に陥ったが、小生自身が、古人のいわゆる「文は人なり」と喝破されたことに一にも二にもなく同感するものであるがゆえに、料理づくりにおいても、もとより人であると深く信ずる。話はややもすると、人間の問題に帰納するが、とにかく、料理は複雑であって単純ではない。上中下の生活者個々に美食として満足を得せしめるには、上中下三段の料理を、ことごとく知らなければならないのはもちろん、この上中下三段の相手を向こうにまわして、しかも、時と場合による適宜の処置を誤らないコツを心得なければならない。

 魯山人にとって、「料理」はトータルに「人間の問題」である。人間に関する認識を深めていくことによって、料理についての知識や理解もより高い次元へと発展していく。「料理」がより高い次元へと発展していく契機を持っているのに対して、「割烹」にはそれがない。人間の物事の認識に基づいた「料理」とはそういうプロセスの深まりであり、概念的な運動がある。「料理」は素材に対する認識の論理、それに自分自身に対する認識の論理を経て、「自然」に対する認識の論理と発展していくプロセスそのものだ。素材を深く知っていくとき、と同時に、自分自身や自己と「自然」との関係に関する知識がいっそう深まっていく。客を罵倒したり、気にいらなければ仕事をしなかったりするような料理人は、料理人の存在の本質的な意味をとらえるのにいたってはおらず、認識が浅く、料理人としてなど最初から失格だ。

 人間はそうした社会的な存在としての自分自身を「修養」と「学問」の二つの契機によって自覚する。「修養」は自分の生が必然的に社会の多くの他の人間との関係によってのみ可能であることを教える。また、「学問」はさまざまな人間の広がりと営みの意味をよりよく告げる。「修養」と「学問」を深くつんで、物事に関する認識を深めていくと、人間がなぜ、またどのようにこの自然と必然的な関係を持っているのかという深い理由が自ずと「理解」できるようになる。その認識に基づいてつくられた料理は「自然」に近づいていく。

 魯山人は、『日本料理の要点』において、日本料理における調味料の少なさの理由をそれが自然に近いからだと次のように述べている。

 料理通のひとりであるという桜井という工学博士は、歳七十にも余る人であったが、かつての文藝春秋社の催した食物についての座談会の席上、私たちに向かい、「日本には調味料、補助味の類が、ほとんど発明されていない」と言って、さも見くびったように慨歎されたのであったが、それは日本が文明に遅れているためでもなければ、科学に無能なためでもないのである。その国の食品補助味や調味料が数少ないというのは、その国の食品原料が美味であることを物語るものであって、桜井博士が誇りがましく言いわれる西洋料理に調味料、補助味の豊富なことは、とりもなおさず、西洋の食品原料が素質で、その持ち味に欠けるところがあるためにほかならないことを、端的に物語るものなのである。

 よい素材を選び、それに手を加え、そこから「自然」の持つ隠れたものを合理的に引き出すことが料理だとすれば、始まりと終わりは相互に依存し、潜在的に同一である。「結果が始まりと同一であるのは、始まりが終わり(=目的)であるからにほかならない」(『精神現象学』序文)。料理は「自然」をめぐる一つの生成運動であり、「自然」の真の完成こそが料理である。日本料理において調味料が、他の世界の料理と比べて、発達しなかったのは、それが最も「自然」に近いからで、日本料理が未熟だからではない。日本料理が「自然」に近いのはすぐれた「自然」に根を持っているからであり、「自然」に近いがゆえにそれは調味料を必要としない。料理の素材は「自然」のものであるから、料理は「自然」に近づくことが目的である。従って、日本料理とは料理の完成にほかならない。

 言うまでもなく、魯山人の反論は思いこみにすぎない。実際には、室町時代の日本料理はさまざまな香辛料を使っている。文化論は、その持続性を強調するため、展開されがちである。歴史的遡行は現在の自明性を相対化する。日本料理は歴史的に一つの姿だけで続いてきたわけではない。それを承知した上で、魯山人の主張にしばらく耳を傾けよう。

 魯山人の合理主義は「自然」にある原理を見出すことである。魯山人は、『私の作陶体験は先人をかく観る』(1953)において、「どんなものだって人間が作ったものであります以上、作為のないものはない。(略)その作為が何を物語っているかが問題であります。ただいい作為と悪い作為と二種ありますから、いい作為をもっておるものが名作となる、こういうことだと私は信じておるのです」と言っている。「調味料、補助味の類」を用いることは「自然」が基づいている法則を歪曲してしまうにすぎない。「自然」の法則を発見し、それを料理として実現するとき、その料理は合理的なものに仕上がる。「自然」の合理性が料理の合理性である。「その国の食品補助味や調味料が数少ないというのは、その国の食品原料が美味であることを物語る」と言っているように、「食品補助味や調味料が数少ない」国の「自然」は「自然」の原理が発見しやすい。「自然」の原理を見出しにくい国では「調味料、補助味の豊富」になってしまう。料理は「自然」の原理のミメーシスだ。日本料理はこの「自然」の原理を最も引き出している。それは、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」(ヘーゲル『法哲学』)ということだ。

 ヘーゲルは現実を目的から見ることによって、そこに合理性を見出す。さまざまな可能性がありえたにもかかわらず、その中の一つが現実となったことの合理性を確認する。彼にとっての合理性は思弁的なものではなく、現実的なものだ。しかし、無批判的な現状肯定論者ではない。ヘーゲルにおいて現実にあるものすべてが理性的ではなしに、現実的なものは偶然的なものを除去した理性的法則に貫かれている本質的なものを意味している。魯山人の思考がヘーゲル的であることは、こうした「自然」と「合理」に関する認識からも強調されよう。

 魯山人の主張は、すでに述べたとおり、恣意的である。確かに、戦略的な日本料理擁護論であるが、無批判的に受容することなどできない。

 食事はしばしばアイデンティティを表わす。人は何かを食べる、あるいは食べないとすることで、自分、もしくは自分の属する集団と他を区別することができる。身近な例で言えば、食事は出身地や経済状況を表わす。雑煮が地域によって異なっていることはよく知られている。また、戦後の経済成長につれ、日本の食生活がいわゆる欧米化している。所得が倍になって、米も倍食べたいと人は思わない。

 近代以前のキリスト教徒は、肉食のユダヤ教徒との差異化のため、魚食と自らを規定している。また、イスラーム教徒は豚肉を食べない人たちと象徴的に理解されている。さらに、インドのカースト制では、その上下関係が食べ物の受け渡しによって示される。上位から下位へ食べ物が渡されることはあっても、その逆のそれはない。

 料理はこのように文化に根差している。それを自然との関係に関する直観的認識で捉え、優劣を評価するのは偏見である。魯山人は素材を生かす者として調味料から文化論を展開している。しかし、調味料には保存の役目もある。今日食事にありつけたからと言って、明日もそうなるとは限らない。そこで人間は発酵・乾燥・塩蔵などによって食べ物を保存する。保存のない食文化はない。文化には自然の時間を加工することが含まれる。そんな文化に優劣はない。それに基づく料理にも優劣はない。
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