8 日本料理というフィクション

文字数 3,351文字

8 日本料理というフィクション
 これまで論じてきたことから、魯山人が、ヘーゲルと同じように、始源ではなく、結果を重視していることは明らかだろう。重要なのは始まりがどうかではなく、ある結果に到達するように発展させていくことである。始源は終わりから逆に発見されるものだ。『食器は料理のきもの』(1935)によると、中華料理が優れていたのは、最も優れた食器をつくっていた明代であり、今日においては没落していると指摘する。この場合、料理の起源は現実の事柄の発展として見出されるものではない。始源は目的によって考え出されるものであって、それは経験的な事実ではなく、目的論的な権利としての転倒である。始まりはたんなる契機にすぎない。

 日本料理を料理の完成と見るならば、日本料理だけでなく、中華料理やフランス料理などを含めた料理全般を相手にしなければならなくなる。料理は歴史的なものであるから、共時的だけでなく、通時的なレヴェルの視野を要求される。魯山人が今日においても例外的に考慮に入れなければならない料理の考察を残しているのはこの視野の広さによる。料理に関して考えたもので、日本において、これだけ広い視野を持ったものは、稀有であろう。

 食器、陶芸を料理のためにつくり始めた魯山人によれば、中国の芸術や料理は「形態はよいが内容において欠けている」。また西洋の芸術や料理は「形や柄の表面美に囚われていて、ものの真髄を掴む点においては」、日本のものに「敵し得ない」。中国や西洋の芸術は日本の芸術の前段階である。魯山人の理解において他の世界の料理は日本料理に向ける目的論上の要素として位置づけられる。

 魯山人の日本料理へ至る料理の完成は、先に述べたように、円環構造をとっている。魯山人は西洋料理と中華料理、日本料理をそれぞれ異質なものとして切り離して考えてはいない。西洋料理や中華料理は日本料理と対立しているわけではない。しかし、彼は西洋料理や中華料理を、日本料理に対して、低次の自律状態として捉えている。

 魯山人は日本料理が料理の世界史において最後の一点であるとしても、異質な、特殊な、例外的な料理であるという主張を認めない。魯山人の芸術概念は物語や年代期との訣別をしていないワーグナー的な全体芸術とは異なる。魯山人は料理だけではなく、陶芸や書などにおいても、階層を設定し、それを認識の発展と同時に事柄の発展でもあるよう把握している。料理と陶芸、書なども一つの目的に向かった弁証法的な発展にある。魯山人の料理における統合化・中心化は目的によって設定され、そこから全体を合理的なハイアラーキカルなパースペクティヴを構成する。このような自己意識の超越性に基づいた視点によって、魯山人は新たな料理を見出したと同時に、新たな陶芸をも見出す。

 けれども、こうした『味覚の美と芸術の美』に見られる主張はほとんどエスノセントリズムである。確かに、彼は日本の「自然」の優越性から議論を展開している。日本人がア・プリオリに優秀だと叫んでいない。しかし、魯山人が自身の評価基準を正当化する際に、「自然」を持ち出すのは論理の飛躍である。自然によい=悪いはない。そうした自然を根拠に、料理の優劣を評価するなど不当である。なるほど魯山人は料理について広い視野を持っている。ところが、彼は、自らの価値観を正当化するために、世界の料理を日本料理へ向かう社会進化論的に位置づけてしまう。

 1960年代の日本のフランス料理のコックは、国内では手に入らない素材の代わりに、すでにある材料で――エシャロットの代用としてタマネギ、ズッキーニの代用としてキュウリ――、なんとか本場の味に近づけようと工夫・努力している。ポール・ボギューズが、1980年代に、「ヌーベル・キュイジーヌ」を提唱したとき、そのような日本の素材と盛りつけ技術がフランスのシェフたちに影響を与えることになる。これらは相互作用であって、優劣の関係ではない。「真の独創的な人とは、何か新しいものを初めて観察することではなく、古いもの、昔から知られていたもの、あるいは誰の眼に触れられていたが見逃されていたものを、新しいものとして観察することができる人である」(ニーチェ)。

 これほどまでに讃美しているにもかかわらず、実は、魯山人の言う日本料理に明確な定義がない。『味覚馬鹿』(1953)によると、「日本料理と言っても、一概にこれが日本料理だと簡単に言い切れるものではない。言い切った後から、とやかく問題が起こり、水掛論が長びき、焦点がぼけてしまうのが常だからだ。昔もそうだが、近頃では尚更である」。それゆえ、「現在、純日本料理はないであろう」。

 魯山人は日本料理を暗黙知として理解している。それを対象化して明示知としていない。だから、彼は日本料理を定義できない。それが曖昧であれば、その範囲も不明確であるだから、日本料理をめぐって。他者と共通基盤に基づく議論が困難である。

 定義ができない以上、魯山人は本質的に日本料理をわかっていない。例えば、彼のエッセーには、卓の料理である中国料理と違い、日本料理が膳の料理という指摘さえない。また、仏教による食物禁忌の料理に対する影響にも言及がない。おそらく魯山人は日本料理が国際交流の中で形成されたと理解している。日本料理を規定する際、外部との違いからそれと認知する。これを日本料理と思う主観性に依拠せざるを得ない。結局、魯山人の日本料理とはフィクションである。

 フィクションなのは日本料理だけではない。現在イメージしている中華料理は、張競の『中華料理の文化史』によると、たかだか100年から300年ほど前に形成・蓄積されたものにすぎない。現代中華料理の最高級食材であるフカヒレは百年前にようやく宮廷に入ったばかりである。明末に伝来した唐辛子が正式の宴会料理に使われ始めるのも、四川でも19世紀、他の地域では20世紀になってからである。実際、1920年代に中国を訪れた後藤朝太郎は、『支那料理通』(1929)の中で、「四川料理の如きに至っては野菜料理の特色を表わして、野菜が主となり、日本人の口に大層合っている」と記している。激辛というイメージが強い四川料理も、歴史的に見れば、決して辛い料理ではない。

 ただ、中国料理には通時的特徴がある。中国料理は、中国人にとって、北方の遊牧民との対抗意識によって規定されている。中国における三行の一つである炊事は、食材の中まで火を通すことを意味している。遊牧民は生焼けの肉を食べる。それへの対抗意識から中国人はしっかり火を通した料理をアイデンティティにしている。

 魯山人が賞賛している明の料理は、確かに、現代中華料理の原形の基礎となっているものの、多様である。南京から北京へと遷都した明朝は、14世紀に、長江下流地域の食習慣を北方に持ちこんでいる。中国人自身は「中華料理」とは言わず、「広東料理(中国語では、粤菜)」とか、「四川料理(川菜)」とか、「山東料理(魯菜)」という呼び方をする。豆腐は葬式の儀礼食であるため招待客に出してはいけないという長江下流域から、逆に、客をもてなす料理として豆腐を出す地方まである。中国人は、日本人のように、型に拘らない。中華料理は雑種料理である。中華料理に「四千年の歴史」という形容がされるが、長さを競うことが歴史認識ではない通り、この歴史は線的ではない。ある時代には、あまり油を使わなかったり、海産物が中心だったり、生で魚や肉を食べたり、犬肉がタブーだったり、スープがメーンだったり、豚肉が蔑視されていたりといった具合で、地理的だけでなく、中華料理の歴史的変化はダイナミックである。食口左飯未口牙。

 以上のように、魯山人には示唆を与えてくれる主張もあるが、危うい意見もある。魯山人は料理を主観的判断にとどまらず、自然・歴史・人間など総合的に考察しながら、それを価値観に基づき優劣の階層として捉え、先の議論へと再帰させる。そこで扱われる対象は実証的にではなしに、主観性の共有、すなわち構成的に形成され、定義があいまいなフィクションである。それは己が見えない自惚れへと導きかねない。
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