7 自由・歴史・芸術

文字数 3,902文字

7 自由・歴史・芸術
 ヘーゲルはその「自由」の問題から歴史を考察することを試みる。ヘーゲルの歴史の終焉といった発想は、その時代における問題系を原理として、それが発展してくる経過を世界史的ヴィジョンとして構成するものである。それぞれの出来事には意味はないが、因果関係の中に置かれたときに歴史には何らかの意味や目的があるというヘーゲルの歴史認識は、近代歴史学から見れば、はるかにロマンス的である。世界史は、ヘーゲルにとって、「自由」のロマンスだ。

 ロマンスである以上、そこには円環が用意されていなければならない。円環をつなげることそれ自体が歴史に意味や目的を生み出す。文学ジャンルにおいてロマンスは最も書き手の願望が表われやすい形式を所有している。それはその願望が導き出す円環的な必然性に貫かれている。ところが、ヘーゲルを援用して歴史の終焉を説くものにはカントに対する批判としてヘーゲルが歴史哲学を展開したことの文脈が失われている。今日にあっても「自由」の問題は論ずる価値は十分にある。ただ、カントの宣言における「自由」の問題とはかなり趣を異にしている。「自由」はもはや観念でも理念でもなく、一つの関心であり、一つの活動である。真の「自由」はプロシアで実現されたのではなく、共産圏の崩壊によって達成されたというフランシス・フクヤマなどの主張はこうした見解の典型である。ヘーゲルは真の「自由」はプロシア国家において実現されたという結果を導き出している。この結論が不十分であるから、それを引きのばせばよいと考えるのは早計であろう。

 ヘーゲルの場合、彼の歴史ヴィジョンは事実に対応しているのではなく、権利として論じられているのであって、「自由」の問題こそが哲学的議論の中心という前提がある。他方、共産圏の崩壊による「自由」の実現という議論は権利ではなく事実として語られ、「自由」は政治的・経済的領域に属していることを明らかにしている。フクヤマにおいては、ヘーゲルと違って、「自由」の哲学史的な規定性が欠けている。ヘーゲルにとって、「自由」は歴史に所属する概念、すなわち歴史そのものである。だが、フクヤマにとっては歴史が「自由」に所属する概念、すなわち「自由」そのものである。つまり、フクヤマの考察はヘーゲルに対するアイロニーだ。

 ヘーゲルは、『歴史哲学』において、「自由」について次のように言っている。

 精神の本性は、精神と正反対のもの(物質)との比較によって認識される。物質の実体が重力であるとすれば、精神の実体、本質は自由であるといわなければならない。ところで、精神がもついろいろの属性の一つとして自由もあるといえば、誰にも異議はあるまい。しかし、哲学は進んで、精神の一切の属性が自由によってのみあり、すべては自由のための手段にすぎず、すべてはただ自由を求め、これを招来するものであるということを、われわれに教える。自由が精神の唯一の真理であるということこそ、思弁哲学の認識(の成果)にほかならない。物質は中心点に向っての衝動であるかぎりにおいて重さをもつ。物質は本質的には複合体であって、個々の部分から成るものであるが、その統一を求めるものであり、それ故に自分自身を止揚しようとし、自分の反対(統一)を求める。しかし、物質が、この反対のものに達するときには、それはもはや物質ではなく、物質としては消滅する。つまり、物質は観念性を求めるものである。というのは、物質は統一の中では観念的となるからである。これに反して、精神は自分の中に中心をもつものである。精神は統一を自分の外部にもたずに、これを(自分の内部に)すでに見出して、もっている。精神は自分自身の中にあり、また自分自身の許にある。物質はその実体を自分の外部にもつが、精神は自分自身の許にあるもの(das Bei-sich-selbst-sein)である。そしてこれこそ、まさに自由である。なぜなら、もし私が他に依存するものであれば、私は自分でない他者に関係することになり、したがって私はこの外的なものを離れては存在することができないからである。だから、私が私自身の許にあるとき、私は自由なのである。
 自由は自由が実現する当の目的であって、また精神の唯一の目的である。事実またこの究極の目的は、世界史の営みの目標となったのであり、地上の広大な祭壇の上で、また長い時間の経過のなかで、この目的の前にあらゆる犠牲が捧げられたのである。この目的こそ、全過程を一貫し、最後に実現されるところの当体であり、また一切の出来事と境遇との変遷のなかにあっても、ひとり不動なものであり、同時にそれらのなかにあって真にそれらを動かすものである。またこの究極目的は、神が世界に求めるその目的である。

 「自由」とは「私が私自身の許にある」ことであり、「自由が実現する当の目的」である。「自由」は何ものにも拘束されない「自由」を求めることだ。「つまり、この(自由の)カテゴリーを志向することこそ、真に本質的なものを志向することなのある」。こうしたヘーゲルの「自由」概念は今日おいてはもはや古びていることは否定できない。「自由」は、「志向すること」が達成する方法であるように、権利であって、事実ではない。ヘーゲルの「自由」に関する考察は抽象的である。彼にとって、「自由」は真理であるが、それは多数決によって決定されるものではない。ヘーゲルの「自由」は、フクヤマとは違って、国家権力の制限を指してはいない。

 ヘーゲルはプロシア国家において「自由」が真に達成されたと主張する。「自由」は権力による保障を必要とする。近代的な官僚制に基づく行政が市民の「自由」を支えなければならない。自由放任の市民社会は欲望がむき出しになり、貧富の格差が拡大しかねない。それではすべての市民が「自由」に活動できない。ヘーゲルの国家は後の福祉国家を先取りしているとも言える。

 後にビスマルクによる強力な官僚制による行政国家のプロシアは「自由・平等・友愛」を掲げて革命を起こしたフランスを経済力で凌駕する。プロシアは行政による産業の発達だけでなく、福祉政策をも実施している。フランス革命が達成しようとしたものはこのような官僚主義であり、ヘーゲルの見立てでは、むしろ、それはプロシアにおいて実現化している。確かに、産業資本主義の状況では、国家による保護は経済的発展において有効であるか。自由経済は自由放任にするだけではその存立を保障されない。

 自由経済が行われるためには、「自由」を保護しなければならない。官僚主義は「欲望の体系」である市民社会的な個々人の欲望を調停してくれるがゆえに、「自由」を結果的にもたらしてくれる。自由放任にしていると、さまざまな「欲望」によって、「自由」は脅かされることになってしまう。市民が「自由」であるためには、国家の保護が不可欠である。

 ヘーゲルは「法」の下での「自由」を主張している。法の前での権利の平等がヘーゲルの「自由」である。人間は生物的存在のみならず、社会的実存である。諸権利が保障されていなくては、社会の中で生きていけない。生物的存在と社会的実存を併せた性のために国家が必要となる。ヘーゲルの関心は政府の形態ではなく、国家にある。政府の形態だけで、その国に自由があるか否かは判断できない。つまり、国家とは「民族精神」の政治的形態だ。

 魯山人の提唱する「自由」も自由放任的なもしくは自由経済的な自由ではない。例えば、魯山人は、ヘーゲル同様、商業資本主義に否定的である。彼は、『日本のやきもの』(1955)において、「言わば桃山時代以後の時代は、かかる美的芸術的雰囲気に満ちた時代であったと言うことが出来る。(略)十八世紀以降、徳川幕府による封建的支配が衰え始めるに伴って、この日本的美の伝統、従って日本の陶磁器の美的伝統もまた漸く衰え始めた。他の工業分野におけると同様に、陶磁器製作の面でも、曾てのギルド的制作方法が商業主義的大量生産方式の色彩を色濃く帯びるに従って、この趣味的美的陶磁器生産も、また時代の波に置去られ、孤立化し、少数化するに至るのである。現代日本にも、この美的陶磁器生産の余喘は、各地にこれを求めることは出来るけれども、殆どが個人作家の小規模な、陶磁器製作という形があるか、あるいは一地方の一握りの需要を充たすための、地方的な特色ある型の、ある種の什器製作という衰微した形でしか残されてはいない。しかし、鑑賞家乃至購買者の側にあっては、曾ての陶磁器の美の伝統を理解し、これを愛護しようという意図は、まだまだ多数の人々の胸底に残っている」と述べている。

 魯山人は徒弟制には反対であるが、その徒弟制を破壊した資本主義的発達には肯定的ではない。と言うのも、彼にとっては、あくまでも理念が先行しなければならないからである。理念以外のものが突出すると芸術の「自由」が制限されてしまう。生産様式の変化は、陶器や料理といった分野では、それが生活に直結しているために、他の芸術以上に影響を被りやすい。商業経済はここの利益や欲望を追及するため、「自由」を保証するどころか、それを分裂させてしまい、すぐれた芸術を生み出すことができない。自由放任やアナーキーな状態では、さまざまな思惑が介入してくるために、芸術は「自由」に表現され得ない。芸術の「自由」はいつも束縛されかねない危うい状況にある。芸術の「自由」には保護が不可欠だ。魯山人には経済主導は嫌悪すべきことでしかない。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み