2 料理と割烹

文字数 3,373文字

2 料理と割烹
 エルヴィン・シュレーディンガーは『生命とは何か』において「生物体は『負のエントロピー』を食べていきている」と言っている。生物が存在することによってエントロピーが増大する。それを生物が摂取することにより、エントロピーの水準が保たれる。生物にとって食べることは最も重要な活動の一つである。

 だが、料理をするのは人間だけである。料理をすることによって人間になったとも言える。料理をして食べれば、生の場合よりも消化に要するエネルギーを軽減することができる。その分、吸収したエネルギーを別に回すことができる。脳の発達には好都合だ。

 魯山人自身は料理研究について、『魯山人味道』の「序に代えて」において、次のように述べている。

 私たちが料理をとやかく言ったり、美味い不味いを口にしますと、ぜいたくを言っているように聞こえて困るのですが、私が言うのはそうじゃないのです。
 料理の考え方ひとつで、仕方ひとつで、物を生かして美味しくいただける工夫、すなわち経済的で美味……それです。心なしの業で物を殺してしまっていることが往々にありますが、それをもったいないと言うのです。よいものをわるいものにして食べている事実を見るたびにそう思います。
 よい材料を殺して、つまらないものにしてしまうのは、第一、造物主に対して、済まぬことであり、罰が当たるでしょう。自分として損失であり、恵まれないことでもあります。
 金の使い方の上手下手などの話は、よく人の評に上ることですが、大根一本、魚一尾も道理に変りありません。用い方の上手下手ひとつでたいへんな相違と開きが生じます。これが上手に行いますと、たいへん美味い料理となって、しかも経済でありながら、人をよろこばせますし、無知と不精で下手なことをしますと、価値の少ない、もったいないものになります。これが結果は、前者は有能であり、後者は無能でありましょう。
 料理も真剣になって考えますと、段々頭が精密になってきます。つまり、精密な頭が欠ける場合は、美味な料理ができないということであります。お互いに、どうせ日々三度ずつは食事がつきまとうに決まっているのですから、美味い不味いの区別がよく分り、物を殺さない拵え方ができることは、楽しみのひとつで、人生の幸福ではないかと思います。
 物さえ分ってくれば、同じ費用と手間を投じて、人一倍楽しみができることでもあり、また一面、分るか分らないかは、人の尊敬を受けるか侮りを受けるかの岐路に立つことでもありますから、うかうか等閑に付しておくことはうそでありましょう。
 ○同じ費用と手間で人より美味いものが食べられ、
 ○物を生かす殺すの道理が分り、
 ○材料の精通から偏食を免がれ、鑑賞も深まり、
 ○ものの風情に関心が高まり、
 ○興味ある料理に、生き甲斐ある人生が解る。
 こんな得分がつきまとう料理研究を、おろそかに見ては済まないと思います。その料理研究も食器美術にまで興味が発達し、鑑賞眼が高くなってきますと、それはとても面白い人生となります。

 こうした主張から魯山人がたんなる審美主義的な美食家でないことは明らかだろう。感性を盲目的に崇拝する審美主義的な美食家は料理のための料理、もしくは純粋料理とも言うべき料理の自律性を確保しなければならないと主張する。一方、魯山人にとって、料理は、いかなる意味においても、自己充足的な美食に属しているものではない。魯山人は料理が料理であるという完結した同一性を認めない。魯山人にとって料理は多様な可能性を持つものであり、それは経済でもあり、倫理でもあり、美学でもあり、生理学でもあり、エコロジーでもあり、哲学でもある。経済も、倫理も、美学も、生理学も、エコロジーも、哲学も料理と対立するものではない。料理は排除の原理に基づいているのではなく、必然的に諸学を統合する原理に基づいている。

 しかし、それは諸学が料理に奉仕しなければならないということではない。諸学のつながりは、魯山人の体系において、料理という形で表われる。料理を通じてあらゆるものを見ると同時にあらゆるものから料理を見ることを発見したとき、彼はこうした視点により新たな料理を見出す。と同時に、新たな諸学とその同一性を成立させてきた関係を見出している。

 魯山人は「美味い料理」を食べることは決してぜいたくではなく、むしろ「美味い料理」を食べようとしないことのほうがはるかにぜいたくであるという転倒を発している。彼は、料理において、食べるという立場からしか料理を把えない審美主義者と違って、食べることとつくることを不可分な関係としている。「美味い料理」を食べるには「美味い料理」をつくらなければならない。食べるということだけから見れば、「美味い料理」のためには──保護動物を密猟してひそかに珍味などと称して食べるような──すべてを犠牲にしても構わないとするのだから、「美味い料理」はぜいたくかもしれないが、つくるという立場から料理を考えるとき、「美味い料理」がぜいたくであるとは必ずしも言えなくなる。

 しかし、ただつくるという立場から料理を考えればそれでもう十分とするのは早計であろう。つくる=食べるという二つの行為によって料理は成立する。つくる=食べるという二つの行為の乖離が料理というものを芸術の一つにする。料理は、つくる=食べるの二つの行為を通して、「美味い」=「不味い」という当為関係として表われる。どちらかが欠けても、料理とは言えない。つくることがそれだけでそのまま料理に直結するという認識は誤謬である。

 魯山人は、『日本料理の基礎概念』(1933)と『料理の秘訣』(1933)において、「料理」を、「割烹」と比較しつつ、次のように述べている。

 料理とは食というものの理を料るという文字を書きますが、そこに深い意味があるように思います。ですから、合理的でなくてはなりません。ものの道理に合わないことではいけません。ものを合法的に処理することであります。割烹というのは、切るとか煮るとかいうのみのことで、食物の理を料るとは言いにくい。料理というのは、どこまでも理を料ることで、不自然な無理をしてはいけないのであります。
(『日本料理の基礎概念』)

 元来「料理」とは、理を料るということなのだ。「ものの道理を料る」意であって、割烹を指すのではない。
 日本料理屋、西洋料理屋というふうに食物屋と呼ぶけれど、意味をなしていない。料理という字は、割烹のように、煮るとか割くとかいう意味を含んでいない。「料理」すなわち、理を料る、理を考えるのは、とりも直さず、割烹の内容を指すのであろう。料理は国を料理するでもいい、人間を料理するでもいい。だから、割烹店の場合は、さかなを料理する、蔬菜を料理するの意が当てはまる。
 要するに、美味いものを拵えることは、調節塩梅に合理が要る。合理的でなければならぬ一手がぜひ入用だ。
(『料理の秘訣』)

 日本において料理人を「包丁人」とも呼ぶ。それは日本料理の特徴が包丁で切ることにあるからだ。けれども、魯山人は「料理」と「割烹」を区別している。包丁人の用法が示しているように、一般的に料理とされているのは、実は、「割烹」である。「料理」は、厳密な意味において、「割烹」と異なっている。「美味な料理」を食べることがぜいたくとされているのは、「料理」と「割烹」とを混同していることから生じる。「料理」とは「食物の理を料る」ことであり、他方「割烹」とは「切るとか煮るとかいうのみのこと」であって、「料理」は、「割烹」と違って、合理的でなければならない。「切るとか煮るとかいうのみのこと」だけでは、それらがいかに巧みであったとしても、「美味い料理」をつくることはできない。

 しかし、「料理」は「理を料る、理を考えるのは、とりも直さず、割烹の内容を指す」のである。「料理」と「割烹」は完全に別個なものではない。「料理」と「割烹」をわかつのは合理的であるか否かという点にある。つまり、「割烹」とは技術、肉体的なるものであり、「料理」はその内容、精神的なるものである。「割烹」は「料理」の前段階だ。「料理」は、その合理性のために、諸学に対して統合の原理を持っている。
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