3 魯山人とヘーゲル

文字数 3,334文字

3 魯山人とヘーゲル
 魯山人は、『日本料理の要点』(1931)において、料理の合理性を次のよう述べている。

 それならば、料理屋の料理は純理を無視して構わないかと言えば、決してそのように早合点してはならない。いや、もっとも純理を尚ばなければならないのである。単に料理として考えるとき、「合理」--この合理を念頭から失うようでは、料理は料理として存立しないと言うべきである。しかし、実際における料理屋の料理は、かつて名僧良寛和尚に喝破され、否定されたように、まったく不合理極まるものであって、そのほとんどが無理、無意義をもって成り立っていることは、まことに遺憾である。
 その原因は、宴会料理などでお客が要求する見てくれをよしとする不純な注文にも一因があるが、また、一面には、従来の料理人の、そのほとんどと言っても差支えないほど、いずれも、無知、無能、無教養に由来すると見ねばならないのである。
 顧みれば、人間の生活は虚と実がつきまとっている。これを乖離することは甚だ困難である以上、料理もまた虚々実々の真骨髄に触れるところがなければならないのは、言うまでもないことであろう。それゆえ、結局は学問の問題であり、修養の問題であるということに帰着するのであるから、ただ、自己という人間を磨くことに努力するほか道はないのである。
 しかしながら、この人間錬磨の問題は、一番肝要なことではあるが、諸君にしても、小生にしても、さて、にわかに磨き、にわかに割り得るものではないから、そういうものであるという理解がついていれば、まずよいとする。で、この志さえあれば、いつかはそれがみについただけは、人格的にも、知能的にも、ちやんとできてくるものなのである。
 さて、料理人だが、なぜ今日まで、このように料理を不純にし、不合理にしてきたのだろう。識者をして、笑止の沙汰としか言いようのないことを、敢えてつづけてきたのだろう。小生は先に料理人の無知に由来すると言ったが、なぜ無知であるかについては言わなかった。諸君がすでに自覚するとおり、従来の料理人は、みながみな、あまりにも無修養であったということ、それが根本になっている。読書はおろか、世上のことについて、あまりにも知らなすぎる。

 「真の人間性に最も適合的なよい生き方とは、よき社交仲間(それもできれば多様な)とのおいしい食事にある。(略)一人で食事することは、哲学する学者にとって、不健康である」と言うイマヌエル・カントによると、感性は対象から刺激を受けて素材を得て、悟性は感性から与えられた素材を概念によって整理し、理性は価値判断を加える。理性は、それゆえ、感性を通じて経験的に与えられたものと無関係に、認識能力を持てない。料理を味覚などの感性の問題としてしまうと、感性は一定の能力を持つ道具にすぎないから、料理の現象は捉えることができるが、その本質を把握することができなくなる。だが、だとすれば、料理人と家庭の主婦とでは直観的な知識に違いはないということになってしまう。そのため、魯山人は料理において味覚という感性を第一に持ってくることを退ける。

 料理は味覚を含めた感性の問題ではなく、知性的な精神の問題である。魯山人によれば、料理人が「料理を不純にし、不合理にしてきた」のは、「無知」であり、「無知」であるのは、「無修養」であるからだ。一般の料理人たちは料理に関して不完全な認識しか持っていない。人間の認識は一定の能力によって規定されるものではなく、「修養」と「学問」によって、その能力を徐々に高めていくことによりさらに深まっていくものであるから、当然、料理人と家庭の主婦とでは料理に関する知識の内容が異なっている。

 認識能力は、「修養」と「学問」によって、より高次の状態へと発展する。この場合、「学問」と「修養」は、「人間の生活」につきまとっている「虚」と「実」を区別することができると信じている素朴な審美主義的な美食家たちと違って、「これを乖離することは甚だ困難である以上、料理もまた虚々実々の真骨髄に触れるところがなければならない」のであるから、「虚」と「実」を含んだものを志向することである。「料理」は「虚」と「実」の矛盾・対立を弁証法的に止揚している。

 「虚」と「実」の区別は「合理」性とは無縁である。「実」であるから「合理」的であり、「虚」であるから「不合理」的であるとは、両者をわけることができない以上、言えない。人間の生活する現実はただあるがままにある。確かに、生活している際に、「虚」や「実」を感ずることはある。しかし、それは絶対的なイデアとしてではなく、主観的な確信あるいは主観的な納得としてあるにすぎない。美的判断は主観的であるが、普遍性を要求する。それは用いられる材料が客観的だからである。料理において美的であるか否かという議論が成り立つのは、材料を知り、それに働き掛けることの違いがあるからだ。「虚」=「実」よりも、「合理」=「不合理」を考えるほうがはるかに有意義である。従って、いい料理人と悪い料理人の差異はこの認識能力にあり、合理性はア・プリオリなものではなく、その認識の高まり方それ自体にほかならない。

 魯山人の料理についての主張はカント的ではなく、ヘーゲル的である。田中康夫は、『ハイライフ、ハイスタイル』において、「日本に於いてはフランス料理がある種、純文学的存在と思われている」と指摘している。魯山人は、日本の美食家は一般的にそうしたフランス志向であるのに対して、ドイツ的な思考様式をしている。

 魯山人はワインや日本酒、ウィスキーなどよりもビールを好み、毎晩、欠かすことがない。お客をもてなす際にも、彼はビールを勧め、自らも率先して飲んでいる。夕方、風呂からあがると、食事の前に、ビールを飲み始める。お客と二人で小ビン1ダースほどあける。好みはキリン・ラガーヤツボルグである。

 しかし、当時のフランス派知識人は、哲学よりも、文学の領域にかかわっている。そうしたフランス派知識人に属していた中村光夫は、魯山人宅への訪問記である『北大路魯山人』において、「芸術家には、自分のみを削って芸術への犠牲に捧げるストイックと、芸術を究極においては自分の生活を豊かにするための手段と考えるエピキュリアンと二つの型に大別できるように思いますが、山人はいってみればその中間のややエピキュリアンの側に立つ人のようです」と指摘する。だから、魯山人は「いわば禁欲的意思に支えられた享楽家」である。

 魯山人は、白樺派が「敵意」の対象でしかなかったように、文学的レトリシズムを「不合理」と嫌悪している。それはフランス派の中でも歴史的認識をモチーフにしていた中村光夫を魯山人は好意をこめて「天才的に美のわからぬ奴」と評していることからも明らかであろう。魯山人はドイツ哲学に近い思考を保持している。魯山人の思考がヘーゲルに近いことはヘーゲルの『精神現象学』における次の一節が告げてくれる。「いったい意識とは己れ自身において己れの尺度を与えるものであるから、探求すると言っても、意識が己れ自身を己れ自身と比較することである。なぜと言って、今しがた立てられた区別は意識のうちに属しているからである」。

 ヘーゲルによれば、「意識」は本質的に二項対立的な原理による運動としてあるが、この「区別」はそのものについて知ろうとする意識とそれを見ていることが真実なのかという二重の契機に基づいている。その二重性によって対象に向き合っている。同様に、料理をするものは二つの契機を持たなければならない。一つは対象と向かいあってそれに対して実践的な態度をとるような意識の側面であり、もう一つは意識と対象の関係を全体を想像的に対象化しようとする意識の働き、すなわち自己とその外側の対象の関係についての像をつくりあげる働きである。

 「料理」はこの過程そのものであるのに対して、「割烹」は前者の契機だけしか持っていない。意識と対象の関係を対象化していくことによって、これら二つを高度化していくことが合理化であり、この運動の深まりが認識の深化を意味している。
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