4 料理と自然

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4 料理と自然
 このように「料理」はヘーゲル弁証法的な合理性に基づいていなければならない。『美食倶楽部』の谷崎潤一郎にとって料理が中華料理であるように、魯山人にとって、そうした料理は、具体的には、日本料理を意味している。なお、彼の美食倶楽部は、当時、大阪朝日新聞に連載していた谷崎の『美食倶楽部』に由来している。

 魯山人は、全エッセーの中で最も重要なもの一つであり、日本賛美をテーマとした『味覚の美と芸術の美』(1935)という極めて危うい論理を展開している作品を、次のような言葉で閉じている。

これは私が前々から感じている日本賛美の由って来るところであるが、近来流行の日本自慢はよくこの自覚に立っているかどうか。今流行の日本主義はともかくとして、幸いにその気運が昂揚されている折柄であるから、この機を逸せず日本の真髄をしかと掴み、真に日本の特徴、美点についての自覚を高め得れば、まことに結構である。切にそれを望んで止まぬ。

 魯山人は自分の「日本賛美」と「近来流行の日本自慢」とを区別している。1935年、すなわち昭和10年は軍需産業の拡大によって経済的には安定期である。それは日中戦争が勃発する1937年まで続くことになる。この35年に、美濃部辰吉の天皇機間説問題が起こり、芥川賞と直木賞が始まる。そして、島崎藤村の『夜明け前』や和辻哲郎の『風土』、西田幾多郎の『哲学論文集第一』、戸坂潤の『日本イデオロギー論』が相次いで出版され、日本論や日本文化論が盛んに論議の対象となっている。魯山人の言う「近来流行の日本自慢」とはこうした風潮のことであろう。マルクス主義文学が完全に崩壊した後のこの昭和10年前後は文学史的には「文芸復興期」と呼ばれているが、作家たち川端康成や徳田秋声、永井荷風の作品に登場してくる男と女を見れば「近来流行の日本自慢」が明らかになる。

 魯山人は、『味覚の美と芸術の美』において、日本賛美の根拠である「自然」をめぐって次のように述べている。

 すべての物は天が造る。天日の下新しきものなしとはその意に他ならぬ。人はただ自然をいかに取り入れるか、天の成せるものを、人の世にいかにして活かすか、ただそれだけだ。しかも、それがなかなか容易な業ではない。多くの人は自然を取り入れたつもりで、これを破壊し、天成の美を活かしたつもりで、これを殺している。たまたま不世出の天才と言われる人が、わずかに自然界を直視し、天成の美を掴み得るに過ぎないのだ。
 だから、われわれはまずなによりも自然を見る眼を養わなければならぬ。これなくしては、よい芸術は出来ぬ。これなくしては、よい書画も出来ぬ。絵画然り、その他、一切の美、然らざるなしと言える。
 さて、次に問題となるのは、しからば、自然であれば、すべて美であるか、自然のものはすべて美味であるか、という疑問が起こることだ。およそ自然ほど不可思議にして玄妙なるものはない。天の成すや、一定の目的あるが如く、またなきが如くである。天は光を注ぎ、熱を与え、また雨を降らして木草を育成する。そこになんらかの目的があるように思えぬことはない。しかるに、また天は時に雷鳴をはためかして、何百年という長年月はぐくみ育ててきた老樹をも一瞬にして焼き捨ててしまう。樹木を育てるのも自然であれば、これを枯死せしめるのも、また自然である。人に智を与えて生存を可能ならしめたのも自然であり、また、その智によって、戦争の如き破壊を行わしめるのもまた自然なのだ。人はよく自然を不自然であると言うが、私をして言わしむれば、自然もまた明らかに自然である。しからば、自然はなにを目指し、なにを行わんとするか、けだしわれわれ人智のよく量り得るところではない。
 ただわれわれが成し得ることは、かかる自然の力の存在を悟るということだけである。われわれがこの世で生を享けたのも自然であれば、また死に行くのも自然である。そこには、われわれがどうしようとしても、どうにもならないあるものが厳として存在しているのである。それが自然であり、運命と呼ぶことも出来る。少々話が飛躍し過ぎたようだ。そういう大きな根本的な意味での自然については、また別の機会に述べるとして、当面の問題は、自然がつくり出した個々のものの良し悪しということだ。
 さきに、私はまず自然を見る眼を養わなければならぬと言ったが、これは言い換えれば、自然の中にある美を見出すことである。自然は美の源泉であると言ったが、自然そのものにも、美なるあり、美ならざるあり、美味なるもあり、美味ならざるもある。
 ここに美と言い、美味と言うのは、もちろん、われわれ人間の感情から判断する言葉であって、自然そのものにとっては、いずれも同じ価値であるに違いなかろうが、それはそれとして、例えば、同じ大根でもその種類により、また、その生い育った土地の状態、すなわち、風土の如何によって美味なるもあり、美味ならざるもあり、そこで、よい料理をしようとすれば、まず大根の持ち味を活かすために、新鮮なる大根を手に入れることが必要であり、第二には、よい種類の大根を選ぶということが料理人の心得として必要である。
 こう考えるとき、すべてよいものは、よい自然から生まれるということが言える。言い換えれば、自然がよければ、そこに生まれるすべてのものがよいと悟ってよい。

 魯山人の主張は、ドイツ哲学に基づいた方法論を用いている和辻と比べると、いかにも素朴であるかに見える。だが、見かけ以上に複雑である。彼は何にもまして「自然を見る眼」、すなわち「自然」に関する認識を養う必要性を説く。魯山人の「自然」は文化に対立するものでも、ロマン主義的な主体と親和するものでも、自然環境でも、眺めるべきものでもない。「自然」とは一つの全体性である。「自然」は「この世で生を享け」、また「死に行く」ところのものであり、「われわれがどうしようとしても、どうにもならないあるものが厳として存在している」ものな。

 魯山人は「自然」を人間の生命の領域に働いているため「運命」と言っている。「自然」を「運命」と同一のものとしてとらえるとき、それは空間的なものにとどまらず、時間的なものを含むことになる。料理は「自然」そのものではなく、そのミメーシスである。「美」は自然から見出すものであって、自然をただたんに模倣することが「美」なのではない。それは、自然との関心をもって行われる交渉の中で関わりあいによって、見出されるものである。そこでは善は美であり、美は善となる。人間はときには敵対的に感じられることもある自然と、そこに「美」を認めることによって、「運命」として和解するのである。魯山人にとっての合理性は、ヘーゲルが『精神現象学』において主張したように、真なるものと知なるものの二つの契機が絶え間なく運動して徐々に深く「自然」を認識していくこと、すなわち「自然」に対する認識の論理だ。

 「美」や「美味」は「自然」から生ずるのだから、人間的なものであっても、主観的なものではない。「美」や「美味」は、「われわれ人間の感情から判断する言葉であって、自然そのものにとっては、いずれも同じ価値であるに違いなかろう」が、人間にとっては、「よい自然」と「悪い自然」がある以上、料理を考える魯山人の視点は、「自然」の問題からそれを見る人間の問題へと連なっていく。

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