10 世界史と世界交通

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10 世界史と世界交通
 終わりの思考は、決して、ヘーゲルから始まるわけではない。終末論といった考えはヘーゲル以前にもある。だが、ヘーゲルの終わりの思想は終末論とは明確な差異がある。後者は真理の問題であるが、前者は何ら到達すべき真理ではないからである。ヘーゲルのカント批判は道徳哲学の領域に関しては鋭く、また主観と客観の認識関係をめぐる問題系に、社会や歴史の運動を哲学的考察の課題として加えた意義は否定できない。けれども、「自由」をヘーゲルのように定義するならば、いつでもそれが達成されたと語ることもできると同時にまだできていないと話すことも可能である。ヘーゲルの問題設定は、原理的には、答えることのできないものである。

 ヘーゲルの哲学は排他的ではなく、閉じられてはいない。ヘーゲル哲学からは偏狭な純血主義や人種主義などは出てこない。それは、結果において、「自由」だ。彼の歴史哲学はいかなる出来事も内在化できるという「自由」を保持している。だから、ヘーゲル哲学は、その結果において、「自由」に修正することが可能である。「このようにして彼は自己が一つの円環を経巡り、それを記述し、さらに継続しようとしても堂々巡りしかできない、ということを確証する。すなわち、彼の記述をさらに拡大延長することは不可能であり、できることと言えば、その記述をすでに一度為されたままに再度繰り返すことだけである、ということを確証する」(『ヘーゲル読解入門』)。

 この説を受けて、フランシス・フクヤマは、『歴史の終わりと最後の人間』によりアメリカの新帝国主義的政策を正当化する。フクヤマは、後に、ヘーゲル論理学を通じて、自分の解釈を世間に知らしめるのが目的だったと弁明している。コジューヴやフクヤマの作品は日本でもバブル崩壊以前まで、よく引用・言及されている。ヘーゲルは、その意味で、正しい。ヘーゲル哲学はカントの哲学批判の後に登場してくる。ヘーゲルはその哲学批判を哲学にくみこむことを試みるから、形式的には、そこにはすべてがあるというコジューヴの発言には一理ある。合衆国のリチャード・ローティですら「哲学者はどんな道をたどろうと、終点で辛抱強く待っているヘーゲルを発見する運命にある」と言っている。

 フクヤマは、一九八九年空に発表した『歴史の終わりと最後の人間』において、西側が支配する冷戦後の世界像を描いて、ベストセラーになっている。東側体制の崩壊により、自由市場経済と政治的民主主義が勝利を収めた結果、歴史を動かす矛盾を失った世界は均質で、幸福な倦怠感に覆われるだろうと予測する。レジス・ドゥブレは、この見解に対して、1989年11月17日付『ル・モンド』に「歴史の復帰」を掲載して反論している。フクヤマの提示するカリカチュアは、ドゥブレによると、イデオロギーや宗教、民族感情の矛盾から解放されていないアジアや中東、バルカン半島、旧ソ連、中南米、アフリカといった世界の多くの地域では無縁である。むしろ、冷戦構造の枠組みが消失してしまった結果、民族や宗教に根差した局地的な抗争要因がパンドラの箱から飛び出してくる危険性が高く、歴史は終わるどころか、復活する。

 確かに、フクヤマの認識も、ヘーゲル哲学から見れば、不十分である。だが、ドゥブレの予想は、正当であっても、ヘーゲル哲学をあまり理解していない。ヘーゲルの死後、後継する数多くの哲学が対立・抗争を始めたけれども、それ自体が彼の哲学そのものだ。ヘーゲル哲学は、フェミニズムや黒人解放運動、同性愛、第三世界論にも援用されている。フランツ・ファノンは、『地に呪われたる者』の中で、ヘーゲルの弁証法を援用し、黒人は白人の自己確認において、いかなる媒介項ともなりえず、絶対的な他者性にとどまることを指摘する。その上で、根源的な決裂を抱えた黒人は全面的な暴力を通じてしか自己解放することができないと説いている。

 ヘーゲル哲学は、そもそも当時ヨーロッパの中で後進地域だったドイツで生まれたという点を忘れてはならない。対立が生まれるかぎり、ヘーゲル哲学は求められ、復活する。「純粋な同一性は死であるという哲学的命題の正しさをアウシュヴィッツは証明している」(テオドール・W・アドルノ『否定弁証法』)。

 世界史に関する認識は、政治的・経済的統一性が実現したという実感があるとき、生じる。ヘーゲルやフクヤマにありながらも、ギリシア人にも、ローマ人にも、ユダヤ人にも、中国人にもそれはない。モンゴル帝国によって「世界史」が全体像として捉えることを可能にしている。史上最大の統一帝国、最初にして最後の大帝国をモンゴル人が成し遂げたことを忘れてはならない。西征を指揮し、イランを中心に国を築いたモンゴルのフレグ・ウルスの宰相だったラシード・アッディーンは、ペルシア語で、『蒙古集史』(1301~11)を記述している。『集史』は二部構成になっている。第一部がチンギス・ハーンに始まるモンゴル帝国の拡大の歴史で、モンゴル自身の立場から詳細に記されている。第二部は、人類の歴史をアダムから始まり、イスラーム、ユダヤ、オグズ・トルコ族、中国、インド、ヨーロッパといった世界の主要な地域・民族それぞれの歴史が王統史の形式で進められている。『集史』は、ヘーゲルの世界史のような階層に基づいた発展性に欠けているものの、歴史上最初の世界史の書物である。それまでの歴史書は、『集史』に比べると、地域史にすぎない。ユーラシアの統一はモンゴル人だから可能である。「あなたはまた、私がノマドたちの解答を信じているかとおたずねになりましたね。ええ、私は信じていますよ。ジンギス・カンはやはり大したものですよ。彼は過去から蘇ってくるでしょうか。わかりませんけれど、いずれにせよ違った形で蘇ってくるでしょうね」(ジル・ドゥルーズ)。

 世界史は世界交通の産物であるが、カール・マルクス=フリードリヒ・エンゲルスは、『ドイツ・イデオロギー』において、交通について次のように書いている。

 ある地方でえられた生産諸力、ことに諸発明が、以後の発展に影響をおよぼすかどうかは、もっぱら交通の拡大いかんによる。直接の近隣を越える交通が、まだまったく存在しないかぎり、どの発明も地方ごとになされねばならない。そして蛮族の侵入のような通常の戦争でもよいが--まったくの偶然だけあれば、発達した生産諸力と諸要求とをもつ国を、またもとのもくあみからやり直しという状態にしてしまうことができるのである。歴史の発端においては、どの発明も毎日はじめからやりなおされ、どの地方においてもそれぞれ独自におこなわなければならなかった。かなりな程度拡大された貿易が存在する場合でさえ、できあがった生産諸力が全滅するおそれがどれほどあるかということは、フェニキア人が立証している。かれらの発明の大部分は、この貿易からの駆逐、アレクサンドロスの征服およびそれから生じた衰亡の結果、長期にわたって逸失されてしまった。たとえば、中世におけるガラス画がおなじ運命をたどっている。交通が世界交通となり、大工業を土台としてもち、あらゆる国民が競争戦にひき入れられるときにはじめて、獲得された生産諸力の確実な存続が可能となるのである。

 これは工業製品に限定されることではない。世界史全般のすべての事物において、言えることである。料理はこれまでに何度も言及してきた通り、世界交通の動きなくしてはありえない。交通において重要なのは密度分布である。人口密度もその一つとしてあげられる。「この生産は、人口の増加によってはじめて出現する。人口の増加はそれ自身また個人相互のあいだの交通を前提している。この交通の形態は、こんどは生産によって規定されている」(『ドイツ・イデオロギー』)。

 交通が密度分布に基づいていることは粉の性質に似ている。粉は一つの粒では何にもならない。ある程度の密度がいる。世界各地で、穀類は食べられているが、小麦やソバのように、粉食として扱われる場合が多い。粉食が普及する以前は、粒食だけである。ただし、粉体と粒体の区別に関して、粉体工学の研究者の間でも、意見の一致が必ずしもなく、混乱している。重力支配と付着力支配の関係から粉体と粒体をわける考え方もあるが、両者をあわせて「粉粒体」と呼ぶことも少なくない。粉粒体は、神保元二の『粉体の科学』によると、「固体が細分化され、かつその各部分が相互に拘束され合わない存在形態」、「確率統計的特性」、そして「表面特性が全体の挙動に対して支配的」という三つの条件を持っている。歴史を考察する際、粉体と粒体の区別も考慮しつつ、粉粒体工学的視点が不可欠である。「道の道とす可きは、常の道に非ず。名の名とす可きは、常の名に非ず。無名は天地の始めなり。有名は万物の母なり。故に常無以て其の妙を観んと欲し、常有以て其の徼を観んと欲す。此の両者は、同出にして名を異にす。同じく之を玄と謂う。玄の又玄は、衆妙の門なり」(『老子』一章)。

 ソバは日本以外でもよく食べられている。ソバは痩せた土地でも育つため、原産地の東アジアだけでなく、ヨーロッパの各地や中央アジア、北アメリカの一部でも栽培されている。イタリアの小麦やソバの麺の文化はマルコ・ポーロが東方から持ち帰ったのではなく、アラブ人が伝えたものだ。日本ではソバは縄文時代から食べられていたとされるが、団子や粥にしていたのであり、麺に加工したのは江戸時代からである。幕府の政策により単身生活者が多く、手軽に食べられるものが求められた結果である。

 ミシェル・フーコーは、歴史研究の際に、連続性と非連続性を強調するためにエピステーメを提示したが、粉の運動は変化の点では連続であるが、層になるという点では非連続である。粉には、筒の中では、角運動量が保存されながら、摩擦力によって最後に入れた粒子が最初に出ていくラストイン・ファーストアウト現象がある。小麦の製粉技術を持っていたエジプトでは、この現象を利用して、ピラミッドの泥棒よけにしている。さらに、粉は加工しやすく、強固な塊にも、液体に近い状態をつくりだせる。粉は反応しやすく、光の波長の違いにも鋭く反応してしまうだけでなく、炭塵爆発を起こす危険性を秘めている。世界交通は、まさに、粒子の性質・力の応用である。「物有りて混成し、天地に先だちて生ず。寂たり寥たり。独立して改まらず。周行して始からず。以て天下の母と為す可くし。吾、其の名を知らず。之に字にして道と曰う。強いて之が名を為して大と曰う」(『老子』二五章)。

 付け加えるならば、歴史的にも、地理的にも、世界で最も普遍的な食べ物は発酵食品である。さまざまな微生物が、いかなる環境にも適応して、生きている。消化・吸収するために、腸は、皮膚と並んで、外部接触をするから、微生物を棲まわせている。微生物がいなければ、人間だけでなく、動物は消化・吸収できない。物事を捉えるときに、脳を比喩にするよりも、腸を比喩にして考えるほうがはるかに有効である。「考える腸」を唱えるほうが健康的である。腸はさまざまな菌と最も共生を実践している。腸はエコロジーの見本市である。エコロジーを唱えるのであれば、真っ先に腸内のエコロジーを訴えるべきである。

 ほとんどにエコロジー運動は緑の回復をスローガンに掲げる。しかし、これは分解作業を行う微生物を無視した極めてエコロジーとしては欠落した発想である。経済学における消費主義を回避するあまりのたんなる生産回帰にすぎない。緑を育むのは何かを思い起こすべきだろう。
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