1 なぜ魯山人なのか

文字数 2,597文字

北大路魯山人、あるいは美食の理論
Saven Satow
Oct. 31, 1992

「逆境に生まれ落ちても、努力次第でこうなれる。敢えて俺の名誉でのためでなく、ゆくりなくも逆境に生まれ、悩んでいるひとたちへ、せめて励ましになるように、俺の伝記の冒頭に、このことを書いてくれ」。
北大路魯山人

1 なぜ魯山人なのか
 ポール・ヴァレリーは、『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法序説』において、一つの事柄で新たな視野を開いたものは一挙に多方面の事柄が見えると述べている。北大路魯山人(1883~1959)は、おそらく、そうした多彩な可能性を持ち得たものの一人であろう。魯山人は陶芸家、書家、日本画家、篆刻家であると同時に、美食家としても知られ、しかもそのどの分野においても新たな地平線を切り開き、卓越した功績を残している。

 魯山人は本名を房次郎といい、上賀茂神社の社家である父北大路清操、母とめの次男として生まれている。ただし、清操は彼が生まれる前に亡くなっている。生後すぐ滋賀の農家に養子に出される。この養子先は不明である。その半年後、京都の服部家に養子として入籍する。1889年、6歳のとき、その服部家を離縁され、今度は、京都の木版師福田武造の養子として入籍している。10歳ごろから、丁稚奉公をしたり、養父の仕事を手伝ったりしていたが、1903年、生母とめが世話になっていた男爵四条隆平のバックアップによって、前々から希望していた書家の世界に入る。翌年、21歳で、日本美術展覧会の書の部で一等賞を受けたのをきっかけに、作品が売れ始める。

 1915年、32歳のとき、北大路姓に復帰し、翌年から、「北大路魯山人」の名を用いる。彼が、魯山人と名のるのは、料理に本格的に関心を持ってからのことである。

 魯山人は、『なぜ作陶を志したか』(1933)において、その中でも料理は特別の位置を占めていると次のように述べている。

 なぜあなたは陶器を作るようになったか、とよく人から訊ねられるが、自分は言下に、それは自分の有する食道楽からそもそもが起こっていると答える。自分は幼年の頃から食味に興味を持ち、年と共にいよいよこれが興趣は高じて、ついに美食そのものだけでは満足出来なくなってきた。
 おいしい食物はそれにふさわしい美しさのある食器を欲求し、それに盛らなくては不足を訴えることになる。ここに於て自分は陶磁器及び漆器、即ち食物の器を自然と注意深く吟味するようになった。

 このように彼の芸術活動は「食道楽からそもそもが起こっている」。魯山人は最初から陶芸が好きで陶芸家になったわけではない。彼が好きだったのはうまい料理を食べたいということだけで、よりうまいものを追及する際に、その関連から他の芸術を志向するようになっている。「どんなものを食べているか、言ってみたまえ。きみがどんな人であるか言い当ててみよう」(ヴリア・サヴァラン『美味礼讃』)。

 ところが、魯山人にとって、そうした日本料理における彼の功績は、確かに、「美食倶楽部」や「星岡茶寮」などを創業し、また自身が考案したいくつかの日本料理のメニューなどが伝えられているが、明確ではない。魯山人をめぐる言説は断片的で、その全体像が不明瞭なままである

 こうした事態を引き起こした責任の一端は、確かに批評家たちが彼の主張を知的な領域に属するものとして扱ってこなかったことにもあるが、魯山人自身にもあることは否定できない。魯山人の陶芸や書などは、料理と比べて、後世に形を残すことができる以上、一般においても眼にすることが困難ではない。

 他の分野と違って、料理に関しては著作というものが考えやその実践を知る上で重要になる。しかし、魯山人は料理に関する体系的な著作を残していない。断片的に書かれたいくつかのエッセーがあるだけで、その文章の多くは一般に入手するのにはいささか骨が折れる彼の個人的な雑誌──『星岡』や『雅美生活』、『陶心画報』、『独歩』など──に掲載され、長い間、まとまった形では出版されていない。

 さらに、魯山人は、偏屈でわがまま、無礼でうぬぼれの強い山師というように、生前の評判は必ずしも芳しくなく、孤立していたこともあって、ある時期から忘れられた存在となっている。例えば、魯山人は、白洲正子にとって、口を開けば他人の悪口を言うか、自慢話をするか、単純極まりない芸術談義をするだけで、魅力的ではない。また、青山二郎にとっては、彼の作品にはまったく「魂」がなく、魯山人は相手にしても仕方のないどうでもいい男である。

 魯山人の死後すぐの1960年に『春夏秋冬料理王国』が出版されるものの、京都の淡交新社が版元であったため、さほど知られることなく、ほどなく絶版となっている。魯山人の晩年に師事した平野雅章の編集による料理に関するエッセーを集めた著作『魯山人味道』がようやく発表されたのは、1974年になってである。しかし、それは1,000部の限定本として上梓されたにすぎない。一般にも魯山人の美食論が容易に読めるようになったのは、その『魯山人味道』が1980年の4月に中公文庫になってからのことである。さらに、同じ年の2月に『春夏秋冬料理王国』も文化出版局からハード・カバーで『魯山人の料理王国』として復刻される。

 日本料理を議論するときに、「魯山人」という固有名詞があがる。けれども、今でも、知名度が功績をはるかに上回っていて、いったい彼が料理に関して理論的にどのようなことをしたのかがよく見分けられない。魯山人が料理を趣味から芸術へと認識を転換させたことは理解できる。だが、それがなぜ、またいかにして可能だったのかがわからない。数限りない誤解と混乱が魯山人に関する、あるいは彼をめぐる謎めいた思わせ振りな言説を構成していて、思想の実像への接近を妨げている。

 しかし、新たなメニューを考案したり、フランス料理と日本料理の融合を試みたりする者はいるけれども、近代日本において料理を知的領域に属していると理論として本格的に扱った最初の一人が魯山人である。従って、批判的反省としての料理を考察することは魯山人の著作をいかに読むかということが出発点になる。「一切の善の始まりであり根であるのは、胃袋の快である。知的な善も趣味的な善も、すべてこれに帰せられる」(エピクロス)。
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