第5話 別れ

文字数 1,075文字

 春から夏にかけて、僕は美羽の写真を撮り続けた。夏の炎天下で練習を重ねても美羽は日焼けすることなく、白く美しい肌は陽の光を反射して眩いほど輝いていた。
 陸上部の顧問にも許可を取って、僕はインターハイの決勝にも同行した。しかし美羽との約束はその年の夏で終わった。

 決勝の前夜、遅い時間に美羽から電話があった。
「今トラックにいるの」その声は震えていた。「私、怖くて」
 僕はホテルの部屋を飛び出した。

 インターハイの決勝当日、二回目の助走の途中で突然スローダウンした美羽はそのまま競技を棄権した。原因も理由も本人以外は誰も知らない。もちろん僕も。
 突然の棄権以来周囲から責められ続けた美羽は、そのまま陸上部を退部した。そんな彼女を思いながら、大学に行ったらロックバンドを始めるつもりで練習していたエレキギターを生ギターに持ち替えて僕は歌い始めた。

 撮り溜めた数千枚の画像から厳選した写真をレイアウトして一冊の写真集に製本し、自分の卒業式の日に自作のCDを添えて美羽に手渡した。
「最初は美羽が跳んでいる姿の虜になった。でもそれ以上に今は君のこと、君自身のことが好きなんだ」
「ごめんなさい」と深々と頭を下げ、美羽はアルバムを受け取ってくれなかった。
「この写真……もう見たくない」
 彼女の眉間の皺が何を意味しているかはすぐにわかった。彼女が抱えていた不安の原因も、陸上を辞めたほんとうの理由も知らず、ただ美しいと感じたそれだけでアルバムを製作し、無神経に手渡そうとした自分の愚かさを僕は恥じた。
「あの日の夜、先輩に抱きしめてもらった温もりは絶対に忘れません。でも、彼女とか、付き合うとか……そういうのは無理なんです」
 別れ際に、僕は写真集の最後のページに挟んでおいたCDだけを手渡した。
「これだけは受け取っておいて。写真じゃなくて音楽だから」
 戸惑いながらも美羽は受け取ってくれた。
「今までありがとう。また連絡するよ」
 何も言わずに彼女は静かに頭を下げ、姿が見えなくなるまでずっと微笑み続けてくれた。

 東京に越してからも何度かメールやメッセージを送ったが、彼女からはまったく返事がなかった。僕は忘れようと努力した。
 四年間の学生生活でいつの間にか自分にも彼女と呼べるような相手が出来、社会人になってからも幾度かの出逢いと別れを繰り返した。
 でもあの歌を歌うたび、校舎の片隅で初めて見つめ合った日のときめきや、誰もいない競技場で震える肩を抱いた夜の温もりが蘇る。忘れたいと思う気持ちとは裏腹に、忘れたくないと叫ぶ魂の葛藤が、何度も何度も僕にその歌詞を繰り返させた。
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