第10話 5次元世界

文字数 2,131文字

 話題の寿司店は回転寿司だったが、さすがに東京とは違ってコスパが抜群だ。久々に新鮮な海の幸で食欲を満たしたが、こんなに腹が膨らんだのはあのステーキハウス以来だった。
「美羽だったら何貫くらい食べるだろう?」と会計の時に口にしてしまい、その場に微妙な空気が流れた。

 その後は真っ直ぐ図書館に向かった。最初は中央図書館に、続いて市内最大と言われる城北図書館にも足を運んだ。蔵書の中にあったのは愛海も見覚えのある一冊だけだったが、結局それは図書館カードを持っていた愛海が借りて帰ることになった。

 少し話をするために立ち寄ったカフェで僕はその本を見せてもらった。
「これが、美羽が説明してくれた時の本なの?」
「そう。まだお父さんが筑波の研究所にいたときに仲間の研究員の人たちと書いたんだって」
「なるほど」と言いながら手に取ってパラパラとページを捲る。山根も読みたそうにしていたのでそのまま手渡した。

 僕と愛海は行方不明になる前の慎次郎さんと美羽のことを話していたが、山根は会話に加わらずにずっと本に視線を落としていた。
「お父さん、浜松ではどんなことをしていたのか知ってる? 研究所って言っても大学とかじゃなくて企業でしょ?」
「浜松の研究所はセンサーの開発をしていたらしいんだけど、筑波では新しい素粒子を発見するための実験のメンバーだったのね。実験は飛騨の神岡とスイスで進めてたんだって。その実験現場と開発の橋渡し役として引き抜かれた、って美羽は言ってた」
「神岡って言ったらスーパーカミオカンデか」と、山根が突然会話に加わった。その名前は僕も知っている。
「たぶん、そうだと思う。スイスは……」美羽は言いかけたが、すぐに思い出せないようだった。僕も前にテレビで見た記憶があるが、名前までは覚えてない。確かアルファベット三文字だった気がしたが。
「大型ハドロン衝突型加速器」と山根は即座に答えた。「Large Hadron Collider……略してLHCだね」
「この本、持って行く?」と愛海が聞くと、山根は首を横に振り、開いていた最後の方のページを閉じた。
「大体判ったよ、書いてあることは。リサ・ランドールの本で読んでたことと、ほとんど同じだから」
「さすが、クラスで理系トップだっただけのことはあるな」
「そう言えば、山之内先輩って山根さんと同じ理系進学コースだったんですよね?」
「それがなんで写真屋になったかって?」と僕は苦笑した。
「企業の片隅で図面を引いたり、研究室に閉じこもって学者になるより、躍動する筋肉の美しさを永遠に記録するために自分の才能を生かしたい……ってそう言ったんだ。今の僕は企業の片隅で図面を引いてるけどね」と皮肉っぽく自嘲する山根の説明は、自分の記憶よりよっぽど正確だった。
「その……躍動する筋肉って」愛海は笑った。「美羽のことでしょ?」
「美羽が写真の道に進むことを後押ししたのは間違いないけど。でも才能……とは言ってないよ。自分の能力って言ったと思う」
「いや、才能って言ったよ。巨匠って渾名がついたくらいだから間違いない」
「よくそんなこと覚えてるな。ほんとは負け惜しみだけどね。勉強では絶対に敵わないことをクラス最初のテストで思い知ったから。そんな落ちこぼれの僕に、愛海ちゃんに相対性理論の説明をするつもりで説明してくれない? 本の内容」
 山根は少し嬉しそうに微笑んだあと、ペーパーナプキンにボールペンで図形を描きながら説明し始めた。
「簡単に言うと、我々が住む3次元空間に時間軸を加えた時空を4次元とすると、そこに更にもう一つ別の軸を加えた時空間が5次元なんだ」
「それはわかるよ。子供の頃からSFやアニメでお馴染みだから」
「そうだね。ここにはその5次元空間の存在を実証する研究について書かれている」
「最初に書いてあった。でも、いったいどうやって実証するんだ? この世界からは見えないわけだろ?」
「原子核を構成する素粒子の中には、突然この世界から消えてしまう物があるんだ。それがどこへ消えてしまうのか、その行き先が5次元空間、5次元世界というわけ。仮説だけど、それが一番合理的な答えなんだ。加速器を使って粒子を超高速で衝突させて——この場合は水素の原子核を構成する陽子だけどね——飛び散ったその粒子の動きを観測する。長い時間を掛けて観測した結果を調べて、ある程度の確率で消えてしまうことが証明されれば、少なくとも我々の三次元空間を超える異次元空間として5次元の存在が実証できるわけ」
「4次元じゃなくて、5次元なの?」と愛海が疑問を口にした。
「物理の世界では、ミンコフスキー空間って言って、アインシュタインの特殊相対性理論を定型化するための枠組みとして時間を第四の軸とする4次元空間が定義されてるんだ。だから、この場合は5次元或いはそれ以上の空間になるわけ」
「出た! 相対性理論」
「今度教えてくれるんでしょ?」と愛海が言うと、山根は照れくさそうに笑った。
「しかし山根はほんとにすごいな。頭の中に百科事典かウィキペディアが入ってるんじゃないか?」

 浜松駅で二人と別れたあと、東京に向かう新幹線の中から、僕は岡崎慎一郎の著書のうち通販サイトで買える二冊を発注した。
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