第6話 抱いて

文字数 1,246文字

 目を覚ますとベッドの上に美羽の姿はなく、そこにはただ温もりだけが残っていた。

 ほんの数時間前、僕は十年前と同じように美羽を強く抱きしめた。すると彼女は僕の耳元で呟いた。
「あなたと交わりたい」
 驚きのあまり、僕は「えっ?」と聞き返した。美羽は真っ直ぐ僕を見つめたまま悲しそうに笑う。
「私を抱いて……ベッドの上で」
 瞳の奥に彼女の覚悟を見た僕は、黙って口づけをした。

「先にシャワー借りていい?」と聞かれ「もちろん」と僕は答えた。
「一緒に身体洗う?」と言ってしまってから、少し焦っている自分に気づいた。
「ごめんね。シャワーの時は一人にさせて。すぐに終わるから」
「わかった」
「シャワー浴びてるところ、絶対に見ないでね」
「もちろん」
 彼女を待つ時間をどれほど長く感じたことだろう。
 バスローブを渡し忘れたが、美羽がバスタオル一枚で出てくる姿を想像した僕は、敢えて持っては行かなかった。絶対に見ないよう言われたからバスルームは立ち入り禁止だな……と自分に言い訳しながら。

 美羽は一糸纏わぬ姿で目の前に現れ、僕は飲みかけの炭酸水を慌てて零しそうになった。輝く肢体を隠す素振りも見せず、その姿は美しさを超えて神々しささえ湛えていた。
「ごめんね。先に渡しておけば良かった」と言いながら僕が手渡したバスローブを羽織る。そのとき照明で赤く照らされた乳房が柔らかく揺れた。

 交代でバスルームに向かう僕は足取りが覚束ない。ほんの十数分後には美羽と一つになれる。想像するだけで胸が高鳴り脚が震えた。

 手早くバスタオルで身体を吹き上げると、美羽を真似て僕も何も身に付けずにバスルームを後にした。美羽はベッドサイドに腰掛けて僕を待っていた。潤んだ瞳がまっすぐにこちらを見つめている。

 僕たちは裸で抱き合った。美羽の身体は燃え上がる炎のようだった。僕たちは激しく愛撫し、そして一つになった。生まれて初めてなんの隔たりも無しに味わう交わり。それは美羽が望んだことだったが、狂おしいほど愛おしく感じる気持ちとは裏腹に、人生で最も幸せな筈のその瞬間に、目に見えない何かが僕の身体にブレーキを掛けていた。恋い焦がれた初恋の人といきなり触れ合ったことが、ぼくに緊張を強いてしまったのだろうか? いやそんな単純なものじゃない。言葉に表すことが出来ない奇妙な違和感が、心の奥底で言い知れぬ不安をもたらしていることに僕は気づいていた。

 胸の高まりとは正反対に、違和感に支配された僕の分身はその役目を果たせずに何度も途中で萎えてしまう。早過ぎると不満を漏らされたことはあっても、今まで一度もそんな経験はなかった。ただただ恥ずかしく、そして情けなかった。

 すでに外は明るくなり始めていた。泣きたい気持ちで朝日に照らされた美羽の顔を見上げると、彼女は悲しみよりも慈しみに似た眼差しを僕に向けていた。
「原因は私にあるの。だから自分を責めないで」
 優しい声の響きに慰められた僕は、そのまま深い眠りについてしまった。

 あの言葉の意味は何だったのだろう?
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