第2話 少年時代まで

文字数 2,477文字

ウォルフガング・エルンスト・フリードリヒ・パウリは、1900年4月25日に、ウィーン大学の化学者として世界的名声を得ていた父ウォルフガング・ヨーゼフ・パウリの子としてウィーンで生まれた。パウリの代父(ゴッドファーザー)は、著名な物理学者・哲学者のエルンスト・マッハで、パリのミドルネームのエルンストは、その名前から取られた。

パウリの祖父ヤーコプ・パーシェルスは、当時オーストリア・ハンガリー帝国の一部であるプラハのユダヤ人社会で指導的立場にあった。パーシェルスは、自宅の礼拝所で、フランツ・カフカをはじめ多くの子弟の成人式(バルミツヴァー)を執り行った。

パウリの父はプラハのカレル大学で医学を学び、1892年に23歳でウィーン大学の教員となった。やがて彼はタンパク質研究における専門家の地位を確立し、6年後の1898年、政府は一家が「パーシェルス」から「パウリ」に改宗することを許可した。その一年後、父はカトリックに改宗した。反ユダヤ主義の空気に包まれたオーストリア・ハンガリー帝国では、キリスト教に改宗すれば、学者としての昇進の機会が大幅に増したからである。

改宗後ほどなくして、父はカトリック教徒のベルタ・カミラ・シュッツと結婚した。実は妻の母方の祖父はユダヤ教徒だった。ベルタはとても聡明な女性だった。当時のウィーンでは女性は高等学校すら出ていないのが普通だったが、ベルタは新聞に映画批評や歴史を題材にしたエッセイを寄稿していた。

両親の結婚から一年後に、ウォルフガング・パウリが生まれた。家族は彼を「ウォルフィ」と呼び、叔母たちはウォルフィを溺愛した。ウォルフィは早くから正確さにこだわった。
「ウォルフィ、見てごらん。わたしたちはドナウ運河にかかる橋の上にいるのよ」
と散歩中にエルナ叔母が言った。すると四歳のウォルフィは
「違うよ、叔母さん。これはウィーン運河だよ。ドナウ運河に流れていくんだ」
と叔母の間違いを指摘したと言う。

パウリにはヘルタという妹がいた。二人は決して親密ではなかったが、パウリがユングに語ったように、晩年の二人は良好な関係を保っていた。

パウリが自分のユダヤ人の出自を知ったいきさつには、二つの説がある。パウリが16歳のとき、珍しく父方の祖母が一家を訪問した。祖母は、父の本当の名前はパウリではなくパーシェルスで、ユダヤ人であることをパウリに明かした。

もう一つの説は、ゾンマーフェルトのもとで助手をしていたパウル・エヴァルトが、パウルと初めて会ったとき、ひと目見てユダヤ人ではないかと思い、そう口に出して言った。パウリが違いますと答えると、エヴァルトは向こうの鏡で自分の顔を見てみるといいと言った。エヴァルトによると、パウリはその後実家に帰省した際に両親に生い立ちを尋ね、それにより先祖がユダヤ人であることを知ったと言う。パウリの一家ではこの件に触れるのはタブーであったにもかかわらず。


学生時代のウォルフガング・パウリ
チューリヒ工科大学(ETH)のライブラリより
https://library.ethz.ch/en/locations-and-media/platforms/virtual-exhibitions/wolfgang-pauli-and-modern-physics/birth-and-childhood-in-vienna.html

1927年の秋、パウリの父親が家を出るという大事件が起きた。彼も息子と同じかそれ以上に女癖が悪かったが、聡明な妻のベルタは、夫がウィーン大学教授の体面を保てるように我慢を重ねてきた。ところが父親は、今回は息子と同年齢の彫刻家マリア・ロットラーと恋に落ちて、完全にベルタを捨てて出て行ってしまった。悲嘆にくれたベルタは、11月15日に服毒自殺した。この事件も、パウリの精神を大きく傷付けたとみなされている。

パウリの最初の業績は、1918年にギムナジウムを優秀な成績で卒業した二か月後、アインシュタインの一般相対性理論を論じた論文が、専門誌に投稿されたことだ。パウリは著名な父への感謝を込めてその論文に「ウォルフガング・パウリ二世」と署名した。

パウリの神童ぶりを伝えるこんな話がある。パウリはまだ十二歳のとき、後の師となるゾンマーフェルトに会っていた。それはゾンマーフェルトがウィーンで講演したときのことで、パウリの父は息子のために聴講する許可を取ってやった。講演を終えたゾンマーフェルトはパウリ少年を見つけると「講演の内容は理解できたかね?」と尋ねた。
パウリは「理解はできましたが、黒板の右上の式だけはわかりませんでした」
と答えた。
ゾンマーフェルトは黒板を見上げ「やれやれ、私としたことが、間違いをしでかしてしまった!」
と言ったという。

とにかく学生時代から、パウリは機知に富み、優秀だったようである。
父は高名な化学者、母は当時としては珍しい女性ジャーナリスト。ふた親の優秀なところを引き継いで生まれた子がウォルフガング・パウリであった。

以下はCERNのアーカイブより引用
https://timeline.web.cern.ch/bertha-paulis-son-wolfgang-born

1900 年 4 月 25 日
ベルタ・パウリの息子ヴォルフガング誕生



ベルタ・カミラ・シュッツ(通称マリア)は、1878 年にウィーンで生まれた。作家でありジャーナリストでもある彼女は、父の跡を継ぎ、ノイエ・フライエ・プレスの協力者として、演劇評論や歴史エッセイを執筆した。 1899年に彼女はヴォルフ・パウリと結婚し、1900年4月25日に第一子が誕生した。生後20か月でここに現れたヴォルフガング・ジュニアはノーベル賞を受賞した物理学者に成長し、妹のヘルタ(1906~1973)は博士号を取得した。女優であり作家。 彼女の母親は平和主義者、社会主義者、フェミニストであり、1919年の選挙運動に参加して、新たに獲得した社会民主党への票を投じるよう女性たちに促した。 彼女は 1927 年 11 月 15 日に死亡 (自殺) した。

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