第14話 パウリの死

文字数 1,681文字

そしてパウリの死である。

それに先立つ1958年2月1日、ニューヨークのコロンビア大学でパウリは晩年ハイゼンベルクと行った新理論の講演を行おうとしていた。パウリが紹介した新理論の要は、新たに発見された素粒子がどのように崩壊して別の粒子になるかであった。しかし、新理論には「穴」があり、会場は穏やかながら批判的な雰囲気になった。

いっぽうハイゼンベルクは2月の末にゲッチンゲン大学のハイゼンベルク研究所で、パウリとの共同研究について講演を行っていた。

しかしパウリは結局この共同研究から手を引き、精神的にまいってしまった。パウリはハイゼンベルクの態度(「世界の公式」を作る)に腹を立て、ハイゼンベルクもパウリの態度に傷ついた。

1958年12月5日の金曜、チューリヒ工科大学(ETH)で午後の授業をしていたとき、パウリは突然、身を切られるような激しい胃痛に襲われた。直前まではとても元気だったのに。翌日、パウリはチューリヒの赤十字病院に救急搬送された。

病室の番号は137であった。パウリの最後の助手を務めたチャールズ・エンツがチューリッヒの赤十字病院に入院していたパウリを見舞った時、パウリは彼に「部屋の番号を見たかね?」と尋ねた。彼の病室の番号は 137 だった。彼は生涯を通じて、微細構造定数が 1/137 に近い値を持つのは何故か、という疑問を考え続けていた。1958年12月15日、パウリはこの病室で膵臓ガンのため没した。享年58歳であった。 パウリはユングの提唱した共時性(シンクロニシティ)を身をもって体験した。

ハイゼンベルクは葬儀に参列しなかったばかりか、パウリの夫人フランカにお悔やみの手紙すら書かなかった。代わりに妻のエリザベートが、二人ともとても多忙で葬儀に参列できなかったと手紙に書いただけであった。

ETHは十分な時間をもって葬儀に参列できるようハイゼンベルク夫妻に取り計らったが、ハイゼンベルクはなぜ親友の葬儀に参列しなかったのか。

ハイゼンベルクの自伝『部分と全体』にその理由である可能性を見いだすことができる。
「私に対するウォルフガングの態度は敵意にも等しかった」
「彼は私が行った解析の細部を数多く批判したが、なかには完全に理不尽だと思われる批判もあった」

若い頃共同研究によって量子力学の地平を開いた二人が、晩年になって仲違いをし、心が離れてしまったのは残念だ。まず第一に、パウリのハイゼンベルクに対する態度が「きつすぎた」と思う。年を重ねていたハイゼンベルクのほうもそれに「耐える」ほど強くなかったのではないか。

パウリは確かに口はきついし、態度もきついが、彼に接した人でとても親切にしてもらったと語る人もいるし、ガモフのように、パウリの才能とユーモアのセンスを愛した人もいた。妻のフランカの言葉を聞こう。

「彼はとても傷つきやすく、だからカーテンに隠れて身を守るようにしていました。あの人は現実を受け入れることなく生きていこうとしたのです。あの浮世離れしたところはまさしく、そういう生き方が可能だと信じていたことに起因するものでした」

卓越した物理学者で、理論的のみならず、直感的に真実を見つけ出し、1945年ノーベル物理学賞
(受賞理由:パウリの原理とも呼ばれる排他原理の発見)を受けたパウリ。
先生のマックス・ボルンに遅刻して耳を引っ張られるような茶目っ気たっぷりの写真がいくつも残っているパウリ。
「原爆の父」オッペンハイマーもその「パウリ効果」のため、マンハッタンプロジェクトへの参加を断ったパウリ。
1927年頃、同年配のハイゼンベルクと共同研究をして、量子力学を育て上げていったパウリ。
ユングの精神分析を受け、しっかり者のフランカさんと一緒になり、晩年は少し落ち着いたかと思いきや、若い頃の親友、ハイゼンベルクと袂を分かったパウリ。若い頃は二人して、デンマークのニールス・ボーアの門下にあった。


ニールス・ボーア(右)と(WikipediaのPublic Domain画像)

パウリ、ありがとう。天国で物理学者のみんなと安らかに暮らしてください。





2024/1/15月
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