第10話 『自然現象と心の構造』1

文字数 4,845文字

『自然現象と心の構造』は、1952年に心理学者のカール・ユングと、物理学者のウォルフガング・パウリが共著として発表した本。内容に関連はあるが、前半のユングの論文と後半のパウリの論文は独立している。

それでは、翻訳された日本語に当たるのが一番簡単でいいと思い、複数のネット書店ですぐ見つけたが、ある巨大ネット書店のレビューを見ると、大きな問題があるのがわかった。
(太字筆者)
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(b)幻像(夢とか幻)をともなった主観的心理状態の偶然の一致のことで、それは遠く離れているが、多かれ少なかれ同時に生じた客観的事象、多かれ少なかれ「共時的」なものの信頼できる反射であることがあとでわかるもの。

(b) The coincidence of a subjective psychic state with a phantasm (dream or vision) which later turns out to be a more or less faithful reflection of a "synchronistic," objective event that took place more or less simultaneously, but at a distance.

 この誤訳は、coincidence と with が対応しているのに気づかなかったことから発生しています。「幻像(夢とか幻)をともなった主観的心理状態の偶然の一致」という訳では、共時性がどこかに行ってしまいます。これは、主観的な心的状態と幻影(夢ないし幻)とが時間的に符合して発生するが、遠方で起こった出来事であるため、その時点では確認できないものについて言っているのです。coincidence があったら、次に with を自然に探すようでなければ、翻訳などできるものではありませんが、問題はそれにとどまりません。これは、共時性というユングの根本概念を理解していないと言われても文句の言えないほど深刻な誤訳でしょう。次も、これに負けず劣らず深刻です。

(c)bと同じ、但し、知覚された事象が未来に生じるが、その事象と対応することが、現在において幻像によってのみ、表現される場合を除いたもの。

(c) The same, except that the event perceived takes place in the future and is represented in the present only by a phantasm that corresponds to it.

(c)は、その時点で確認できないという点では(b)と同じであるが、出来事が未来に起こるという点で違っていると言っているのです。この誤訳は、「……を除いては」という条件を示している except that を正反対に訳してしまったことから発生しています。しかし、文法がわからなかったとしても、この邦訳では意味がわからないでしょう。これでは、指示するものが全くなくなってしまうわけですが、そのことになぜ気づかなかったのでしょうか。

 この様子だと、同程度の誤訳はたくさんありそうです。このような邦訳を読んで、ユングの言っていることが正確に理解できるとすれば、それはそれですばらしいことですが、そのような離れ業は可能なのでしょうか。なお、ここでは、ユングの著書そのものについてではなく、邦訳のみを評価の対象としました。
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この翻訳をした有名な心理学者は既に亡くなっているので、お弟子の方に正しい翻訳を行って欲しいと思う。このような共時性(シンクロニシティ)というテーマについて、構文解析の誤りが原因で重大な問題がある翻訳本(パウリの論文は別の翻訳者)を購入する気にはとてもなれず、では原文か少なくともユング著作集18巻全体が英訳されている英語版に当たってみようと思った。

ちなみに原文のドイツ語版はNaturerklärung und Psycheと言い、Amazonドイツでまともにハードカバーを購入すると280+50(配送料)ユーロ、The Interpretation of nature and the psycheも数千円+配送料がかかる。

英語のほうがまだ安いので英語の題名で検索していたら、インターネットのアーカイブサイトを見つけた。ドイツ語の原文は1952年だが、この英訳版は1955年でPublic Domainとハッキリ書いてある。



https://archive.org/details/x-the-interpretation-of-nature-and-the-psyche
ちなみに、このアドレスからPDFのみのファイルではなく、PDFとテキストのファイルをダウンロードすれば、翻訳ソフトにかけるなり、AIに要約させるなり自由である。
それには、右下のDOWNLOAD OPTIONSからPDF WITH TEXTを選んでダウンロードするのがおすすめである。



そうすれば、ここにあれば、ニュートンの『プリンキピア』でも何でもテキストファイルが手に入る。OCRも何もいらなくて、ほぼどんな言語でもGoogle翻訳などでとりあえずの翻訳はできる。いい時代になったものだ。著作権切れも、ネットワークのアーカイブも。

それで、この難解な本が何かと言うことについて、日本語版の「本書について」を読んでみる。
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C・G・ユング
W・パウリ 
『自然現象と心の構造
― 非因果的連関の原理』 
河合隼雄・村上陽一郎 訳


海鳴社
1976年1月14日 発行
viii 270p 別丁図版(モノクロ)6p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価1,600円


「本書について」より:

「本書は、元来「C・G・ユング研究所研究報告」第四号として、『自然の解明と精神(プシュケー)』《Naturerklärung und Psyche》(Rascher Verl., Zurich, 1952)の標題で発表されたものである。この書物は、ユングの「非因果的連関の原理としての共時性」《Synchronizität als ain Prinzip akausaler Zusammenhänge》と、パウリの「ケプラーにおける自然科学理論の形成に関する元型的理念の影響」《Der Einfluss archetypischer Vorstellungen auf die Bildung naturwissenchaftlicher Theorien bei Kepler》という雙の論文から成っていた。三年後の一九五五年、(中略)この書物の英語版が、『自然の解釈と精神(プシュケー)』《The Interpretation of Nature and the Psyche》のタイトルで出版された(Bollingen Foundation Inc., New York および Routeledge Kegan Paul, London)。」
「本訳書は、書き換え、訂正を受けている英語版を、底本として採用している。したがって、論文のタイトルも含めて、完全に英語版の表現に従っている。翻訳はユングの論文を河合が、パウリの論文を村上が担当している。」
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複数の版がある場合、異なる版(この場合はドイツ語版原書)も参照するのが普通のやり方のように思うが、この英訳版からの和訳は、英訳版しか参照していないと断っている。学術書の場合、別の版の注釈などから(この場合は)英訳版の誤りが分かったりするので、通常のプロセスと思えるが、それも行われていないので、英訳で誤訳があった場合は見つけきれない。翻訳の誤訳は通常のテキストを誤って訳すことだけでなく、引用の「II」(ローマ数字)が実は「11」(十一)だったとか、原書も、その英訳も気づかなかったことを、日本語の翻訳者が気づいたりしている。この日本語訳にはそのようなことは、まったく期待できない。

カバーそで文:

「精神界と物質界の究極を探索した著者たちが、共通の問題意識、すなわちこの世界を如何に認識すべきか、科学の範疇を如何に考えるべきかを論じた問題作。
 心的過程の深奥には、およそ因果的な説明では捉えきれない様々な事象――単なる偶然としては片づけられないものが存在する。それを永年の治療経験や自己の体験から、誰よりも痛切に感じていたユングは、現代物理学からの要請を踏まえながら、心的現象や占星術といった非因果的諸事象をも包摂したこの世界を、統一的に解釈可能な壮大な構想を提示する。
 一方、現代物理学の行き詰りを早くから察知していたパウリは、近代科学の黎明期に遡って、その方法論の根源を探る。そして世界像の差異、つまりケプラーの「元型」概念と彼の論敵フラッドのそれとの差異が、現代の科学を方向づけたことを論証する。
 著者たちの交流から生み出された本書は、反科学論など、多くの分野に影響を与えた科学史的にも重要な論文である。」

目次:

本書について (訳者)

共時性: 非因果的連関の原理 (C・G・ユング/河合隼雄 訳)
 序
 第一章 はじめに
 第二章 占星術の実験
 第三章 共時性の観念の先駆者達
 第四章 結論
 要約

元型的観念がケプラーの科学理論に与えた影響 (W・パウリ/村上陽一郎 訳)
 はじめに
 元型的観念がケプラーの科学理論に与えた影響
 付録Ⅰ 人間の霊魂が自然の一部であるという命題に対するフラッドの反論
 付録Ⅱ 四という数の特性についてのフラッドの論点
 付録Ⅲ プラトン主義的、ヘルメス主義的傾向: ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナ


解説 (村上陽一郎)
訳者あとがき
人名索引
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それでは、せっかくテキスト付きPDFをダウンロードしたので、最初の要約部分を引用してみよう(Google翻訳にかけた)。

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自然とこころ
の解釈
C.G.ユング
シンクロニシティ(共時性)
非因果的な接続原理
スイスの著名な心理学者による超心理学の分野における最初の重要な出版物。 彼の議論は、一方では「超感覚的知覚」(ESP) 研究の結果を一般的な科学的観点に組み込むことを目的としています。他方で、著者はこういった現象の中で心的要因の性質を確認するよう努めます。R.F.C.ハル訳。

W.パウリ
原型的なアイデアがケプラーの科学理論に与える影響
1945年にノーベル賞を受賞した物理学者パウリは、17世紀の科学者ケプラーと錬金術師ロバート・フラッドの間の論争について論じ、特にこれら 2 人の作家が使用したシンボルの不一致に示されている、後期ルネサンスでの科学的前提と錬金術的前提の矛盾を証明する。プリシラ・シルツ訳。

ちなみにインターネットアーカイブサイトには読み上げの機能があり(英語の場合、オーストラリア英語やアメリカ英語から選べる)数時間かけて全部聞いたが、発音はとても良いにもかかわらず、ときどきsynchronicityなどの単語が聞こえるだけで、私にはお経的効果しかなかった。やはり、必要不可欠な注釈を伴う、分かりやすい翻訳が望まれる。

それだけでは読者に申し訳ないので、次のエピソードで、二人の論考から興味深いと思われる箇所を探してみる。


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