第3話 ハイゼンベルクとの友情

文字数 2,594文字

1925年頃、パウリはハイゼンベルクとの友情を深めた。同僚として、また友人として、このタイプの違う二人の青年は交友した。以下、正確な言葉ではないが二人の友情をなるべく自分の言葉で記述してみる。

「何か新しい物理学のアイデアを思いつくと、僕はいつもパウリに相談したものです」
ハイゼンベルクは言う。
「なぜなら彼の批判はとても厳しくて、辛辣でさえあったからです。それ故に、パウリの周囲の人々は彼を「物理学の良心」と呼びました」
ハイゼンベルクが1925年に成立させた量子力学を、北ドイツの島、ヘルゴラント島で泳いだり、ゲーテを読んだりしながら思いついたときも、彼は真っ先にパウリに相談している。おそらく手紙で。今だったら電子メールかLINEだったろう。
パウリが「いいね!」と言ったので、ハイゼンベルクはとても力づけられて、自分のアイデアを正式な論文の形に仕上げていった。

ハイゼンベルクのほぼすべての伝記にあるように、阪本氏の訳注によるとマックス・ボルン(Born)が言ったように、ハイゼンベルクは「短い金髪と澄んだ青い眼を持った、無邪気な農家の少年」のようだった。

また、ミュンヘンで共産主義政権ができ、そのために街が混乱に陥ったとき、知的中流階級であるハイゼンベルクは、共産主義を弾圧する側に立って戦った。この騒乱には、ミュンヘンにいたときパウリも巻き込まれた。大学は長い間閉鎖され、カフェが教室になった。カフェからは、地元の市民や軍服姿の兵士による市街戦を見物できた。

YouTubeに「Solvay Physics Conference 1927」という題の動画があるが、ここには当代一の物理学者がみんな写っている。
冒頭出っ歯の目立つボーアと、おしゃれ眼鏡のシュレーディンガーが会話しているが、その後ほどなくして、ハイゼンベルクが登場する。
ハイゼンベルクは帽子を被って、ニコニコと笑いながら嬉しそうに建物から出てくる。その様子は可愛い! 彼はこの有名な第五回のソルベー会議で、自分の量子力学や不確定性原理を発表し、批判も受けた。


ハイゼンベルク

同じ動画の後の方でパウリも登場するが、厳しい表情でハイゼンベルクとは対照的である。
パウリの母は1927年11月15日に死亡 (自殺) した。第五回ソルベー会議は1927年10月24日から29日である。会議のときも、もしかしたら父親の浮気が原因で、母のことを心配していたかも知れない。


パウリ

そしてこれも、あちこちに引用される第五回ソルベー会議の集合写真の右上に写っているパウリとハイゼンベルクである。仲良く隣同士である。最前列の席から一番上の席まで、序列がハッキリしている。パウリやハイゼンベルクは若手なので、一番上の右側にいる。


パウリとハイゼンベルク

パウリが目を閉じてしまっているのに対し、ハイゼンベルクはここでもカメラに向かって感じ良く微笑んでいる。
こんな写真にも、彼らの性格の違いが出ている。どちらも超優秀な物理学者でありながら、ニコニコしているハイゼンベルクには話しかけやすそうだし、厳しい表情のパウリにはちょっと話すのが大変そうだ。

ハイゼンベルクは物理学研究の暇があれば、昔の「青年運動」の仲間たちと山登りをしたり、スキーをしたり、泳いだり、フィンランドに徒歩旅行に行ったりしている。

対するパウリは、ミュンヘンで夜遊びを覚え、ハンブルクでは赤線地帯にまで足を伸ばして、絶対に午前中の講義には出てこなかった。ミュンヘンではゾンマーフェルトに注意されてからしばらくは朝8時に出席していたようだが、ゲッチンゲンでマックス・ボルンの助手になったときは、朝出て来ないから罰に耳を引っ張られている写真が、パウリが戦前も戦後も勤めたチューリヒ工科大学(ETH)のサイトに残っている。


https://library.ethz.ch/en/locations-and-media/platforms/virtual-exhibitions/wolfgang-pauli-and-modern-physics/assistant-in-goettingen.html

その後、ヴォルフガング・パウリは数学の本拠地として長い伝統を持つゲッチンゲン大学に進学した。 1921/22 年の冬学期に、パウリはマックス・ボルンの正助手になった。 この年、ボルンはすでに 1909 年に教授に昇進していた母校に戻った。教授は現在、フェリックス・クラインとデイヴィッド・ヒルベルトの伝統に基づいて若い原子物理学者の先鋭全員を訓練していた。その中には、ヴェルナー・ハイゼンベルクとパスクアル・ヨルダンがこの時点で在籍していた。

そう、ハイゼンベルクのヘルゴラント島での量子力学の計算式を見て、これは行列で書けるな、と言ったのはマックス・ボルン先生だった。ここでもパウリとハイゼンベルクは接触している。
(なお阪本芳久氏が翻訳されたアーサー・I・ミラーの『137』には、上記の写真がハンブルク大学と記されているが、ETHのサイトにあるようにゲッチンゲンの間違いでは)

話が前後するが、ゾンマーフェルトに命じられてパウリが書いた『数理科学辞典』の相対性理論の解説記事は、1921年に発表され、アインシュタインもうならせる力作だった。「この論稿の著者が21歳とは信じられない」とアインシュタインは言った。この本は分量も内容も半端なく、パウリが21歳のときに書いた論文は、35年後に単行本として出版された。そして、それは現在でも日本語で読むことができる。『相対性理論〈上・下〉』 (ちくま学芸文庫)である。お望みならばディラックの『一般相対性理論 』(ちくま学芸文庫)もある。

ハイゼンベルクによると「私は明るい昼の光が好きで、自由な時間はできるだけ山歩きをしたり、バイエルンの湖で泳いだり、簡単な食事を作ったりして過ごしたが、ウォルフガングは典型的な夜行性だった」と振り返る。
「ウォルフガングは街を愛していて、晩はどこかのバーやカフェで時間を過ごすのを好んだが、その後はほぼ朝まで、ものすごい集中力で物理学の研究に取り組み成果を挙げていた」
だから午前中の講義になんて出られなくて、ミュンヘンではゾンマーフェルトに注意されたり、ゲッチンゲンではマックス・ボルンに耳を引っ張られて写真まで撮られたのだ。



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