第7話 『パウリ=ユング往復書簡集 1932-1958』

文字数 4,989文字



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ユングと言うと、ヘルマン・ヘッセが「デミアン」を書いた頃、精神的危機に陥りユングの弟子であるラング(Josef Bernhard Lang)に分析を受けていた。ヘッセはまず少年時代にガリ勉して受かったマウルブロンの神学校を放校になってから、結婚その他で人生において何度か精神の危機に直面している。ラングの精神分析を受けたのもそんな危機のひとつの頃だった。

ドイツ語を勉強して本が読めるくらいにはなったが、ドイツの哲学や心理学についてはまったく知らなかった。パウリの心の奥底を上っ面ではなく見たいと思い、ユングとの往復書簡集を読むことにした。

ハイゼンベルクのときも、第二次世界大戦を挟んで、それ以前の友情、例えばニールス・ボーアやサミュエル・ハウトスミットとの関係が壊れ、最後まで全部は修復できなかったことを書いた。パウリについても、父の浮気が原因で母が服毒自殺したとか悲しいことがあった。

1932年11月以降、57歳のユングと32歳のパウリは、毎週月曜日の午後に面談することになった。ユングは、パウリの見た1000以上の「夢」を分析して、彼の「無意識」を「元型夢」で解き明かした。もともと「数学」と「神秘主義」が自然現象の解明に必要不可欠だと考えていたパウリは、ユングの「集合的無意識」の理論に感銘を受けた。そして1958年12月15日にパウリは亡くなった。この往復書簡集ではパウリが亡くなるまでの、彼の心の中を見ることができる。

書簡集の冒頭1934年4月28日、ユングからパウリの手紙を見ると、パウリの結婚を祝福する言葉が見える。パウリは1934年4月4日に、ロンドンでフランカ・ベルトラムと結婚した。1933年にユング派の学者のホームパーティーでフランカと出会ったのがきっかけだった。当時フランカはロシアのオーケストラのマネージャーをしていて、各地を広く旅していたと言う。これもパウリの母同様に当時の女性としては破格の活動的な人で、そんな才能ある女性にパウリはひかれたのも知れない。これはパウリの生涯二度目の(そして最後の)結婚で、その前には1929年にキャバレーの踊り子だったケッテ・デップナーと結婚したが、その結婚は間もなく破綻した。新妻は11月には薬剤師のもとに走った。事情は少し違うが、ヘルマン・ヘッセの最初の結婚がルート・ヴェンガーと言う、美しい、妖精のような容姿の女性とのメルヘンチックな結婚であったことと少し似ているかも知れない。ちなみにヘッセは三度の結婚をし、三度目のニノン夫人(ユダヤ系)との結婚で心の平安を得た。同じ頃ヘッセもスイスにいたが、パウリのドイツ語圏のチューリヒではなくイタリア語圏のテッシン(ティツィアーノ)にいたので、接触はなかった。

フランカはいい意味で? しっかりした女性だったようで、パウリのユングとの往復書簡集も、なかなか公開に首を縦に振らなかったと言う。往復書簡集の訳注を見ると、パウリはデップナーとの離婚で精神的な不調をきたした。二度目の妻フランカはユングに対してよく思っておらず、パウリとの関係でライバル意識もあったそうだ。パウリがユングとの治療関係を終わらせたことにも、フランカの影響があったと言う。そのためパウリとユングの往復書簡集は、フランカが1987年に亡くなってからその企画が進んだ。

1934年4月28日のユングへの手紙で、パウリは5月に月曜日のセッションを再開できるかユングに打診している。時刻は12時。別の手紙で11時に時間調整している記述があったので、おそらく精神分析セッションの時間は一度に一時間程度と思われる。精神分析医が集中できる時間の限界とも思われる。

https://www.cgjunghaus.ch/

Haus C.G. Jung博物館
ユングのキュスナハトの家は博物館になっていて見学できる。

チューリヒからもほど近く湖畔にあり、ここでパウリはユングの精神分析を受けた。


さて、当時カール・ユングは、チューリヒ州キュスナハトに豪壮な館を持ち、チューリヒ湖が見える窓辺の寝椅子で精神分析にあたった。ユングの精神分析は大人気で、館には治療を待つ人が多く訪れた。精神分析っていくらくらいするのだろうか? 高名な心理学者のユングは、患者から一時間いくらくらい取ったのだろう? 精神分析ではないが、私は個人的にカウンセリングというものを受けたことがある。誰にも相談できない悩みがあって、探して予約した。しかし、自分のことを一時間一方的にしゃべって、アドバイスをもらうでもなく、一万円も取られたのでがっかりした。ネットを検索するとユング派の精神分析をやっている団体もあって、そこは一時間数千円だった、カウンセリングだと、だいたい私と同じような感じで一万円が相場のようだ。ユングは人気の精神分析医だったので、もしかすると数万円とか取ったのかも知れないが、想像の範囲をまったく越えない。

二人はこのように医師と患者という関係だったが、1934年10月26日の手紙で、パウリは自分の精神的問題が1つ2つ残っているが、夢の解釈を終わらせる必要を感じていると書いている。それと同時に、パウリは同僚の物理学者、パスクァル・ヨルダンの論文を同封し、それが『自然科学』誌の編集者から査読のためパウリに送られてきて、パウリはその内容(超心理学、テレパシー)に適切な注釈をつけることにより、非難を受けることはないだろうと書いている。そして、これを出版すべきかユングの意見を聞いている。

1934年10月29日付けのユングの答えは「ヨルダンの論文を出版すべきである」というものだった。たぶんこの論文の件がきっかけで、そしてパウリが患者としてユングの精神分析を受けなくなったことで、彼らは医師と患者という関係から、物理学と心理学という二つの学問を互いに考えるようになった。20世紀当時は、物理学だけでも、量子力学、原子物理学、素粒子物理学、核物理学など専門が再分化され、学者たちはそれぞれの狭い分野で深く研究を行いがちだった。その状況の中で見ると、パウリとユングが、お互いの専門知識を尊重しながら、物理学と心理学について一緒に考え始めたのは新しいことだった。パウリは普通の物理学者と異なり、ユングが中世の錬金術や数秘術(カバラ)を持ち出しても馬鹿にすることは決してなかったし、ユングも謙虚にパウリから最新の物理学について学んだ。彼らは論文を交換し、互いの専門分野の学会で講義を行った。

パウリは名前と職業を伏せることを条件に、ユングが論文の中でパウリのスケッチや線画を利用することを許可した。彼らの間には精神分析のセッションを通じて、互いに信頼関係が構築されていた。

パウリはチューリヒ工科大学(ETH)で理論物理学の教授として働き、カール・ユングは精神分析医として同じチューリヒにいた。二人ともときどき、パウリはアメリカに行ったり、ユングはパリで講演したりと、それぞれの分野で高名な学者だった。その二人が本業の間に、書簡を取り交わしたり、お互いの学会に参加したりして、共同作業を行った。物理学と心理学の間に現代的な橋渡しがされた。二人の居所が近かったというのも良かった。しかし、パウリの方の都合でこの共同作業に中断があった。

1938年3月12日、ナチスドイツがオーストリアを併合した。ちなみにこれはドイツ語で「アンシュルスAnschluß」と呼ばれ、この言葉は普通に工学的な意味の「接続」も表すが、私の中では脳内辞書の第一番目の訳語が「オーストリア併合」になってしまった。

これはベルリンでアインシュタインやリーゼ・マイトナー、オットー・ハーンなどすばらしい同僚たちと充実した研究生活をしていたエルヴィン・シュレーディンガーにも、同じオーストリア国籍でスイスで仕事をしていたパウリにも、似たような問題をもたらした。繊細なシュレーディンガーは、ナチスドイツの支配下で今までのような自由な研究生活は不可能と即座に判断し、ドイツを脱出した。パウリはドイツのパスポートでスイスに在住ということになり、ユダヤ人の血を持つパウリにとっては切迫した危険が発生した。パウリはそれまで、ドイツにいた同僚の物理学者をイギリスやアメリカに亡命させる活動をしていたが、自分にその活動を適用して、アメリカ合衆国に渡る。

そのアメリカ合衆国に渡る前の最後のパウリからユングへの手紙が、1940年6月3日付けとなっている。それ以前にパウリはユングに、1935年10月2日、例の夢の出版について、職業と名前が示されないことを条件に許可する手紙を、ニュージャージー州プリンストン、プリンストン大学大学院数学科高等研究所、ファインホールから送っている。パウリは手紙の末尾に「私はここがとても気に入っています。上記住所には(来年の)4月末までおります」と書いている。

再婚とプリンストン高等研究所
2023年03月02日 更新
高橋昌一郎(國學院大學教授)氏
https://voice.php.co.jp/detail/10103?p=2

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1940年5月、スイスがナチス・ドイツに包囲されると、パウリとフランカは命懸けで脱出し、8月24日にニューヨークに到着した。

パウリを誰よりも温かく迎えたのが、アインシュタインである。彼は、パウリをプリンストン高等研究所教授に招聘されるように推薦し、共同研究を始めた。原爆開発が始まると、パウリはロスアラモス国立研究所に協力を申し出たが、ロバート・オッペンハイマー所長は丁重に断った。原爆に関わる精密機器が「パウリ効果」で破壊されることを恐れたためだといわれている。

1945年のノーベル物理学賞は「排他原理の発見」によりパウリに授与されることが決まった。アインシュタインは、高等研究所で祝賀会を開催し、「パウリこそが私の後継者だ」と最高級の祝辞を述べた。

1946年、チューリッヒに戻ったパウリは、ユングと本格的な共同研究を始めた。晩年のパウリは、「物理学と心理学を融合」させなければならないと考えるようになっていた。とくにパウリが興味を抱いたのは、ユングの「シンクロニシティ(共時性)」という概念である。ユングは、ある瞬間に世界で起こる出来事は、すべてが巨大な「集合的無意識」で繋がっていて、それが「共時性」を生じさせるとみなしていた。

(中略)

パウリも、量子論的にすべてがネットワークで結びついている世界を想定し、しかもミクロの世界では粒子の因果関係を確率的にしか説明できないことから、「非因果的連関」に関する理論が必要だと考えていた。

二人は、共同研究の成果を『自然現象と心の構造――非因果的連関の原理』に共著でまとめ、1952年に発表した。この書籍は、世界中で大きな反響を呼んだ。
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パウリは若くしてアインシュタインの相対性理論について解説した。その後、百科事典の記事として相対性理論について詳しい解説を出版した。それはアインシュタインが絶賛するほどのものだった。そして、プリンストン大学でも、アインシュタインは上記のようにパウリをプリンストン高等研究所教授に招聘されるように推薦し、共同研究を始めた。

その後、六年間のブランクの後、パウリからユングへの手紙の日付は1946年10月25日である。
それからパウリは、1947年12月23日付けの手紙で、ユング研究所設立発起人就任を快諾した。それから物理学者パウリと心理学者ユングの本格的な共同研究が始まる。





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