第8話 ガモフさんとパウリの新事業

文字数 4,892文字

ガモフさんがまた新しいことを考えた。
それは理論物理学者をはじめとする有名科学者のロゴ作りである。次の13人の物理学者とその業績が何か分かるかな? ソルベー会議と違うから偉い順ではありません(笑)。(Pinterest/Wikipediaより)

バーのツケがたまっていたパウリは、早速協力を申し出た。そして、ちゃっかり自分のロゴを作った。パウリの排他原理をデザインして、反対向きのスピンを持つ電子が描かれている。


1.ウォルフガング・パウリ
ヴォルフガング・エルンスト・パウリ(Wolfgang Ernst Pauli, 1900年4月25日 - 1958年12月15日)は、オーストリア生まれのスイスの物理学者。スピンの理論や、現代化学の基礎となっているパウリの排他律の発見などの業績で知られる。


2.ヴェルナー・ハイゼンベルク
ヴェルナー・カール・ハイゼンベルク(Werner Karl Heisenberg, 1901年12月5日 - 1976年2月1日)は、ドイツの理論物理学者。行列力学と不確定性原理によって量子力学に絶大な貢献をした。


3.ニールス・ボーア
ニールス・ヘンリク・ダヴィド・ボーア(デンマーク語: Niels Henrik David Bohr、1885年10月7日 - 1962年11月18日)は、デンマークの理論物理学者。量子論の育ての親として、前期量子論の展開を指導、量子力学の確立に大いに貢献した。王立協会外国人会員。ユダヤ人。
コペンハーゲンに生まれ、1903年にコペンハーゲン大学に入学。1911年にイギリスへ留学し、キャヴェンディッシュ研究所にてジョゼフ・ジョン・トムソンの下で研究を行った後、1911年にマンチェスター大学のアーネスト・ラザフォードの元で原子模型の研究に着手した。
その後、コペンハーゲン大学に戻り、ラザフォードの原子模型の欠点をマックス・プランクの量子仮説を用いて解消し、1913年にボーアの原子模型を確立した。
1921年にコペンハーゲンに理論物理学研究所(ニールス・ボーア研究所)を開き、外国から多くの物理学者を招いてコペンハーゲン学派を成することになる。原子物理学への貢献により1922年にノーベル物理学賞を受賞。

その後も、ヴェルナー・ハイゼンベルクらの後進とともに、量子力学(行列力学)の形成を推進。1926年、エルヴィン・シュレーディンガーが波動力学を発表したときには、コペンハーゲンに招きよせ、討論に疲弊して倒れたシュレーディンガーの病床で議論を続けたことは有名である。議論の場においては決して手を抜かない性格であった。ところが、ハイゼンベルクとは意見が対立するようになり、疲れ果てたボーアは、ノルウェーにスキーに出かけた。

アルベルト・アインシュタインが量子力学に反対するようになると、尊敬するアインシュタインとも論争を続けて説得しようとした。有名なエピソードにマックス・ボルン宛にアインシュタインが書いた手紙("Gott würfelt nicht." 神はサイコロを振らない)に反論した名言("Schreiben Sie Gott nicht vor, was er tun und lassen soll." 神に何をなすべきか、何をなさざるべきかを貴方が語るなかれ)がある。ボーアは社交的な人柄だったので、多くの物理学者から慕われ、量子力学の形成に指導的役割を果たした。


4.マリー・キューリー
マリア・サロメア・スクウォドフスカ=キュリー(ポーランド語: Maria Salomea Skłodowska-Curie, 1867年11月7日 - 1934年7月4日)は、現在のポーランド(ポーランド立憲王国)出身の物理学者・化学者である。フランス語名はマリ・キュリー(Marie Curie、ファーストネームは日本語ではマリーともいう)。キュリー夫人 (Madame Curie) として有名である。
放射線の研究で、1903年のノーベル物理学賞、1911年のノーベル化学賞を受賞し、パリ大学初の女性教授職に就任した。1909年、アンリ・ド・ロチルド(1872-1946年)からキュリー研究所を与えられた。放射能 (radioactivity) という用語は彼女の発案による。



5.エルヴィン・シュレーディンガー
エルヴィン・ルードルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー・シュレーディンガー(ドイツ語: Erwin Rudolf Josef Alexander Schrödinger [ˈɛɐ̯viːn ˈʃʁøːdɪŋɐ]、1887年8月12日 - 1961年1月4日)は、オーストリア出身の理論物理学者。シュレディンガーとも表記される。
1926年に波動形式の量子力学である「波動力学」を提唱。次いで量子力学の基本方程式であるシュレーディンガー方程式や、1935年にはシュレーディンガーの猫を提唱するなど、量子力学の発展を築き上げたことで名高い。


6.ルイ・ド・ブロイ
ルイ・ド・ブロイ(Louis Victor de Broglie)こと、第7代ブロイ公爵ルイ=ヴィクトル・ピエール・レーモン(Louis-Victor Pierre Raymond, 7e duc de Broglie 、1892年8月15日 - 1987年3月19日)は、フランスの理論物理学者。
彼が博士論文で仮説として提唱したド・ブロイ波(物質波)は、当時こそ孤立していたが、後にシュレディンガーによる波動方程式として結実し、量子力学の礎となった。



7.リーゼ・マイトナー
リーゼ・マイトナー(Lise Meitner、1878年11月7日 - 1968年10月27日)は、オーストリア出身の物理学者である。放射線、核物理学の分野を研究した。核分裂の発見などに大きく貢献したほか、新元素プロトアクチニウムの発見などの業績がある。
1907年から1938年までドイツのベルリンで研究したが、ナチスから亡命し、その後は主にスウェーデンのストックホルムで研究活動を続けた。
フランクフルトのブックフェアに行ったとき、リーゼ・マイトナー通りがあった。
13人の物理学者の中で、ノーベル賞を取っていないのはマイトナーだけ。当時の女性差別とユダヤ人差別という二重の差別を受けたからだ。ベルリンで同僚だったアインシュタインは、マイトナーを「われらのマダム・キューリー」と絶賛した。



8.アインシュタイン
アルベルト・アインシュタイン(独: Albert Einstein、1879年3月14日 - 1955年4月18日)は、ドイツ生まれの理論物理学者。ユダヤ人。スイス連邦工科大学チューリヒ校(ETH)卒業。
特殊相対性理論および一般相対性理論、相対性宇宙論、ブラウン運動の起源を説明する揺動散逸定理、光量子仮説による光の粒子と波動の二重性、アインシュタインの固体比熱理論、零点エネルギー、半古典型のシュレディンガー方程式、ボース=アインシュタイン凝縮などを提唱した業績で知られる。当時は"無名の特許局員"が提唱したものとして全く理解を得られなかったが、著名人のマックス・プランクが支持を表明したことにより、次第に物理学界に受け入れられるようになった。


9.アーネスト・ラザフォード
初代ネルソンのラザフォード男爵アーネスト・ラザフォード(英: Ernest Rutherford, 1st Baron Rutherford of Nelson, OM, FRS, 1871年8月30日 - 1937年10月19日)は、ニュージーランド出身、イギリスで活躍した物理学者、化学者。
実験物理学の大家。α線とβ線の発見、ラザフォード散乱による原子核の発見、原子核の人工変換などの業績により「原子物理学の父」と呼ばれる。
ラザフォードはボーアの師で、ボーアはラザフォードの開かれた研究所を手本にした。ボーアは、1911年にマンチェスター大学のアーネスト・ラザフォードの元で原子模型の研究に着手した。


10.ロバート・オッペンハイマー
J・ロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer、1904年4月22日 - 1967年2月18日)は、アメリカ合衆国の理論物理学者。
理論物理学の広範な領域にわたって大きな業績を上げた。特に第二次世界大戦中のロスアラモス国立研究所の初代所長としてマンハッタン計画を主導し、卓抜なリーダーシップで原子爆弾開発の指導者的役割を果たしたため、「原爆の父」として知られる。


11.ポール・ディラック
ポール・エイドリアン・モーリス・ディラック(Paul Adrien Maurice Dirac [dɪˈræk]、1902年8月8日 - 1984年10月20日)は、イギリスのブリストル生まれの理論物理学者である。量子力学及び量子電磁気学の分野で多くの貢献をした。1933年にエルヴィン・シュレーディンガーと共にノーベル物理学賞を受賞している。1932年からケンブリッジ大学のルーカス教授職を務め、最後の14年間をフロリダ州立大学の教授として過ごした。


12.エンリコ・フェルミ
エンリコ・フェルミ(Enrico Fermi、1901年9月29日 – 1954年11月28日)は、イタリア、ローマ出身の物理学者。
統計力学、量子力学および原子核物理学の分野で顕著な業績を残しており、中性子による元素の人工転換の実験で新規の放射性同位元素を数多く作った。1938年にノーベル物理学賞を受賞した。また、マンハッタン計画に参画し、世界初の原子炉の運転に成功し、「核時代の建設者」「原子爆弾の建設者」とも呼ばれた。
フェルミに由来する用語は数多く、熱力学・統計力学のフェルミ分布、フェルミ準位、量子力学におけるフェルミ粒子、原子核物理学のフェルミウムの元素名の他、フェルミ推定の方法論やフェルミのパラドックスという問題にその名を残している。実験物理と理論物理の双方において世界最高レベルの業績を残した、史上稀に見る物理学者であった。


13.ジョージ・ガモフ
ガモフさんのロゴはなかったので、代わりに著者を表示。
ジョージ・ガモフ(George Gamow, Джордж Гамов, Гео́ргий Анто́нович Га́мов, ゲオルギー・アントノヴィッチ・ガモフ、1904年3月4日 - 1968年8月19日)は、ロシア帝国領オデッサ(現在はウクライナ領)生まれのアメリカの理論物理学者。アレクサンドル・フリードマンの弟子。

1928年に、放射性原子核のアルファ崩壊に初めて量子論を応用し、それが原子核の周りのポテンシャル壁をアルファ粒子がトンネル効果で透過する現象であるとの理論をたてて、それまで実験的に知られていたガイガー・ヌッタルの法則を導いた。
1929年、レニングラード大学で博士号を取得後、ゲッティンゲン、ケンブリッジ、コペンハーゲンを経て、1931年にレニングラードに戻る。1931年には原子核物理学の教科書をオックスフォード大学から出版、1933年にロシアを離れて妻とアメリカに渡ると、1934年にジョージ・ワシントン大学で教授職に就き、1956年まで勤めた。
また同年、α-β-γ理論を元にして「火の玉宇宙」というアイディアを発表し、ジョルジュ・ルメートルの提唱した膨張宇宙論を支持。宇宙背景放射の存在を予言した。彼の予想値は5Kであったが、測定の困難さから、実際にこれを検出する努力はなされなかった。
当時の科学界ではビッグバン理論と定常宇宙論とが対立する構図になっていたが、1965年に偶然に約3Kの宇宙背景放射が発見され、一躍その優位が確定的になり、現在では標準的な宇宙理論として受け入れられている。


ハイゼンベルクやパウリも晩年尽力した素粒子物理学の魅力的な素粒子「チャーム・クォーク」のぬいぐるみ
ガモフ旅行社でもロサンゼルス直輸入で扱い始めたとか!!
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