(二十九)ほたる駅

文字数 4,858文字

 暗い窓ガラスの彼方に明滅する光が現れた。何だろう、あの光は?ネオンライトのようにも見えるが。列車は光へと近付いていった。ゆっくり、ゆっくり。そして列車は止まった。
 そこは駅だった。
 では、ここがほたる駅か?瞬く光はほたる?わたしはホームの端から端まで見渡した。無数のほたるの火が駅を包み込むように飛んでいた。わたしは息を飲みその幻想的な風景に魅せられた。辺りは心臓の鼓動さえ聴こえる程静かだった。

 ふと物音が静けさを壊した。何だろう?音のした方角に目を移した。ホームの外れ。そこに人影があった。何?どうして今まで気付かなかったのだろう?ほたるの光に魅せられていたせいか?わたしは恐る恐るその人影を見た。男のようだが。ひとり、ふたり、四人だ。男たちは椅子に座りひとつのテーブルを囲んでいた。何をしているのだろう?わたしは気になった。列車を降りて近付いて見ようか?わたしは迷った。その時ひとつのほたるの火がわたしの窓辺に降りてきた。その光はわたしを誘うように瞬いた。わたしについて来い、とささやく様に。わたしはほたるの後を追って列車を降りた。ほたるの火の渦の中をホームの外れへと歩いた。わたしが男たちの前に辿り着くと、わたしを導いたほたるは光の群れの中に消えわたしだけが残された。我に返ったわたしは男たちを見た。男たちはまだわたしに気付いていなかった。
 男たちはそれぞれ手に何かを持っていた。何だろう?恐る恐るわたしは男たちに近付き、それを見た。それはカードらしきものだった。トランプ?何だ、トランプ遊びか?わたしは緊張が解け,体の力が抜けた。しかし、こんな所でなぜトランプなど。その時ほたるの火が一斉に点った。何という眩しさだろう。あたりは昼間のように明るく映し出された。
 その時わたしは見た。男たちが手にしたカードの中に『文字』が記されているのを。ん、何だ?その文字は?何と書いてあるのだ?わたしはどうしても何と書いてあるのか知りたくてついつい顔を近付けカードを覗き込んだ。ところがそれでも男たちはわたしに気付かなかった。はて?なぜだろう?男たちを気にしながらもわたしは大胆にカードの文字を読んだ。それぞれ四枚のカードにはこう記されていた。
 "kyouto"
 "hirosima"
 "yokohama"
 "kokura"
 なに?これは、あの国の、都市の名前ではないか。一体どういうことだ?再びほたるたちが点滅を始めた。その点滅のリズムはわたしの心臓の鼓動と重なった。
「おい」
 思わずわたしは男たちに向かって叫んだ。
「きみたちは、何をしているのかね?」
 けれど男たちは動かなかった。もしかしてわたしに気付いていないのか?わたしが見えないのか?その時背後で誰かが叫んだ。
「国務長官ーー!」
 すると男たちは一斉に振り返った。彼らの目はわたしを飛び越え、わたしもつられて振り返った、するとそこにわたしの目の前にひとりの男が立っていた。その時不思議な現象が起こった。叫んだ男はそのまま前進しわたしと正面からぶつかった。確かにぶつかったはずだった。ところが何と!気付いた時男とわたしは一体化し(わたしの存在は失われ)、男は何もなかったようにテーブルの男たちへと歩いていった。
 その男とは科学者Sだった。どうしてきみはこんな所へ?しかもたったひとりで。
『きみ、聴こえるかね?』
 わたしは彼の内部から彼に向かってささやいてみた。けれど反応はなかった。やはりわたしの声は聴こえないのか?けれど彼の内部にいる以上なんとなく彼の気持ちはわかる気がした。おそらくはあの新型爆弾製造の計画中止を訴えに来たのだろう。
 きみもやっと気付いたのだね。わたしたちの手紙からすべては始まり、やがて時は流れ、今やドイツは降伏し、あの国だけが残された。
「わたしの話を聴いて下さい」
 彼は叫んだ。わたしは何とか彼の力になりたいと思ったが、今のわたしは彼の内部にいながら為す術もなくただ彼と男たちとのやり取りを傍観しているしかなかった。
「まあまあきみ、落ち着きたまえ」
 ひとりの男が立ち上がった。
「国務長官、ぜひお話を」
「わかった、わかった。ではあそこで話そう」
 国務長官と呼ばれた男は列車を指差し列車へと歩いた。彼は国務長官と呼ばれた男の後を付いていった。
 列車の中で行われたふたりの会談は平行線を辿った。彼は最後まで必死で食い下がった。
「もういいかね?」
 国務長官と呼ばれた男は立ち上がった。
「委員会を待たせてあるのだよ」
「委員会?何の委員会ですか?」
 彼は尋ねた。
「重要な」
 答えながら国務長官と呼ばれた男は列車のドアへと歩き出す。彼は国務長官と呼ばれた男を逃がすまいとして咄嗟に国務長官と呼ばれた男の腕を掴んだ。
「離したまえ、きみ」
 国務長官と呼ばれた男は彼の手を振り払おうと彼を突き放した。その拍子に彼は転んで列車の床に倒れた。
「痛い」
 彼が叫んだその瞬間スーッとわたしは彼から離れた(再びわたしはわたしとして存在した)。彼は倒れたまま立ち去ってゆく国務長官と呼ばれた男の背中に尋ねた。
「何の委員会ですかーーーっ?」
 国務長官と呼ばれた男は振り返り静かに答えた。
「標的委員会」

「標的?」
 わたしは彼を列車に残し、国務長官と呼ばれた男の後を追った。ホームにはほたるの火が瞬いていた。その心臓の鼓動にも似た光の明滅は生命の美しさ、はかなさをわたしに語りかけた。限りある生命を懸命に生きようとする生きものの、そして人々の生命の輝き、瞬き、吐息、鼓動。
「標的委員会とは何だ?」
 わたしは大声で叫んだ。けれど気付く者は誰もいなかった。わたしの脳裏に男たちが手にしていたカードの文字が甦った。
 "kyouto"
 "hirosima"
 "yokohama"
 "kokura"
 まさか。いやもしかして標的とは新型爆弾投下の標的のことか?
 待て、きみたち!
「いや、待たせたね」
 国務長官と呼ばれた男はホームの外れのテーブルに戻った。
「科学者との会談は済みましたか?」
「ああ、なんとか」
「それでは委員会を始めましょう」
 ひとりの男が一旦カードを集めた。
「別のカードをひとつ加えます」
 男たちの間で議論が交わされ、時が過ぎた。
「それでは、この中から選んで下さい」
 カードを持っていた男が三人の男たちの前にカードを広げた。そして一人の男がカードを引いた。カードにはこう記されていた。
 "kyouto"
 また別の男がカードを引いた。カードにはこう記されていた。
 "hirosima"
 最後の男がカードを引いた。カードにはこう記されていた。
 "niigata"
 突然ほたるの火が消えた。辺りは暗黒と沈黙の中に沈んだ。なんということだ。標的とは新型爆弾を投下する都市のことではないか。都市。川が流れ、風が吹き、雨が降り、雪が舞い、朝が訪れ、昼と夜が流れ、四季が駆け巡る。時の流れの中、そこでは幾千万の人々が生き暮らし、花や草や木や動物、虫たちが生きている。なのにその生命を運命をまるでトランプカードで決めるかのように、委員会などと。
 今や世界は暗黒と沈黙の中に沈んでいる。もはやわたしの力ではどうにもならない。この世界には、どうやらわたしの力など及びもしない何か、この世界を意のままに動かす闇の力が存在するようだ。

「大統領」
 再びほたるの火が灯った時そこには一人の男が立っていた。男はじっとわたしを見ている。ん?わたしがわかるのか?男はもう一度叫んだ。
「大統領」
 辺りを見回したが誰もいない。
「わたしのことかね?」
 不安そうにわたしは尋ねた。
「勿論ですとも」
 男は大きく頷いた。誰だろう?見覚えのある顔。
 そうだ。わたしは思い出した。男は、街灯り駅で大統領と呼ばれたわたしにマンハッタン計画について説明した陸軍長官Sだった。
「ああ、きみか」
 わたしは手を差し出し握手を交わした。
「委員会の報告に参りました」
 男は言った。
「委員会?」
 また委員会か?何の委員会だ?男とわたしはベンチに腰を降ろし、わたしはほたるの火を見つめた。男は話を始めた。
「委員会の結論としまして」
「うん」
「あの国に対する事前の警告ですが」
 なに、あの国に対する事前の警告?何の警告だ?そして何の事前?ほたるの火から目を離しわたしは男を見た。男の目にほたるの炎が映っていた。
「事前の警告は、行わないということで決定しました」
 ん?事前の警告は行わない?だから何の警告なのだ?
「ということは?」
 わたしは冷静を装い問い返した。
「警告なしで投下するということです」
 なにーーーーー。
 警告なしで投下?投下とは勿論あの新型爆弾投下のこと?
 それでは新型爆弾を警告なしにあの国に投下すると?まさか、なぜ?
「そうか、わかった」
 けれど大統領と呼ばれたわたしの口から出た言葉はそれだった。自分の口でありながらなぜか思うように動かすことが出来なかった。まるで時の流れが既に過ぎ去った過去への抵抗を拒むかのように。わたしの頭の中はまっ白になり、わたしの心は灰色の雲で覆われた。なにがなんだかわけがわからない。どうして世界はいつもこんなふうに最悪の選択をしてしまうのだ?
 なぜ?なぜ警告をしないのだ?警告をすればあの国が降伏を選択するかもしれないではないか?そうなればもはや投下の必要などなくなる。なのになぜ?
 まさか?これではまるで最初から投下が、投下することが目的?
「ご苦労だった」
 けれど大統領と呼ばれたわたしの口から出た最後の言葉はその一言だった。
 そしてすべてのほたるの火は消えた。まるでわたしの希望の灯がすべて消え去るように。今わたしはただここにこうして抜け殻として存在しているに過ぎなかった。
 男はベンチから立ち上がり歩き始めた。
「きみ」
 ふいに口が軽くなり大統領と呼ばれたわたしは男を呼び止めた。男は不安げに振り返った。わたしは尋ねた。
「きみ、今日は何日だったかね?」
「え?」
 男は少し間を置いて答えた。
「6日です。6月6日」
「ああ、6月6日か」
 その時突然雨が降り出した。激しい雨だ。雨にずぶ濡れになりながらわたしは男に向かって話しかけた。
「まるでTsuyuのようだね」
「Tsuyu?」
 男は尋ねた。
「あの国のね。6月から7月にかけて雨季があるのだが。その時期をあの国ではTsuyuと呼ぶのだよ。それは激しい、それは、それはまるで空が号泣、号泣しているかのような激しい雨なのだ。そしてその季節が終わると待っていたかのように暑い暑い夏が訪れる」
「大統領、感傷的になられるのもわかりますが、今は」
「わかっているよ。呼び止めてすまなかった」
 男は再び歩き出し雨の彼方に消えていった。雨の中に取り残されたわたしはしばらくそこに立っていた。ずっと立っていた。ずっといつまでも、いつまでも立っていたかった。

 傘に当たる雨音で我に返った。振り返ると車掌が立っていた。車掌の傘がやさしくわたしを包んでいた。
「そろそろ発車の時刻でございます」
 発車か。
 けれどわたしはもうこれ以上先に進みたくなかった。出来るなら引き返したかった。或いはずっとこの駅にいてこの雨に濡れていたいと思った。けれどそれは叶わぬことだとわかっていた。時を止めることが人には叶わぬ願いであるように。
「ああ、そうだったね」
 傘に当たる雨音を聴きながらわたしは答えた。
 わたしたちが列車に乗ると雨はぴたりと止んだ。すぐに汽笛が鳴りドアが閉まった。列車は暗い駅のホームをゆっくりと走り出す。とうとうほたるの火は消えたままだった。もう一度あのほたるの火が見たかった。あの生命の灯し火を。わたしは何度も何度もまっ暗なほたる駅のホームを振り返った。
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