(九)波音

文字数 1,068文字

 なぜか急に寒くなった。吐く息が白い。肌寒いといったものではない、凍りつく寒さだ。わたしの体はがたがた震えた。何だ、この寒さは?
 窓に目をやるとちらほら白いものが舞っていた。
 何だろう?灰か何かか?
 いや違う。もしかして、それは?
 雪だった。雪!
 なるほどこれでは寒いはずだ。なにしろわたしは夏の服装をしているのだから寒くて仕方がない。体中の震えは止まらず歯と歯が震えてぶつかり合った。誰かどうにかしてくれ!
 窓を見ると雪はもう吹雪になっていた。そして遠く何処からか爆発音が聴こえ始めた。またか。けれど今度は爆発音に混じって微かだが何か別の音が聴こえた。それは静かな、何の音だろう?わたしは耳を澄ませた。
 それは波の音だった。波音は不思議にわたしを包み込んだ。身も心も波音に包み込まれわたしはしばし寒さも爆発音も忘れた。ただ目を閉じて見知らぬ港の風景を思い描いた。夜明けの港に打ち寄せる波、打ち寄せては波が砕け散る。砕け散る波また波の波音。海にはまだ微かに星明りが映っている。やがて夜が明け、朝焼けが海を染めてゆく。
 突然わたしは目を開いた。波音が消え別の音がわたしの耳を襲ったのだ。それはノイズだった。しばらくするとまたもやノイズの中から声が聴こえてきた。今度は何だ?声は叫んだ。
『奇襲攻撃』
 何?
『あの国が、真珠湾を奇襲攻撃しました』
 え?
『大統領の要請により、議会はあの国に宣戦布告いたしました』
 何!
 声もノイズもすぐに消え、後には爆発音と微かに聴こえる波音だけが残された。

 あの国。
 大統領の要請。
 そうか、その時彼の着ていたスーツは素敵だったかね?
 大統領顧問の男に尋ねてみたかった。あの国に宣戦布告を要請した時の彼のスーツは素敵だったかね?
 窓の外はもう雪でまっ白になっていた。わたしは寒さに震えていた。
 それにしても奇襲攻撃とは?
 外交暗号を解読したのではなかったのか?

「どうかなさいましたか?」
 車掌だった。震えながらわたしは答えた。
「寒いのだ。毛布か何かないかね?」
「寒い?」
 車掌は不思議そうに尋ねた。
「雨だからですか?」
「雨?」
 わたしは怒ったように車掌を睨んだ。
「何を言っているのだ。雪だよ、ほら」
 叫びながらわたしは窓を指差した。しかしそこには。
 え?
 わたしは開いた口が塞がらなかった。雪は融け、というより初めから雪などなかったかのように外にはただ雨が降っていた。しかももう寒くなどなかった。
「どうなっているのだ?」
「毛布はいりますか?」
 車掌は意地悪そうに尋ねた。
「もう結構だ」
 わたしは不機嫌に答えた。
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