(十三)電話ボックス

文字数 1,765文字

 列車は何事もなかったように走り出した。幻のように見えた一点のあの光もすぐに山の暗黒の中に消え去り、荒涼とした風景だけが延々と続いた。わたしは眠気を覚え睡魔の中に吸い込まれた。
 しばらく取りとめのない夢の中を彷徨っていたが突然わたしは目を覚ました。列車はまた止まっていた。わたしは車掌を呼ぼうとしてけれど止めた。何か、車内はまっ暗で何も見えなかった、その闇の中でわたしは何かが、何かが起こる予感を覚えた。
 何だ?
 わたしは黙った。黙ってそれを待った。そしてわたしはそれを見た。
 それは、火だった。
 火!
 遠い遠い闇の彼方に今迄一度として目にしたことのない火が燃えていた。それは一瞬で消えた。
「何だ?何だったのだ、今のは?」
 我に返ったわたしは静かにつぶやいた。

 闇が一瞬にして消え景色が戻った。列車はすでに動いていた。いつ山を抜けたのか列車は夜明けの街を走っていた。
 何だったのだ?今の出来事は。
 けれど考える間もなく今度は寒さが襲ってきた。寒さ、何という寒さだ。わたしの体はがたがた震え出した。外を見ると雪こそ降っていないが明らかに冬景色だった。
「冷えますねぇ」
 突然の声。振り向くと車掌が衣類を持って立っていた。
「よかったらお召しになりませんか?」
「ああ、ありがとう」
 けれど車掌が持っていた服は。
「何だね?これは」
「あいにくそれしか」
 それでも凍えて死ぬよりはましだと思いわたしはその服を着た。それはサンタクロースの衣装だった。
 サンタクロースの衣装を身にまとったわたしはぼんやりと流れる景色を見ていた。日が流れ夕暮れが訪れた。冬の日の夕暮れ、コートの襟を立てた人々が白い息を吐きながら慌ただしく歩いている。商店の看板にはクリスマスの文字。メリークリスマス。
 ふと何処からかベルのような音が聴こえた。
 何だろう?この音は。
 そう思った瞬間、声がした。
「電話ですよ」
 いつ現われたのか車掌がわたしの前に立っていた。
「電話?」
 なんと、この列車には電話機が付いているのか。車掌は電話に出るためか急いで姿を消した。ベルが止み車掌の声が洩れ聴こえて来た。
「もしもし。あ、少々お待ち下さい」
 受話器を置いて車掌が戻って来た。
「お電話です」
 なに、わたしに?一体誰からだろう?
「何処から?誰からかね?」
 わたしは緊張しながら尋ねた。車掌は答えた。
「サンタクロースからです」
「え?」
 車掌の答えに思わず吹き出した。
「サンタクロースの知り合いなどいないぞ」
「はあ、しかし急用のご様子ですが」
「何、急用?」
 仕方なくわたしは立ち上がり車掌の後に付いて電話ボックスの前まで歩いた。車掌がドアを開いた。
「どうぞ」
 わたしはボックスに入り恐る恐る受話器を耳に当てた。手が緊張していた。
「もしもし」
 心なし声も震えた。吐く息が白い。窓から外を見るとちらほら雪が降り出している。

「もしもし。わたしです」
 電話の向こうからは男の声。初めて耳にする声だった。初めて話す相手。ところがわたしはその声を聴いた瞬間にそれが誰なのかわかった。例によって大統領の時のように、せみしぐれ駅での大佐のように。
 電話の男はシカゴの科学者だった。そして男にとってわたしは実験の結果を報告する責任者だったのだ。実験。それは新型爆弾製造の基礎となる核分裂の連鎖反応実験。
「ああ、きみかね。どうした?」
 わたしの声はもう落ち着いていた。男はすぐには答えなかった。けれどもうわたしにはわかっている。一呼吸分の沈黙がわたしの耳を覆った。列車の窓に当たる雪の音さえ聴こえてきそうなほどの静けさだった。そして男は答えた。
「ブーツを履いたサンタクロースが銀世界に到着しました。 街の少年たちは熱烈に歓迎しました。以上」
 ツーー。ツーー。ツーー。
 そして電話は切れた。受話器の彼方からはもう沈黙しか聴こえない。深い深い沈黙。静かだ。静かな冬の夕べ。まるで少年の頃生まれて初めて教会で聖夜を迎えた晩のような静けさだった。
 わたしは受話器を握り締めたまま目を閉じて、さっき遠い遠い闇の彼方に見たあの火を思い出した。そうか、あれは新型爆弾を生み出すための新たなる火だったのだな。地球上で初めての、人類史上初の。
 もう引き返せないんですよ。もう、なにもかも。
 わたしたちは、そこへ向かっているのです。
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